吐いたら妊娠発覚なんてドラマの中だけだと思ってた
この病院では、毎朝六時半に検温の放送が入り、看護師が巡回する。
私の体温は、いつも決まって三十七度二分であった。
「入院前から熱があったの?」
入院前は体温は計っていない。正確に言うと少し前まで基礎体温をつけていたが、いつも通りギブアップした。
朝食は味噌汁と焼き魚だった。味噌汁の臭いで気分が悪くなり部屋に戻った私に、ご丁寧に看護師が盆を運んでくる。半分ぐらい食べて、私は全てを吐き出した。
どこが悪いとも言えない。この苦しみを、不快感を、上手く説明できない。言葉を尽くしても、
「難しいこと言うのね」
と言われる。そもそも体調が悪くて救急車を呼んだのに、何故精神病院なのだろう。
昼に食べた好物のハヤシライスも吐きながら、私は不満だった。
そのうち、心配そうに部屋を訪ねる看護師が、妊娠を疑うようになった。それなら有難い。私の心に光明が差した。しかし、医師の指示はレントゲンだった。入院患者に義務付けられているとはいえ、大丈夫なのだろうか。私の希望は萎んだ。
食事のたびに食堂に出てくるも机に突っ伏す私に、年上の女性が「顔色が悪い」と毎回声をかけてくれた。入院生活は小さなことが嬉しい。その女性に子供がいることを知っていた私は、
「看護師さんが妊娠じゃないかって」
とぽつりとこぼした。すると彼女は、
「胸張ってる?」
と看護師と同じことを聞く。胸が張っていたのは暫く前、茶色いシミが下着に付いた頃だけだったが、私は何かを失いたくなくて嘘をついた。彼女の顔は明るくなった。
「九十パーセント妊娠してるよ!今度検査薬買いに行こうよ!」
その言葉は救いになったが、私はもう薬局に行く体力はなかった。
いよいよ看護師が検査を医師に上申してくれた。入院から一か月が経っていた。回診でもない日に医師が来て、
「看護師さんが妊娠してるんじゃないかって言うんだけど、自分ではどう?」
と問うた。
「妊娠したことがないので、妊娠したら体がどうなるのかわかりません」
「僕も知らない」
医師の即答に私は吹き出した。正直な医師であるし、これは経産婦の方が頼りになるとしみじみ思った。
翌朝採尿し、夜には中年の看護師が私の部屋をノックした。
「先生が私から言った方がいいって……」
背の高い私は背の低い看護師を見下ろし、緊張して泡立った唾を飲んだ。
「八週から十一週だって」
思わず顔が綻んだ私を、誰が責められようか。
子供は要らないと、高校生の頃から豪語していた。
赤子は面倒だから、程よく育った良い子を施設から引き取ろうと、昔から決めていた。
しかし夫に惚れこんで願ってしまったのだ。この人の優秀な遺伝子を遺したいと。この人が教育し躾た子供が見たいと。
しかし、若くして、出来ちゃった結婚を除けば友人の中で誰よりも早く結婚した私を尻目に、どんどん後輩たちが子供を産んでいった。
産婦人科では自然には子供は出来ないと言われ、親が自分を産んだ二十五歳を過ぎ、私は結婚していると初対面の人に告げると必ず言われる
「お子さんは?」
が苦痛でならなかった。子供が一生産まれなければ、その苦しみは何十年も、生涯続くはずだった。流産した友人をすら、妊娠できただけいいじゃないかと呪った。
卵子は、三十を超えると劣化する。
どんなに初産の平均年齢が高齢化しても、その言葉が私を悩ませた。
「今の出産平均年歴は三十一歳だから」
夫はいつもそうやって私を慰めた。しかし私はもうすぐ三十だ。
今年こそは妊娠すると年の初めに恥ずかしげもなく宣言し、漢方薬なども飲んでみて、しかし金がかかると反対されて、何かもういいや、と思っていた頃に妊娠が発覚した。
親は、喜ばなかった。完全に堕ろす前提で話をしていた。
精神科を退院して、私は産婦人科に行った。十代の頃から特に恥ずかしいと思うこともなく内診を受けてきた。いつもと同じように股に棒を突っ込まれて、
そう、初めてそこに、「赤ちゃん」が映っていた。
頭も体も手足もはっきりしていて、動いていた。
他人のそれはテレビで何度も見たことがある。しかし私は自分の子供を、超音波の影だが初めて、可愛いと思った。とあるSNSのペットキャラクターに似ていた。