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第一章:特急 後編

「席に戻ったぞ」

 人の少ない車両で、自分達の席に戻った途端、千鶴は先程よりも横柄な態度で言った。

「それがどうした?」

 さっと辺りを見渡し、席の人間に大きな変化がないことを確認し、また、すぐ近くの席にも人が居ないのを確認してから、俺は訊き返す。

「さっきの話の続きだ」

 察してくれることを期待して惚けて見せた俺だったが、千鶴はすぐに膨れた顔で言い返して来てしまう。

 言葉を吟味する習慣は、千鶴には無いらしい。

 嘆息して千鶴の目を見ると、う、と、息を呑んだが、それでも、どうしても訊きたいのか、腰が引けつつも尋ねる態度を改めずに俺を見詰め返し続けている。


 数分、見詰め合ってはみたが、千鶴も引かず、そもそも隠す程の事でも無かったので、いい加減飽き飽きし、俺は口を開いた。

「今後は、場所を選ぶと誓えるか?」

「誓う」

 千鶴は即答した。

 だから、余計に説得力が無かった。

 疑わしげな眼差しを向ける俺に、少し拗ねた顔をして、もう一度深く、誓う、と、頷いた千鶴。

 そんな行動のひとつで買えるほど、俺からの信頼は安くはないが、今はそれで良しとした。

「……まあ、いいだろう。それで?」

 何を知りたいんだ? と、視線で促すと、千鶴はどこか不貞たような顔をして、やや不満そうな口ぶりで話し始めた。

「ワタシはお前と逃げたが、そもそもワタシは、お前の事を何も知らない」

「どうでも良いだろう? 俺の事なんぞ」

 肩を竦めて見せながら、俺は言った。

 千鶴にとっても俺にとっても、互いの都合の時節が得られたから連れ立って逃避行を始めただけで、そこに特別な理由は無い。

 少なくとも、俺には。

 そして、おそらく、状況から察するに、切羽詰っていた千鶴にも。

 千鶴としては、ちょっと使い勝手の良い使用人程度の認識なんだと思う。

 一般家庭なら、見ず知らずの男からの誘いにはもっと警戒するだろうに、箱入り娘として育てられたせいで――おそらく、外で自由にさせる気は子爵にも、千鶴の婚約者にも無かったんだろう――、他人は従僕かなんかだと思い込んでしまう。危険云々以前に、手を噛まれる、とさえ夢にも思っていないはずだ。

 ふふん、と、自嘲と皮肉を混ぜた笑みを口の端に乗せる。すると――。

「どうでも良くは無い!」

 強く言い切った千鶴に視線だけで尋ね返すと、やや居心地悪そうにしながら顔を背けられた。

 顎に手を当て考えながら、千鶴の横顔をまじまじと見詰めると、表情の欠片に照れが見え、それで、口を噤んだ千鶴の言葉の続きに――俺の自惚れでなければ――、気付いてしまった。


 思いの外、稚拙な感情の変遷に、鼻白んでしまう。

 千鶴は精神的に未熟な部分が目立つし、彼女自身の頭の中では自然と――、簡単に想像出来る形で、俺と自分自身との距離を掴もうとした結果なんだろう。

 ……しかし、安易過ぎるのは、全く楽しめない。


 心の内面を素直に表情に出し、酷薄な薄ら笑いで俺は痛烈に皮肉った。

「何だ? 恋をしたい相手というのは、俺のことだったのか? ……恋とは、随分と簡単に出来るものだな。それなら、案外、許婚とやらとも、会って話せば蟠りは消えたかもしれないだろうに」

 千鶴は、すぐには答えなかった。

 俯いた顔や、強く握った指から、俺の言葉に打ちひしがれているのは分かったが、助け舟を出す気も、冗談にする気も俺には無い。安易な逃げ道を選ぶようなら、所詮、そこまでの女だったというだけだ。


 俺自身の感覚としても、都合良くそこに居たからという理由で、恋心を抱かれても迷惑だ。俺は、あくまで観客なんだから。

 演者は、ふさわしい相手を選ぶべきだし、そうした選ぶ目を持っていなくてはならない。


「……ひとつだけ理解しろ。お前は、ワタシの許婚と比べれば、遥かに素晴らしい相手だ。……今は、それだけだ」

 昨日の真夜中と同じような、絞り出す声で言い放った千鶴。

 無論、ただの一時凌ぎの強がりで、これからも依存の度合いを強めていくだろうという事は、声色や態度の端々から推察されたが、俺は台詞以上の物は見ない振りをした。

 その程度の褒め言葉だけなら受け取っておこう、という意味の、ひとつの意思表示として。また、必要だからただ側に居るだけの人間と、強い想いから執着する人間とは別であるべきだという線引きを、暗に示すためにも。


「出身は、千葉だ。薩長土肥ではないから中央へのコネはないが、早くに新政府に付いた地方の士族の家だから、上部への受けはまあまあだ」

 千鶴から引き出した強がりの褒章として、気の無い言葉で俺は簡単に身上を明かし始める。

 まあ、中央の連隊勤務者で言えば、ごくありきたりの部類の経歴だろう。特別、語るような苦労は無いし、鼻に掛けるような高貴な出自でも無い。

「良かったのか? ワタシと逃げて」

 沈んだ気分を引き摺ったままの声で、問い掛けてきた千鶴。


 唆した身で言える事ではないが、本来ならそれは、昨夜の内に千鶴自身が考え、覚悟を持って冷徹に命じるのが筋だ。

 望みを叶える為に、お前と、お前の家族を犠牲にさせてくれ――と。

 それを背負わずに、ただ、勢いと成り行きだけで命じた千鶴は、やはり幼く弱い。いつか、自分の行動によって起こされた事態に、……そこから生じる自責の念に押し潰されて仕舞いそうな程。

 ま、それならそれで、静かに壊れる過程と結末を見届けるのも一興ではあるが。


「悪いといえばどうする?」

 射抜くような目で千鶴を見据えると、肩を強張らせ縮こまったものの、それでも蚊の鳴くような声で言い返して来た。

「それでも、ワタシには、……これが最後の機会だった」

 これだ。

 俺は、こういう意思表示は嫌いでは無い。

 望みを叶えたいなら、誰かの犠牲は必須なんだ。変に正当化しない所は評価出来る。

 フン、と、ごく僅かに上向いた機嫌を口に乗せつつも鼻で笑い、左手を軽く払って、気にするなと伝える。

「元が妾腹だ、家に義理はない。それに、俺は俺が面白いと思うようにしか動かない」

 そう、所詮浮世の人生なんぞ業を尽くしてなんぼのもので、楽しければ善悪を顧みる気は俺には無い。

 軍で、決まりきった階段を年をおう毎に上るだけの人生に、未練なんて無い。刺激も無いし、面白みが無いからだ。

 むしろ、ある程度の階級になった後は、軍の資産を横流しして、それを元に大陸に渡って馬賊でも率いている可能性が高いんだし、それがちょっと早まっただけと思えば、好都合だったといえる。

 お姫様を攫っての火遊びなんて、西洋の寝物語のようで面白そうでもあるんだしな。

 果たして、俺から千鶴を取り返すのは、どこの王子様か、それともより腹黒い毒蛇なのかを思えば、ワクワクしてくる。


 俺の答えに安心したのか、さっきよりは幾分上向いた表情で――おそらく、俺の事は知ったので、今度は自分の事も知って欲しいというつもりなのだろう――、手始めに千鶴自身の家の事について、俺に尋ねて来た。

「岩倉の家は知っているか?」

「大佐から多少は。維新に際し、武功を上げた公家と」

 尤も、大佐はあまり語りたがる人間ではなかったので、武功の詳細も、血筋の縁起も聞いた事は無い。……まあ、大佐の先祖の武勇伝を聴きたかったかと云われれば、首を縦には振れない話ではあるが。

 そんな俺を他所に、千鶴は俺の言にもっともらしく頷き、それから神妙な顔で語り始めた。

「後は、ワタシ自身の事だが――、フフ。大した事は無いな。……あの家で、ずっと独りでいただけだ。他には何もない。異性は家族か使用人だけで、そもそも友すらいたことはない」

 自嘲するような笑みを浮かべながら語り終え、少し寂しそうな表情をした千鶴。

 女学校が出来たのはごく最近だし、千鶴の歳では、家で家庭教師を付けている方が普通なんだろう。

 普通の上流階級の身の上……だと思う、あくまで、俺の知見の範囲の話ではあるが。

 相槌も打たずに、真顔で聞いている俺に、千鶴が縋るような目を向けてきた。


 慰めが欲しいの……か?

 いまいち、その判断に自信は無かったが、フン、と、鼻で微かに笑って口を開く。

「友もいないとは、人望がないのか?」

 自分の事を棚に上げ、からかうように尋ねると、千鶴は気色ばんで言い返して来た。

「そういう意味ではない! 父上の息の掛かった人間と、親しく出来ないというだけだ」

 ムキになる辺り、図星のような気がしないではないが、そこまで苛めては可哀想だし、俺は見ぬ振りをした。

 だた――。

「成程……しかし、味方の一人もいないで、どうやって逃げ出せたんだ?」

 てっきり、あの手紙を渡して来た下女にでも手引きさせたのだと――千鶴にあまり聡い印象も、俊敏な印象も無かったからだが――思っていたので、少し引っかかりを覚え、素直にそれを訊いてみた。

 もし、なんらかの特技があるようなら、今後、是非とも見物してみたい。

 しかし、千鶴が得意げな顔で言い始めた内容は、俺の予想とは微妙に違っていた。

「家が大きければ、抜け道のひとつやふたつあってもおかしくはあるまい」

 随分な論理だとは思ったが、事実として千鶴は抜け出して今に至っているので、頭ごなしに否定は出来ない部分もある。

 釈然としない顔の俺を見て、にんまりと笑った千鶴が続けた。

「知っているか? ワタシは、ずっと前から抜け道があるのを知っていたのだ。上の馬鹿兄――ああ、違うぞ、お前の言う『大佐』ではなく、その下の二人の出来損ないの方だ。その馬鹿兄達が夜遊びに行くのを尻目に、いつかの為に気付かないフリをしていたのだ」

 成程。

 おそらく、千鶴の家の千鶴以外の誰かが開けた抜け道なんだろうが、使用人達はそれを指摘したら角が立つのを分かっていて、塞ぐ事もせず、見ない振りを決め込んでいたんだろう。

 ……子爵はそれに気付いていただろうか?

 いや、気付いていたとして――見張りは置かなかったのか?

 ……駅までの行動を顧みるに、尾行のあった様子もないし、もし誰か気付いた人間が居たのなら、ここまで非常線が全く張られていないというのはおかしな話だ。

 多少のしこりが無い訳ではないが、懸念材料では無いと判断する。

 判断した時、千鶴が物欲しそうな目で俺の顔を覗き込んできた。

「随分と用意周到で」

 多少、皮肉めいた口調で、そう一言褒めてみる。

「それだけか?」

 明らかに残念そうな素振りで、その一言で済ます筈が無いよな? と、詰め寄る千鶴。

「切り札は最後までとっておくのは基本だ」

 さも当然の事だとでも言うように、つまらなそうに俺は言い放った。

 そして、その台詞を聞いた千鶴がむくれるのを見届けてから、フ、と、僅かに相好を崩し、尋ねてみる。

「――が、まあ、褒美を出せないという事では無い。どうして欲しいんだ」

 途端、ぱあっと千鶴の表情が華やぎ、やや媚びるような仕草で頭を俺の方に少し傾けてきた。

 ……その行動から、多分千鶴は、俺が微笑んだ意味を正確には把握していないと思ったが、千鶴が誤解したいならそれを止める必要性を感じなかったので、そのままにして置き、そっとその髪に手を伸ばし、優しく頭を撫でた。

「髪は乱すなよ。そうだ、流れに沿って優しくだ。強く押さえつけるのは論外だが、触れられている感触が髪だけではだめだ。ほんの少しだが、しっかりと頭に触れるようにな」

 あくまで高慢な態度は崩さずに、俺の一挙手一投足に注文をつける千鶴。

 しかしその口元は緩みきっていて、うっとりとした目に威厳は無く、安心し切っているのか、全身から力を抜き椅子に深く寄りかかっている。


 公衆の場で、そういう様を晒すのは好ましくは無い。

 好ましくは無んだが……。

 しかし、俺の方も苦言を呈する機会は失っていた。

 千鶴の髪は長いのに良く手入れされており、滑らかな手触りは病み付きになる。


 本当に、今更ではあるが、千鶴は美人だったんだな、と思う。

 髪や肌の質感も、顔立ちも、表情も、立ち振る舞い……雰囲気? いや、もっと別の……そう、無垢なまま磨かれた魂そのものの煌めきのような、均整の取れた美しさがある。

 普段の俺ならどうって事は無いんだが、不意に気を抜いた瞬間に、ぞくりとさせる色香ではあった。

 貴族連中の腹の中――、へどろのように絡みつく深い愛憎は、こういうものが牽引しているのかもしれない。本人の自覚の有無は別としても。


 そこまで考えてから、フフ、と、自嘲を浮かべ、悪い妄想を頭から払う。

 どうせ色恋等には、完全にはのめり込めず、もしのめり込んだとして、すぐに飽きて次へと移る俺なんだ。下らない執着の糸は必要無い。

 そう、例えるなら先の朝餉の料理のように、美味しい部分だけを啄ばむように、世の人の織り成す舞台を、壇上に上がらずに楽しみながら渡り歩く方が、俺には向いている。


 どうせ死ぬまでの人生だ。世俗の栄達にも興味はない。

 金には多少の執着はあるが、無限に欲しがる事でも無い。

 俺が観たいのは、台本の無い人の織り成す悲喜交々の物語。


 はてさて、硬貨の導きはあったとしても、千鶴はそれを俺に観せてくれるのかどうか。


 いつも通りの俺を取り戻してから千鶴を見れば、目をトロンとさせた千鶴の顔が映る。

 ここにきて疲れが出たのだろう。千鶴は頭を撫でられている内に、ゆっくりと目を細めだし、いつしか俺の肩に寄りかかり、静かに寝息を立てていた。


 ともあれ、先は長いのだし、今日だけは油断させておこうと思い、そっと千鶴の髪から手を離し、規則正しい寝息を聞きながら、俺は外の風景を眺める。

 車窓から見上げる向こうには、初夏の青空の下、緑の風景がどこまでも広がっていた。

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