序章:夜の庭園
帝都の家々の明かりも、道に並んだガス灯もとうに消えている。
夜は、遍く全てに満ちていた。
東京界隈の一等地にある、広く瀟洒なこの洋館においてさえ、白亜の壁は夜に沈み闇と見分けが付かず、煌びやかな噴水の水も止まり、人や動物の気配は限りなく希薄で、全ては夢の中にあるように感じさせる。
今、立っているこの薔薇の園も、昼には目に毒な程鮮やかだったのに、月明かりでは花の色までははっきりと見て取れない。
ただ、むせ返るような強く甘い香りが、その存在を激しく主張していた。
「ワタシを、助けろ!」
窓の灯りも全て消えた夜の屋敷の中心の庭園で、彼女は泣いていた。強く振舞っている仮面をずっとつけていた女性が、声を嗄らして叫んでいる。
声を嗄らして尚、血を吐くように。
誰にも届けられなかった、心の全てを夜空へ響かせている。
力無い拳が、なにも答えない俺の胸を叩いた。
昼の凛とした姿は、もうそこには一欠も残ってはいなかった。
長い黒髪を乱れるに任せ、生のままの感情をぶつけてくる姿には、最早貴人としての振る舞いは無く、駄々を捏ねる子供のような未熟さと幼さと、そして、歳相応の悲観が混じっていた。
「一夜、お待ち下さい」
「待たぬ!」
無難な言葉を選んでも一言の元に拒絶され、意図的に被っていた無表情という能面が危うく崩れるところだった。
どうにも面白いことになったものだ、と、心の中だけで皮肉げな笑みを微かに口の端に浮かべ、斜に構える心とは裏腹に、真面目な軍人としての態度で上官の妹と向き合う。
「女――それも、子供の世迷言と思っているのか? 明日には、気が変わっているとでも? ふざけるな……。全部、ゼンブ、貴様のせいじゃないか」
睨みつける目には、殺意と呼んでも遜色ないほどの憎悪の炎が宿っていた。
はっきり言って、それを向ける相手が違うとは思うのだが……。いや、憎む相手に強く出れない弱い人間だから、八つ当たり出来る相手に対しては強気に出れるんだろうな。
維新後に“新華族”なんて称されているのにもかかわらず、中身は随分と屈折しているようだ。いや、だからこそ、か?
ふふん、と、鼻で笑ってから、俺は本来の傲岸不遜の顔を出す。
重視していたのは、上官の妹という身分だけで、大した中身のある女だとは思わなかったが、刺すような視線は悪くない。
「その通りです」
「いけしゃあしゃあと」
本性の欠片を出し始めた俺に向かって、彼女は吐き捨てるように言った。
だから、今度は軍人としての無味乾燥の態度を改め、慇懃無礼をそのまま表したような態度で事実を告げる。
「ですが、小官はお尋ね申し上げただけでございます」
「あぁ、そうだろうよ。貴様は、訊いてしまったんだ。訊かれなければ、ワタシは迷うことなんてなかったのだ、なにひとつとして!」
払うように右腕を大きく振って、彼女は叫び続ける。
「十も年上の醜悪な文官風情に嫁いでやることも! 目先の小利しか追えないような愚昧な両親も! ワタシの自由が、そんな奴等の決めた枠の中だけだってことも!」
叫び続けて声が枯れたのか、短く咳き込み言葉を区切った彼女。
振った右手を心の奥の闇を捕まえるようにきつく握り締め、肩を震わせている。
「本当は、……ホントウは! 自分自身、それに気付いていたという事も」
顔を俯かせた最後の声は、儚く細く夜に消えていった。
一呼吸分の間を空けて、俺は答える。
「小官は、軍を抜けるわけには参りませぬ」
帝国軍人。まして士官ともなれば、それなりの地位が保証されている。だからこそ、それにふさわしくない振る舞いに対する懲罰は厳しいものになる。
違反者にはもちろんのこと、その家族に対しても。
尤も、俺の場合は、元は妾腹なので、正妻の死後に嫡男になった程度の家に対して義理も何も感じてはいないが。
ただ、まあ、世間一般では家族の重さは己の命と同等かそれに次ほどの価値があるそうだし、それを踏まえた上で、この女が何と命じるのかには少し興味があった。
「ワタシを助けろ」
声に力はなかったが、それでもまだ彼女は同じ事を欲求していた。
無知なのか傲慢なのかは、判断に迷うが、決して聡明ではないことは分かった。
どうやら、この女は責任という言葉とは無縁らしい。
「小官は、その術を持ちません」
少尉の官位は低くはないが、それは一般人と比べた場合であり、“新華族”の婚姻に対して口出し出来る身分じゃない。
具体性を欠いて発せられた『助けろ』の意味を、敢えて、強引な手段ではなく、穏便な手段での口添えと受け取り、白々しい顔で恐れ多いこと、と、伝えてみる。
「ワタシを助けろ!」
先程よりも強い口調で言った彼女。
言外に、手段の方向性をも響かせる声。
「なりません」
肩を竦めて見せ、子供をあやすような顔をする。
今はまだ、ひとつひとつの刺激に対して、彼女がどう反応するのかを確認している最中。
表情、台詞はもちろんのこと、声、仕草、ちょっとした癖、そうした心の欠片を慎重に拾い上げ、思考を組み立てる。
彼女が演じる人生が、安く、どこにでもある台本と同じような舞台なら、上がってやる気はない。
「ワタシを連れて逃げろと命令している」
「命令なら、従えませぬ」
「何故だ! 貴様とて士官として兄の連隊に来たんだろう、官姓名の暗唱すら出来ぬのか! 帝に近い者の言は、それこそが上意だ」
「なればこそ、貴女様のご命令には従えないと申し上げているのです」
彼女自身、自分の論理が破綻していると分かっていたのか、一言諭すと、案外すんなりと肩を落として口を噤んだ。
微かに短く歯軋りの音がしたが、それも直ぐに止んだ。
「……どうすれば、ワタシを救ってくれるんだ? お前は」
絶望に捕らえられながらも、それでも尚、救いを求めて縋るように、目を細めて俺をまっすぐに見詰めた彼女。
夜の色の大きな瞳。
突き放すだけなら、何故声を掛けたんだ? と、その目が尋ねていた。
正直な所――。
彼女には悪いが、俺には救うつもりも、堕とすつもりもなかった。
そもそも、今日はそれほど特別な日ではなかったし、この岩倉邸へ赴いたのは上官の岩倉大佐に連れられてのことで、間違っても彼女のためではない。
陸軍士官学校を卒業して初めての、水無月の終わりの今日この日。
少尉への正式な任官も含め、配属の雑務を全て片付け終えた、いわば最後の面通しとして連隊長の岩倉大佐の実家に呼ばれたのが昼のことだった。
他の新米少尉は誰も呼ばれていない。
議会へのコネのある岩倉子爵家に呼ばれたということは、端的に言うなら、出世コースに乗ったということだ。
彼女に会ったのは、夕餉の前に洋館へ入った時の事だった。
現当主の岩倉子爵に案内されるがまま敷地を巡り、庭の造形や、日本の気候では維持するのも馬鹿にならない洋風の植物園などに大袈裟に驚いてみせながら、ついでに、充分にお世辞を言ってやり――尤も、次期当主の岩倉大佐にはお見通しだったようで、薄く笑われてしまったが――、最後のお勤めとして食事を共にすれば、明日からはまた連隊勤務となる。
その筈であったし、それが変わる可能性は、少なくともこの時点では皆無だった。
洋風の食堂へと通される途中で、彼女と擦れ違った。
岩倉子爵は、立ち止まりもせずに横を抜け、その際に末娘と独り言のように呟いていた。ついさっきまで、上機嫌に石灯籠を自慢していたのとは、真逆の声で。
子爵よりはむしろ大佐に近い雰囲気と容貌の女性というのが俺が彼女に持った第一印象。
鼻は少し低いが、大きな目も、艶やかで長い黒髪も、透けそうなほど白い肌も、間違いなく美人と呼ばれる部類だった。
夕餉を一緒するのかと思ったが、どうやらそういう意図はなく、単に部屋に帰る際に擦れ違っただけらしい。男の来客との接触を避ける辺り、婚約者が居るのは容易に想像出来たが――。
一瞬見えた表情の中、彼女は面白い目付きをしていた。
多分、それで、魔が差した。
子爵の、急に不機嫌になった態度もそれを後押しさせた。
とはいえ、俺が発したのは、だだ、一言だけ。
優雅に微笑む顔の内側にある、ギラギラしたどす黒い感情に興味を惹かれ、それでよろしいのですか? と、擦れ違い様に、聞こえなければそれでかまわないぐらいの声で、俺は囁きかけたのだ。
その時の彼女は、特に態度に変化がなかったので肩透かしされた気にはなったが、夕餉の間にはもう忘れていた。
その程度のことだった。
だが、彼女にとっては、夕飯の味程度で忘れる程度の出来事ではなかったらしい。
屋敷を出る時に下女に渡られた手紙には、時間と場所だけが指定されていた。
迷いはあまりなかった。
とはいえ、期待も。
これがどういった罠であったとしても、上手く切り抜ける自信があったから。
要は、退屈しのぎだ。
学力があり、運動も出来たから陸軍士官学校へ入った。
存外つまらない時間を過ごしたが、まあ、初任給は悪くなかったな。
そして、そこで満足してしまった。出世コースに乗りはしたものの……いや、だからこそ、これから先の人生――幾つの時にどの階級に叙されるか、幾らの金が入り、どんなことが出来るのか――は、もう決まってしまっている。
連隊での任務には能力を持て余していて、このままあの場所にいても、これ以上のお楽しみは無さそうだった。
だから、元々、隙を見て次を探す予定ではあったが……。
まさかこんなに早く楽しめそうな事件が転がってくるとは思っても見なかった。
まあ、まだこの女が鐚銭なのか奇貨なのかは、目利きできていないんだがな。
助けて、くれるんだろう? と、訴えるというよりは、確信している目を、冷え切った視線で迎え撃つ。
「軍人は、人を殺す者です。救う者では御座いません」
士官になった際に誂えた、特注の回転式拳銃を拳銃嚢の上から軽くポンポンと掌で叩き、軽く言ってみた。
「では、ワタシの退屈で窮屈な人生を殺せ」
ぐし、と、手の甲で涙を拭って、彼女ははっきりと告げた。
咄嗟の応答はまあまあ、か。
上手くはないが、及第点が遣れない程の台詞でもない。
「一発の銃弾で済ませて頂くかもしれませんよ?」
拳銃を抜き、銃口を向け恐怖に対する反応を窺う。
「それでもいいが、それを面白く思わないのはお前だろう」
挑発するような視線を向けた彼女。
……ふぅん。
そこそこには、面白い女だとは思う。
返す瞳の暗さから察するに、そういう手段自体は考えたこともあるのだろう。家からは逃げられない、だから、生きることから逃げよう……か。いや、邪推か。彼女はそれを選ばなかった、そして、諦めてもいなかった、それでいい。
だが、まだ、足りない。
この程度では、退屈させられてしまう。
欲を言えば、もうひとつ、何か興味を惹かれる魅力や才能、もしくは巧妙に隠された秘密が欲しいところだ。
「……欧州大戦の戦渦は、程なく亜細亜の植民地を経由し、日本にも及ぶでしょう。逃げるには、良い時期でしょうね」
ま、ともかくも、ひとつは貴女の勝ちにしましょう、と、銃口を空に向け、再び拳銃嚢へ収める。
得物を収めつつも、言葉はさほど収めずに尋ねた。
「ただ、逃げた先では、下女も給仕もおりませんし、服も食事も満足には揃えられないかもしれません。今の生活の全部を捨てられますか?」
ふは、と、少しだけ笑った彼女は、逆に訊ねるような目で俺を見た後――。
「ワタシの今ある世界なぞ、全部壊してしまえ」
――微塵の躊躇いも感じさせず、彼女は傲然と言い放った。
そして、それはおそらく、本当の、ワタシだけのものがここにあるとでもいうのか、という問だった。
随分と小気味良いことを言うヤツだと思った。
決断の早さや、潔さには好感が持てる。
その分、浅慮だったり傲慢ではあるが、“新華族”の出自から考えれば、そこまで鼻に付くと言う程でもない。
万歳するように、彼女は両手を空に挙げた。背は俺の方が高いが、仰け反るようにして夜空を仰いでいるので、今の彼女は、まるで見下ろすような目で俺を見ている。
笑顔の質が、少しだけ変わり、再び彼女は話し始めた。
「海へ行きたい、山へ行きたい、礼節など無視して大口を開けて料理にかぶりつきたい。声を上げて笑い、気の向くままに駆け回って、小説の一節のように野原で寝転がるのだ」
どうだ、素晴らしいだろう? と、夢想家の女は言った。
荒波の激しさも、冷厳なる山の空気も、陽気さの裏側にある不衛生な飯場も、笑顔の裏の苦節も、何も知らないまま、ただ、今の自分と違うという一点において、無責任な憧憬を向けながら話し続ける。
「そして――恋がしたい」
先程までの言葉と比べ、明らかに重みの違う声。
渇望しつつも、得られなかったモノに対しては、現実感は大きく違うのだろうな。
微かに鼻を鳴らしながら、現実が彼女をどう変えるかを少し考えてみる。
その変化は、俺を楽しませてくれるか、を。
俺の思考がまとまる前、そして、彼女の凛と響いた声の残響が消えた時、彼女はまっさらな瞳で俺を見た。
「お前は、ワタシの望みを全部叶えられるか?」
人の上に立つ人間の気品と、未熟な感情が同居した、不思議な表情で彼女は俺に問い掛けた。
一拍間を空け、思考の続き――これまでの情報の整理と、今後の予測をする。
この女の性格、嗜好、行動傾向、学力……。
……ふふん。
「さぁ?」
無責任な夢を語る彼女と同じくらいの無責任さで、真剣な視線をはぐらかす。
これで俺が味方になると確信していたのか、甘さと思い込みで肩透かしを食った格好になった彼女は、目を瞬かせて、呆気に取られた顔で俺を見た。
ふん、と、鼻で笑い、口には酷薄な笑みを浮かべ、俺は事実のみを突きつける。
「ただ、いずれの夢も、このままここに居られたら叶わないでしょうね」
逃げるか残るか、そのどちらかが正解、という問題ではないのだ、コレは。
あくまで可能性の問題。
確率で言うなれば、婚約直後に相手が死んで自由となり、今度こそ本当の恋が出来る可能性も、零ではないのだ。それどころか、逃げたとして、恋はおろか、人並みの生活すら出来ない可能性も――尤も、俺自身の能力を鑑みるに、相当に低い可能性だという自負はあるが――あるのだ。
だから、俺は唆すだけ。
選ぶのは彼女。
責任? そんなものを俺が引っ被る程、俺はこの女に思い入れがあるわけでは無い。
ギリシア哲学でもないが、ただ生きるだけなら今の俺に不足は無い。だが、それ以上が無い。他の連中のように女や酒で現を抜かせられれば良かったんだろうが、どうも俺の魂はそうはできていなかった。
どこでもいい。飾り立てられた舞踏場でも、軍港の端の貧民街でも、人生の喧騒と混沌、複雑に絡み合った情念の結末を見届けたい。
どんな場面だろうが、俺なら切り抜けられる、それを試したい。それを楽しみたい。
顎を突き出すようにして、ニヤリと笑えば……。
「上等だ!」
俺の問いに対する答えを叫んだ彼女の目には、もう力が漲っている。
現金なことだ。
楽な道ではないだろうに、幼子の寝物語の女傑にでもなった気分なのかもしれない。
「ワタシは、逃げる。ただ、その術を持たぬ」
だから、お前が――と、続く誓いをねだるように、少しだけ弱気な目で俺を見詰めてくる彼女。
「途中では戻れませんよ?」
明確な約束は口にせず、からかうように最後の確認の言葉を投げかけた途端、パンと、頬を打たれた。
響く乾いた音に、少し不満の視線で見詰め返すと、涙でくしゃくしゃになった顔で笑いながら彼女は言った。
「お前に尋ねられた瞬間に、覚悟ならしていた」
何の覚悟だ? と、疑問には思ったが、それを尋ねる前に彼女は答えを告げた。
「コイツは、ワタシを破滅させるとな」
随分な評価ではあるが、間違ってはいないか。
俺が笑い飛ばすと同時に、彼女は俺に何かを告げようとして――不意に悩み始め、一拍の後に、問い掛けてきた。
「お前、名はなんというんだ?」
…………。
そういえば、お互いに名前を知らぬままだった。子爵も大佐も特に彼女を俺に詳しく紹介しなかったし、彼女の方としても、婚約者が居る身で他の男の話などは訊けなかったのだろう。
もう共犯者となったのだから、丁寧な受け答えは不要と判断して、素の口調で俺は言った。
「薬袋 弓弦だ。薬の袋でみない、弓の弦で、ゆづる」
「ワタシは千鶴だ。ハハ、不思議な縁だな、名前の韻が似ている」
俺が名乗ると、彼女――岩倉 千鶴は、はんなりと微笑んだ。
たかが名前が似ているだけでこんなにも無邪気な顔をするのには、少し驚いた。
多分、古い教育の賜物なんだろう。純粋さと、どす黒い愛憎が同居しているのは。
――それで、どうする? と、千鶴が小首を傾げたので、俺は小さく頷いた。
「簡単に荷物をまとめて落ち合おう。外へは出れるか?」
もし、屋敷の外へ出る手段がないとなれば、それなりに派手な脱走になってしまう。後の事を考えるなら、出来る限り穏便に事を謀りたい所だ。
幾つかの可能性を検討しながら千鶴の様子を窺うと、意外な事に、千鶴は力強く頷いた。
心配は杞憂に終わったようだが、それに越したことはない。
まあ、手引きを頼めるだけの信頼の置ける下女のひとりふたりは居るという事だろう。
「家の東、煉瓦橋で落ち合うぞ。……そういうお前は、どうやってここまで忍び込んだ? 外へは出れるのか?」
勝手に集合場所を決め、不要な気遣いも見せた千鶴。
右手を軽く挙げ、心配無用と伝え、千鶴の目を覗きこむ。
一呼吸の後、頷き合い、俺と千鶴は背中を向け歩き出した。
其々の準備の為。
ふと、連隊長はこうした思惑もあって俺をここに連れてきたのではないかと言う考えが一瞬過ぎったが、その可能性を推察するには、まだ判断材料が少ない。
そもそも、あの切れ者で食わせ者の大佐が、肉親の情で動くわけがない。となれば、千鶴と俺の行動から、なんらかの実利を得ようとする筈だが……それは何だ?
千鶴の気配が、感知出来ない距離に離れたのを見計らって、俺は思考を止め天を仰ぐ。
痩せた三日月が、薄ら笑う暗い空。
実の所、俺はまだどうするかを決めてはいない。悪くはないが、千鶴にもう一歩の人間としての厚みが欲しかったというのが本音となる。
複雑に絡まった情念と、整った顔立ち、無知故の行動力。
上手くいけば、それなりの物語に立ち会えるだろう。
俺は、こういうのは好きだ。
複雑に凝った感情は、貴賎の区別無しに、混沌としていて……、思い掛けない真実を孕んでいる。
その真実に至るまでが愉しい。
食うに困らないだけの人生なんて、死んでないだけの人生だ。死ぬような目にあうのなら、むしろ本望。遊びは命を懸けてこそ、だ。
ただそれも、演じ切る主人公に力量が無ければ、途中で閉幕し、退屈させられてしまうだけ。
千鶴の力量では、自由を手にした後、幸せを手に出来る確率は、五分五分というのが俺の見立てだった。
微かに溜息をつく。
考える必要はもうなかった。
理詰めの結論は出ている。
ま、困った時には、銭に聞くのが一番、だな。
最後の一歩を運に任せる事に決め、財布から五十銭銀貨を取り出し、ひと眺めする。
空へ投げた銀貨が表なら千鶴と逃げてやる、ただ、裏が出たなら大佐に連絡して彼女の身柄を確保して貰い、もうしばらくは忠実な帝国軍人となる。
怪しく暗く、夜に輝く銀貨。
出るのは鬼か蛇か。
運命の輪を回すように軽く夜空へ放れば、竜をあしらった五十銭銀貨は歯車のようにクルクルと廻り、一度だけ月影に煌き、ふわりと俺の手の中へと堕ちて来た――。