第一章:特急 前編
空の端が白み始めた朝。
星が刹那の間に大きく数を減らし、あちらこちらの家から炊事の煙が上がり始めている。
そろそろか、と、駅の大時計を見上げて、横で船を漕いでいた千鶴を促す。
千鶴の顔は、起きている時には目の大きさが印象的な顔立ちなのだが、眠っていると少し硬質な――変な例えだが、彫像のような、整った印象が先に立っていた。陶器のような肌、とは、こういうのを言うのだろうか。
転寝から覚まされた千鶴が大きな目を更に大きくした驚く顔を、ひと眺めし、千鶴にとっての簡単な荷物――大型鞄二つ、およそ四貫程の重さ――を、辟易しながらも右肩に背負うようにして担ぎ、左手で手を繋ぎ歩き始める。
人のまばらな前庭を抜け、新築されたばかりの洋風の煉瓦造りの駅へと入っていく。
ドーム型の天井の広い入口ホールは、どことなく友好国であるオスマン風の建築物を髣髴とさせた。
すれ違う駅員に、愛想の良い笑みを返しつつ、さっと辺りを見渡すが、警備は普段どおりで、良家のお嬢様への警戒線は惹かれていないようだった。
ここまでは順調、か。
千鶴も、特に不平不満を口にせず、黙々と付いてきているから手も掛からないし、思ったよりも楽な逃避行の始まりになっていた。
こんなものか、と軽口を心のうちで敲き、開いたばかりの駅の窓口に、悠然と俺は向かい――。
「海都へ」
行き先を告げると、受付の駅員は、はい、と頷き、掌を差し向けてきた。
胸の隠から、作ったばかりの保証書を出して提示する。
受け取った駅員は、慣れた手つきで透かしから朱印までを確認し、納得したように頷き、さっきよりも少し丁寧な態度で尋ねてきた。
「お席はどちらになさいますか?」
「じょう――」
「二等席で」
千鶴が今の格好には不似合いな席を取ろうとしたのを止めて、分相応の席を早口で注文した。
普通の路線ならまだしも、副帝都へ向かう五つの便だけは、上等車両に入れるのは貴族か、軍の将校に限られている。特殊なコネと金があれば別だが、そうした貿易商が利用したとなれば駅員の記憶に残るし、それは今後の逃走で有利に働かない。
今の身を知ってか知らずか、横で不満そうな顔をした千鶴に、小さく耳打ちする。
「上等車両に、いち貿易商が入れるわけはないだろ? 前の常識のままで動くなよ」
千鶴には、本人が一番安いといっていたビジティング・ドレスを着させていたが、それでもまだかなり浮いていたので、敢えて俺もそれなりの背広を調達して、貿易商の夫婦という偽の身分を――連隊から拝借した陸軍用箋で酒保商人の保証をし――偽装したのに、自分から台無しにされては堪らない。
俺と千鶴の遣り取りに、ぶしつけな視線を向けていた駅員に、苦笑いを向ける。
「悪いね。仕事柄、偉い軍人さんの家のを貰ったんだが、どうにも今の生活に慣れてくれていなくて」
ああ、と、少し同情的な視線を向けつつも、どちらかといえばやっかみの方が勝る顔を向けられ、肩を竦めた俺。
一転して、より無愛想になった駅員から切符を受け取り、軽く礼をしてその場を離れる。
あれだけの事で気を悪くしたのか、千鶴は無言で雰囲気に棘を纏いながら付いて来た。
ふん、と、鼻で笑いたくなるのを堪え、あくまで愛想の良い貿易商の仮面を被り続ける俺。
尤も、始発だからか人が疎らな駅構内の状況を鑑みれば、普段通りの雰囲気を出した所で特に差し支えはないのかもしれないが……。
ま、用心に越したことはないか。
改札を抜け、そのまま真っ直ぐに停車中の海都直通特急に乗り込む。
帝都から副帝都への路線は、副帝都の数と同じ五つだけあり、全てが直行便で途中駅は設けられていない。空いているのは、そのせいかもしれないと、ふと思った。
ともかくも、地方部隊の移動訓練や、陸士や陸大の研修と重なっていないのがありがたい。
それとなく変装はしているが、俺を知っている可能性のある軍関係者の目には付きたくなかった。
「上等が駄目なら、何故、次の一等ではないのだ?」
席に着いた途端、ばすん、と、乱暴に席に腰を下ろし、分かり易く拗ねた横柄な態度で問い掛けてきた千鶴。
上等な洋装の美人の振る舞いではないな、と、皮肉めいた笑みを浮かべながら、指で横を指す俺。
千鶴の視線が、ひとり掛けで脱着式の物書き台の付いた窓際の一等席を捉えるのを確認して、わざとゆっくりと子供に言い聞かせるように、俺は耳打ちした。
「一等は個人席だ。世間知らずをほっぽり出せる程の度胸は俺にはない」
視線を再度俺の方へは向けずに、憤然と肩を怒らせた千鶴は、何か言おうと口を動かしはしたが、結局は強く唇を結び俯いた。
まるで子供のように拗ねている千鶴を、微笑ましくゆるゆると見詰めていると、千鶴は居心地が悪そうに、顔を彼方此方に――俺と視線をぶつけないように注意しながら巡らせていたが、最後は我慢が出来なくなったのか、膝の上で握った手を小刻みに震わせ――。
勢い良く顔を俺に向けた時節を狙って、千鶴が大きく開けた口から文句が出る前に、軽口をぶつけてみた。
「なんだ? もう逃避行に飽きたか?」
軽く車両を見渡すが、声が聞こえるような距離に座っている乗客が居なかったから、敢えてからかう口調で問い掛けた俺。
勢いを完全に削がれた千鶴は、目を白黒させていたが、どうやら自分が怒っていた事を一拍後に思い出したらしく、口を尖らせ――。
「ワタシは! まだなにも手にしておらん!」
俺をひと睨みし、怒声を吐く千鶴。
どうやら千鶴は、強い態度の裏返しか、鬱憤を内に溜める傾向があるらしい。古い家で、自分の分を弁えつつ行動していた結果のせいだろう。
場所は選ぶ必要があるが、適度に発散させる必要がある、な。
半端な所で幕を引かせないためにも、気を付ける所は随分多そうだ。
「飲み物でも渡そうか?」
「そういう意味ではない――」
千鶴の分析を行いながら、答えの分かりきった質問をぶつけて場を繋いでいた所、ごく小さな音ではあったが、腹の虫が鳴く音がした。
一応、紳士の嗜みとして、淑女へ視線を向けるのは堪えた。
「……が、確かに腹は減っている」
思いがけず出た千鶴の正直な台詞に噴き出してしまい、それを見咎められ、急いで口元を押さえ、左手で謝罪する。
場が悪いというか、良いというか、変な機運が千鶴には付いているらしいな。
俺に唆されて、逃避行を即決する辺り、特に。
尤も、面白いから、俺としては、そういうのは大歓迎だが。
「車両が動いたら食堂車へ行こう」
うっすらと頬を紅くした千鶴が頷いたのは、見るまでも無い事だった。
車両が動き出したのはそれから十分少々の後で、俺と千鶴は揺れる車両を――。千鶴が、左右に振られて、上手く歩けていなかったから、手を取り、歩き始める。
さも当然のように、俺の右手に自分の手を重ねるのは、周囲のやっかみを集めるから、今後少しは改めさせたい所ではあるが、洋装をしていることもあってか、乗客の注意は然程引かなかった。
維新後に急速に変化した体制や、外国文化が多少は根付きつつある証左なのだろう。
尤も、服装も行動規範も旧態依然とした方が圧倒的多数だから、下手な場所へ逃げれば、千鶴の服装だけで足が付いてしまう。
多少危険を負っても、この経路と決めたのは、だからだ。
ただ、残念ながら、千鶴はそうした部分をあまり理解していないらしく、さっきから物見遊山の気分で、窓の外を見て浮かれている。
「煙を引いていないぞ」
まるで小さな子供がするように、繋いでいた手を引いて窓の外へと視線を促す千鶴。
「副帝都への路線は、戦時の襲撃を警戒してトンネルが多い。排煙が溜まるのを防ぐのに、最新鋭の電気機関による車両が優先配備されているのさ」
陸士での講義内容をそのまま伝えると、へえ、とか、ほう、とか言いながら、目を輝かせて外の風景を見詰め、それから、物珍しそうに車両の細々した部分に視線を向けている。
今更だが、本当に深窓の令嬢だったんだな、と、思う。
……いや、むしろ、仕草だけを見れば、地方からのお上りさんみたいなんだが、な。
「そういえば、海都へは行ったことがあるのか?」
多分、無いだろうとは思っていたが、それ以外の場所――帝都以外の場所の見聞も窺うつもりで、まず手始めに問いかけてみた。
「あの家以外の場所は、岩倉の保養所ぐらいしか知らぬ」
千鶴の答えは簡潔で、かつ、俺が必要な情報はその一言で全て得られた。
無知を偉そうに誇るな、と、一言ぐらい棘を刺そうかとも思ったが、少し離れた場所には乗客も居たので、大声を出されて困るのは俺自身と悟り、止めた。
しかし……、まずは、時期を見て一般常識から教えなければならないのは、中々に骨の折れる作業だな。
苦笑いを浮かべる俺に、それで、海都はどういう場所なのだ? と、尋ねる視線が向けられている。
まあ、世間一般に公表されている範囲でならここで喋っても特に問題はない、か。
「副帝都は、先の戦争で得た賠償金を基に、大規模に開発された五つの地方都市で、山都、湖都、河都、氷都、そして、海都がある。其々が軍の要塞であるが、物資や人員の集積地でもあるから、都市機能も拡充していて、戦時下では必要に応じて指揮系統も一部移設出来るようになっている」
難無く歩きながら喋る俺だったが、聞くのに集中し始めた千鶴の足が鈍り、歩調が乱される。
一度立ち止まって話した方が良いのかも知れないが、車両の通路で立ち止まるのは随分と不自然だし、他の乗客の迷惑にもなる。
……席で少し話してから食堂車へと向かったほうが良かったのかもしれない。
ひとつ失敗したか、と、考えていたら、不意に千鶴が喋るのに割り込んできた。
「陛下が動座するのか?」
そうした重要な話は、人目のある場所でおいそれとするべきではないんだが……。
家にばかりいた千鶴には、そうした分別がついていないらしい。
「……必要に応じてとなるだろうが、それも可能なはずだ。それで、今向かっている海都の話だが、名前の通り海運に特化した要所で、最大の貿易港でもある」
公の場で、気安く陛下の事を口に出すな、と、非難する視線を千鶴に向けつつ、やや硬い声で早口で答える。
千鶴も、俺の様子から敏感にそれを察してくれたようで、バツが悪そうな顔をしてから、声を沈ませつつ、だが、質問を止める気はないのか、別の疑問を投げかけてきた。
「外国人の出入りが激しい場所が、軍の要所で良いのか?」
「良くはないさ。だから、軍港区画には厳重な警備が敷かれているし、海上も第一艦隊と第八艦隊がしっかりと守りを固めているよ」
会話を打ち切りたい所ではあったが、強く諫められるような場所じゃない。
中途半端な話題を引き摺られないように、俺は答えてすぐに呆れたように嘆息して見せた。
「……そんな中を逃げられるのか?」
俺の溜息の意味を一寸も理解しなかったのか、声こそ抑えているものの、明らかに今ここで言うべきで無い台詞を口にした千鶴。
この口の軽さは、早急に改めさせる必要があるな、と、強く認識し、繋いだ手を振り解き、短く耳に囁く。
「そういう場所だから、出来る手引きもある」
質問を受け付けるのはもう終わりだ、と、千鶴の前に立ち、千鶴の視界には俺の背中だけが映るようにし、後は無言で食堂車まで歩いた。
連れ立って歩いている内に鉄道の揺れに慣れたのか、千鶴の足音は一歩後ろからきちんと聞こえていた。
二両を言葉無く通り抜け、辿り着いた食堂車。
品書にあるのが洋食ばかりのせいか、食堂車には独特の香辛料の匂いがした。
怪しまれない程度にさっと車内を見渡す。
食堂車は流石に――、いや、時間を考えれば当然の事だが、かなり混み合っていた。相席を頼まれる程ではないが、席は埋まっている状態。
ここでも、あまり込み入った話はしない方が良いだろう。何所に耳があるか分かったものじゃないんだし。
間取りの関係から、出入り口からは死角になる一席があるのに気付き、丁度そこが空いていたから、肩越しに振り返り、千鶴を促す。
一瞬だけ合った視線は、随分と落ち込んでいた。
冷たい態度という薬は、それなりには効いたらしい。
……もし、食事後にもそんな様子だったら、その時は改めて優しい言葉を選んで補足しておこうと思う。
「切符を」
席に掛けてすぐに現れた真っ白な制服の給仕に、切符を見せる。
三等以下の車両の乗客は、食堂車両に来る権利がないから、席に着いた瞬間に切符を求められるのは当然なんだが――。
しまったな、当たり前の事過ぎて、千鶴に伝え忘れていた。
それとなく様子を窺うが、もたつきながらも自分の切符を出した千鶴に、ひと安心する。もし席に置いて来ていたら、戻って出直す必要があったから。
切符を一目見た給仕は、一礼して尋ねてきた。
「お食事は、切符の内容のままで宜しいですか?」
問われて、千鶴を一瞥する。
千鶴は、何故視線を向けられたのかが分からないといった顔をしていたが、さっきの反省のつもりか、もしくは反抗のつもりか、自分からは何も言って来なかった。
千鶴の食生活が分からないので……いや、昨日出された夕餉から考えると、相当な物を食ってそうではあるが、だからこそ逆に、どこまでの低さに耐えられるのかを量りかねているのだが……。
「……いや、ここは、商売の成功を祈る意味でも、良い物にしておこうか」
少しだけ考えた後、ここから先は長いんだし、まずは体力を付けておいて貰おうと思い、質を上げることにした。
前金で十銭銅貨を二枚、追加で支払い、上等と同等の食事内容に変える。
「かしこまりました。……奥様、良い旦那様と一緒になられましたね。では、本日の商談のご成功を祈りまして」
前金を受け取った途端、愛想の良さが増した歳若い給仕は、ニコリと笑って軽いお世辞をおまけして厨房へと向かって行った。
半分は軍用の車両なのに、随分と愛想の良い奴もいたものだ、と、感嘆してその背中を見送っていると、不意にどこか呆然としたように呟く千鶴の声が耳に入ってきた。
「奥様……か」
ゆっくりと向けた視線の先の少し黄昏たような表情からでは、望まない婚約を思い出して落ち込んでいるのか、これからの自分のことを想像しているのか判別できなかった。
結婚などは、周囲の勧めのままにするもの、必要に応じて適当に受ければ良いし、気に入らなければ逃げるなり妾を探すだけ、としか考えていなかった俺には、千鶴の心情は理解し難い。
しかし、理解し難いからこそ面白くもある。
男と女の違いは勿論の事だが、それとは別種の、俺とは違った真実を手にするんだろうという、期待が持てるから。
あれこれと推理を巡らせていると、不意に千鶴と目が合った。
――が、千鶴は何かを見咎められたと思ったのか、俯いてしまったため、さっきの言葉の真意を訊き出す機会を逃してしまった。
甘やかせば調子に乗り、叱れば必要以上に萎縮する。
嫌という訳ではないが、まったくもって難しい女だ。
千鶴の扱いの難しさに俺が苦笑いを浮かべた丁度その時、料理が運ばれて来た。
皿が四つ並んだ四角い食事盆が、俺と千鶴の前に置かれる。
腸詰と西洋野菜がたっぷりと入ったポトフに、みっしりとした胡桃の麺麭がふたつ、牛乳に林檎が二切れ。
「ありがとう」
「ぁ、あり、がとう」
料理を運び終えた給仕に礼を言うと、千鶴がつっかえながら俺に続いた。
この程度のことで礼を言う習慣は無かったんだろう。軍でも、配膳係は兵ではなく、軍属だから、いちいち礼を言うことはないし、上流家庭なら尚更の事だろう。
だからこそ、敢えてそれらしくない人の良さそうな商人の表情や態度を――千鶴以外の人間に向けて使っているんだが、気にし過ぎだろうか?
ともかくも、温かい内に出てきた料理を冷ましても仕方がないし、千鶴もいつまでも萎れさせておくわけにもいかないので、微笑みながら優しく告げた。
「頂こうか」
表情の温度を急に上げ、二回頷いてから、千鶴は手を合わせた。
千鶴にやや遅れて俺も手を合わせ――、手をつける前の皿の中身に、やれやれと、少し呆れる。
俺とは違い、皿の中身に驚くことも無く、ごく普通に食べ始めた千鶴。
小さく千切った胡桃の麺麭が入った形の良い唇が、微かに動いている。
千鶴にとっては、むしろこのぐらいの食事が普通なのかもしれないが、一般人ではおいそれと手が出せない質の朝餉なんだが、な。
食事の内容と、それを全く気にしない千鶴の両方に少し呆れながらも、自分の食事に取り掛かる。
――が、やはり麺麭は慣れない。
軍では米二合に、少々のおかずというのが基本だった。
麺麭も、腹が膨れない訳ではないのだが、重たくならないので、半端に足りないような気にさせられる。
「そういえば、お前はどんな人間なのだ?」
麺麭の軽さを誤魔化す為にポトフの具をスプーンで大きく掬った所で、千鶴に声を掛けられた。
「うん?」
質問そのものは理解出来たが、意図をいまいち掴みかねて俺は小首を傾げてみせる。
まあ、ただ、取り合えず、即答できるものでもなさそうなので、スプーンの中身を口に収めた。
鳥の出汁が効いていて、こちらはかなり良い味だ。
俺が飲み込むのを見届けてから、千鶴は真顔で矢継ぎ早に質問を投げかけて来た。
「出身は何所だ? 陸士の席次は? 趣味は?」
空のスプーンを一度置き、千鶴の目を覗き込む。
真顔の千鶴は、吸い込まれそうな深い黒の瞳で俺を真っ直ぐに見詰めていた。
悪意は無く、真摯に訊いているらしいのは分かる。
――が、学習能力には難があるらしい。
逃げている最中に、痕跡を残してどうするつもりなのか。
「そういう話は、後でしよう」
ポトフの中にあった、短めの腸詰をスプーン掬って頬張り、会話を終わらせる俺。
「……わかった」
千鶴は、そう言って食事を再開したが、ちらちらとこちらを窺う視線や、無理して急いでいる食べ方等、見るからにそわそわしていた。
覚悟や自覚がない人間は、こんなものなのか、と、食事しながら考える。
そもそも俺は、千鶴を完全に守るつもりはない。
望む方向への可能な範囲での手助けはするが、それは、我が身を滅ぼしてまで尽くすような忠誠ではない。だから、千鶴自身がした失敗で幕が降りるなら、堕ちていくのを観察する方向へと立ち位置を変えるだけ。
完璧な信頼等というものは、現実ではありえない。
尤も、自立していくなら、この程度の知見は持っていて当然のこと。もし持たずに独り立ちしたなら、高い授業料で身を以って学ぶだけ。
さて、千鶴は破滅する前に己の分というものと、俺との距離をきちんと掴めるかな。
今後起こりうる事態を考え、それによる変化を予想するのは、それなりに楽しい。
――と、気付かぬうちに笑みが浮かんでいたのか、正面の千鶴が、少し不思議そうな顔になって、そのすぐ後、どうした? と、尋ねる笑顔を向けてきた。
何でもないと首を振って牛乳を飲み干し、再び、暢気なものだと、微かに鼻で笑う。
俺も千鶴も、それで皿が全て空になったから、給仕に退席する旨を伝え、食堂車を後にした。