【短編】蝉
疲れの溜まった体には急峻な下り坂は堪え、重い足取りで下り終わった私はそこで小さく嘆息をついた。
この辺りでは珍しい坂の真下の位置には、その地形が示す通り川が流れ、ゆったりと西から東に向かって流れ下っていた。
今は浅瀬で遊ぶ子供達の声も聞こえなくなったこの川は、私の子供時分には他の都市部の河川同様に生活廃水が流れ込み、無造作に投げ捨てられたゴミの浮かぶ、汚泥が発する悪臭漂う生きるものの無い汚川であったが、昨今の自然回帰傾向により水質の浄化が図られ、清流とまではいかなくても、魚の戻った川には鳥の姿も見られるようになった。
小魚を狙う川鵜や、近隣の地名にも残る鷺の姿も見られ、冬には越冬で訪れた鴨が小さな雛を連れて泳ぐ姿も見受けられるようになったが、その川も今は地の底を這うように流れているだけであった。
元々小さかったこの川は、雨が降る度に何度も氾濫を起こし、近隣の家々を水浸しにしてきたが、治水が進み護岸工事が行われ、氾濫は過去の物となりつつあったが、近年都市部を襲うゲリラ豪雨はその想定すら超えて、再び反逆に悩まされる事になったこの川は更なる河川改修が行われ、深く掘り下げられた川は覗き込む遥か下で川底の石を舐めて、少し増えた水量で濁った水が音を立てていた。
以前は水面に届くまでに枝を伸ばしていた川岸の桜の木々も、遥か下を流れる川を恋しがるかのように、緑に覆われた枝を虚しく差し伸べていたが、花咲き乱れる春以外には見向きもされず、風の無い薄闇の中でぼんやりと佇んでいた。
昼間にまたしても都市部を襲ったゲリラ豪雨であったが、この辺りには殆ど雨は降らず、その気配だけが残る空気は水を含んで重く圧し掛かり、息苦しさを覚えるほどの空気は肌に纏わりついて、僅かにくすんだ色を浮かべているかのような気さえした。
川沿いの遊歩道を抜けた先には目指す駅があり、何時もの道を進もうとした私はふと立ち止まった。
時間は夕暮れであり、まだ夜闇は訪れてはいなかったが、闇と陽の境にあるこの時間、まだ街灯は灯っておらず、色を失った人影が灰色に染まっている背後には、黒々とした木々は影となり、空気は薄闇に僅かに朱を流したかのように濃い紫を帯びて、絞れば水が滴りそうな空気が薄く靄を張ってゆっくりと地に降っていた。
宵闇というよりは陽の差し始める直前の明け方のような不思議な光景に、私は一瞬戸惑ったが、土の地面にボコボコとした石が所々顔を覗かせている遊歩道に足を踏み入れた。
まだ目を凝らせば物の形が判るとは言え、時折大きな石が飛び出している道を、足元に目を落として慎重に歩いていた私であったが、視線の先に蠢く小さな石に気付いて足を止めた。
ほんのりと朱に染まって見える地面に、確かに小石が蠢いていた。川岸の左側から桜の並木が並ぶ遊歩道の右側へ、ゆっくりと動いていく小石が一つでは無い事に気付いて、私は視線のその先を追った。
定かでは無いが、十数、いや数十であろうか、群れを成して蠢く彼らは、何かの確信を持っているのか、其々が違わずに川岸から右側の桜と低木が連なる場所を目指して、頼りない足取りで静かに列を成していた。
突き動かされる内なる衝動が自然に営みの悪戯によるものだと知らずに、濡れた体を乾かす陽は、今しがた西の空に沈んだばかりであるのに、それでも彼らは己の生涯の、最後の煌きを信じて無防備に歩き続けていた。
駅の方角から自宅に帰るのであろう男達は、自分の足元も見ずに悠然と歩いていたが、私は一人、足元の彼らを誤って踏み潰さないように、そろそろと足を出しながら体を左右に揺らしてたどたどしく歩いていて、恐らくそんな私の挙動はさぞ不審に映っただろうと、気ぜわしげな視線を一瞬投げて通り過ぎていく男達に、小さく苦笑を返したい気分であった。
短い遊歩道は直ぐに終わり、アスファルトの上に歩を進めた私は安堵で小さく息をついて、今しがた通り抜けてきた遊歩道を振り返った。
秋の初めにこの川を赤く染めたアキアカネはもう姿を消した。子供時分にはまだ残っていた、武蔵野の面影を残したコブナの木々に戯れていた立派な角のカブト虫も、もう遠い思い出になった。キャベツ畑をヒラヒラと舞い飛んでいたモンシロチョウも、何処に行ってしまったのであろうか。
そんなこの地にも、重苦しい梅雨が明けると必ず訪れて夏を告げてくれる彼らは、何時までこの地で生き続けてくれるのだろうかと、気の早い目覚めを迎えた彼らが、無事に褥に辿り着けるようにと暫し佇んでいた私であったが、次第に濃くなる闇の気配に背中を押されてクルリと遊歩道に背を向けて、小さく点滅を繰り返しながら灯り始めた街灯の下、明るいネオンサインが照らす駅前広場に向かって、また歩き始めた。