勇めよ勇くん
「そこまで!」
剣道場に二年生の先輩の声が響き渡り、僕と対戦相手の選手は鍔迫り合いをやめ、お互いに立礼の位置まで戻る。
「ありがとうございました!」
礼を終えた後も、僕は少しの間その場に立ち尽くした。
……はぁ。
口の中でため息をつき、面の中の顔を伏せた。
また、負けてしまった……。
「お疲れー優子ちゃん。さっきは惜しかったね」
「あ、うん、お疲れ様。ヒトミさ、ヒトミちゃん」
更衣室にて。おもむろに僕の隣で着替えを始めたのは、友達のヒトミさんだった。
「うーん、やっぱ最近元気ないっぽいね?」
「え、う……、そ、そんなこと、ないと思うけど」
防具を外し、剣道袴を中途半端に脱いだ状態で覗き込んでくる同年代の女性の姿に、僕は咄嗟に視線を逸らしてしまう。
「顔も赤いし、病気、とかじゃないよね?」
「だ、大丈夫、大丈夫だから、うん。心配してくれて、ありがとう」
「そう? ならいいけど」
一時的に僕から興味を逸らしてくれたらしいヒトミさんは、また自分の着替えに取り掛かった。周りの目を気にするでもなく、剣道袴と剣道着を全て脱ぎ、下着のみの格好になってから制服に手をかけるという豪快な着替え方は、僕にとっては目の毒にしかならない。
まぁ、ここは剣道場の女子更衣室なのだから、同級生の女子の裸で赤面している僕の方が、場違いなのは間違いないのだけど。
ふと周囲に目を向けると、眼前に広がるのは剣道着の黒と人肌の色ばかり。たまに下着の薄い桃色や青色が目にとまることもある。
僕はそれらの危険な光景から努力して目を引きはがし、より一層、隅っこで小さくなりながら、自分の着替えに取りかかったのだった。自分の体さえまじまじとは見ないようにしながら。
「はぁ……」
今日何度目かのため息をついたのは、家のお風呂場の中だった。
鏡に映った自分の顔と、そして、一週間前から今までの自分の振る舞いを思い出すと、この息の塊を、吐きださずにはいられなかったんだ。
「はぁ……、どうしてあんなことしちゃったんだろう」
浴室の壁に取り付けられた鏡に映る自分の姿は、紛うことなく女性の体だった。
それも、僕の良く知っている人物が映っている。
こうして鏡を見ていると彼女に見られているようで、恥ずかしさと申し訳なさが同時に去来してくる。
一週間前から、僕はある幼馴染の女の子と、体の中身が入れ替わってしまっていた。
「なぁ勇。学校の裏山の麓に、小さい神社があるのって知ってるか?」
放課後、帰りのHRが終わった後、同級生の友達がそう切り出してきた。
その頃は当然、僕はまだ男の体で、前川勇という名で皆からは呼ばれていた。
「うん、知ってるよ。たしか恋愛成就の神社、じゃなかったっけ?」
「いやいや違うって。ボロくて小っさいくたびれた感じの神社だぞ?」
僕が思い浮かべた神社も、ボロくて小っさいくたびれた感じの神社だ。
「路肩の茂みに階段が伸びてて、そこを上がっていくとある神社でしょ?」
「そうそう。近くの道路は店とか民家もない寂しい感じの場所でさ、あーでも、たしか、勇が通ってた剣道場が近くにあったっけ」
それなら、僕が想像した場所に違いないはずなんだけど。
「俺も、あそこは恋愛成就の神社だって聞いたことあるぞ」
僕の論を補強しながら現れたのはもう一人の友人であった。
学校にいる間、僕はこの友人二人と一緒に過ごす時間が多かった。
「そうかぁ? 俺はそんな話聞いたことないけど。ま、いいや。とにかくあの神社でな、面白そうな噂を小耳に挟んでな」
僕ともう一人の友人は顔を見合わせ、また始まったとばかりに肩をすくめあう。
「どうやらあの神社には、人の心を入れ替える力があるらしい」
「心を入れ替えるって、あれか? 悪人が改心するって意味か?」
「違う違う。入れ替えるんだよ。二人の人間の心と心、ほら、ドラマとか漫画でよくあるだろ?お前ら“さびしんぼ”とか見てねぇか?」
「見てないけど」
「あっそ。まぁ“さびしんぼ”の話はどうでもいい、とにかく、その噂を俺たちで検証してみねぇかってことなんだ」
その日の放課後には、もう僕たち三人はその神社を訪れていた。
あることで思い悩んでいたことも手伝って、僕はこの日、高校に入学して初めて剣道部の部活をさぼっていた。
「で、やるのはいいけど、方法は?」
「簡単だ。そこに賽銭箱があるだろ? そん中に別人の髪の毛二本を結んで放り込めばいい」
「ふぅん。で、誰と誰が入れ替わるよ、言っとくけどな、勇と入れ替わるならともかく、俺はお前とだけは入れ替わりたくないぜ」
「俺だってそうだ。でもそこらへんは抜かりないぜ。これを見ろ」
賽銭箱の中身を覗き込んでいた僕は、後ろの二人に振り返った。
目をこらして友人の手のひらを見ると、そこには一本の髪の毛があった。しかも長い。これってもしかして……。
「ふふん。そのもしかしてだ。誰の髪の毛かは分からんが、教室掃除の時間にこっそり拾っておいたんだ!」
軽蔑の眼差しを向ける僕ともう一人の友人。
「お前、それはちょっと気持ち悪いぞ」
「相手の誰かが可哀想」
「はっ、言ってろ。ま、もし俺が可愛い女子と入れ替わることができたら、そうだな、胸の一つくらいは揉ませてやるよ」
「女子って決まったわけでもないだろ」
「よく見ろよ。こんな長い髪だぜ。しかも艶のある綺麗な黒髪。こりゃうちのクラスの南優子に違いない」
「はいはい。ところでさ、もし入れ替わりが成功したとして戻りたいときはどうするの?」
「さぁ? 入れ替わった相手と誓いのキスでもすれば元に戻るんじゃねぇか? なんにせよ、それは入れ替わりが成功した時に考えればいいだろ」
「それもそっか」
「で、誰が試す?」
そうして、幸か不幸かじゃんけんに勝ったのはこの僕であり、見事、入れ替わりは成功してしまった。
さらに言うと、僕の友達が拾ってきた髪は彼の予想通り、同じ剣道部でかつ、学校一の美人と評判の僕の幼馴染、南優子のものであった。
「はぁ……」
風呂場の壁に溜息が反響して、暗澹たる気持ちが何倍にも増幅していくように思えた。
そりゃ僕も、入れ替わる前は、少しくらいは楽しみにしていた気持ちもあったかも知れない。でもまさか、本当に入れ替わってしまうなんて。
結んだ僕と彼女の髪の毛を賽銭箱に投じても、その瞬間は何も起こらなかった。変化があったのは次の日だ。正確には次の日の朝。
ベッドの上で目を覚ました僕は、誰か他人の部屋にいることにすぐ気が付いた。朝の日差しと、一階から漂ってくる味噌汁の匂い、そして鳥の鳴き声がいつもと違っていたからだ。
慌てて飛び起き、鏡を見てすべてを悟るのとほぼ同時に、僕のことを“お姉ちゃん”と呼ぶ南優子の妹が、元気よく部屋に入って来たのだった。
南優子とはそれから一度だけ会話をした。
まず、こうなったのは自分に責任があるという謝罪の言葉を述べて、次に二人で、このことは周囲の誰にも秘密だということ、そして今後の展開として、当たり前だが、早急に元に戻る方法を探すことを決めた。
学校の裏庭で、昼休みの短い時間を利用したこの話し合いは、中学の頃では考えられないような素っ気なさで終わった。
それから僕は南優子としての生活を始めたわけだが、それは想像していた以上に大変なことだった。彼女は成績優秀でスポーツ万能、対して僕は理数系以外の勉強は苦手だし、運動神経も良くはない。なにより剣道の強さが段違いである。たとえ相手が上級生であろうと、南優子が剣道で負けたとなれば、周囲はそれを疑問に思う。それも当然で、彼女は中学時代、何度も全国大会で結果を残している。そんな彼女に僕が入って剣道の試合でもしようものなら、彼女の名声に傷がつくのは避けられなかった。実際女子剣道部では“最近、南優子は調子が悪い”と噂になっているようだった。この一週間、僕は女子剣道部の部活に参加することが、他の何よりも苦痛だった。
唯一の救いは、優子が口数の少ない性格だということだ。そのおかげで余計なことを喋り、ボロが出るのを防ぐことが出来ている、が、人格の入れ替わりなんて、自分から言ったって誰も信じてくれなそうな話、周囲にバレることを恐れる必要はそもそも皆無なので、別にこれは救いでも不幸中の幸いでもないような気もする。
もし入れ替われたら、ああするとかこうするとか、いいだしっぺの友達は楽しそうに語っていたが、当事者になってみると、まるでそんな気分にはなれないことが、この一週間で身にしみて分かった。
申し訳なさと、南優子として過ごさなければならないという重圧に、今にも潰れてしまいそうである。
「…………」
鏡に視線を戻し、眉目秀麗という言葉がこれ以上ないくらいにピッタリな優子の顔をマジマジと眺める。
やっぱり美人だ。
この体に入れ替わってからつらいことだらけだけど、彼女の顔を、こうして好きに眺めていいってのは、たしかに役得に違いない。
普段ポニーテールに結っている髪は風呂場では下ろされ、しっとりと濡れて肌に張り付いている。これ以上ないくらいに色っぽいのに下品さはまるでなく、つい、薄ピンク色の唇を、指先でなぞってしまう。
「…………」
だ、ダメだって僕。それ以上は、さすがに……。
鏡に映る自分の視線が、次第に下がっていくのが目の端に見えた。
き、着やせするタイプなんだな、優子って……。
スレンダーだと思っていたが、出るところは出て、引っこむところは引っ込んでいる。当然、こうして入れ替わった初めて気づいたことだ。
毎日剣道の練習をしているだけあって余分な脂肪はなく、しかし女性特有の柔らかさも失っておらす、健康的な美と、女性的な色気が同居いている。
さっきまで鏡を凝視していた自分の視線が、間に鏡を挟まずに見たいと要求してくる。視線がさらに下がっていく。
まずいよ……。
頭の中で響く制止の声を、僕の視線と、そして両腕が無視する。
ダメだって! そういうのは失礼だし、この体は、そもそも僕のモノじゃないんだから……!
両腕がゆっくり向かう先は、豊かな二つの膨らみ。
こ、こういうのは、正式に、男として触るものであって、入れ替わったことを利用して、いい思いをしようなんて真似、絶対に……!
右手の人差し指が、柔肌に触れる。
直後。
「お姉ちゃん! 一緒にお風呂入ってもいい?」「ひゃいっ!」
慌てて両手を背中に回し、振り向いた先には、お風呂場の扉から顔を出す妹の杏子ちゃんがいた。
「……どうしたの? のぼせた? 顔が赤いような……」
「う、うんっ、そ、そうみたい。長湯しちゃって。も、もう上がるから、ごめんね、今日はちょっと、一緒には入れないかなー……」
そうして逃げるように風呂場を出た僕は、二階に上がり、【優子】と書かれた部屋に飛び込み、自分の行いを恥じる気持ちでいっぱいになりながら、彼女の匂いがする布団の中で、小さく、丸くなったのだった。
当然、体を拭いて下着を付けてパジャマを着る間も固く目は閉じていた。
それから眠りにつくまでの間、布団の中で煩悩を振り払うように頭を抱えていた。南優子も今頃、僕の体でお風呂に入ったりしているだろうか。そんな疑問が浮かんでは消えていった。
結局、この日は夜中の二時まで眠りにつくことが出来なかった。しかし後から考えれば、異性の、それも美人の裸をいつでも見れる状況にある、なんてこと、他人と入れ替わることの本当の苦難に比べれば、大したことではないのだった。この時の僕は、まだ知る由もないが。
ガタっ
スチール製の下駄箱を開けると、そこには南優子の上履きの他にもう一つ、白くて薄っぺらい“それ”が鎮座していた。
「…………」
思わず周囲を見回して、周りに誰かいないかを確認してしまった。
なぜなら、その白くて薄っぺらい物体には赤いハートのシールが張り付けられており、どこからどう見ても、ラブレターにしか見えなかったからだ。
周囲に見えるのは二、三人、その中にクラスの知り合いの姿はない。
素早くそのラブレター風の便箋をブレザーのポッケに押し込むと、そそくさと上履きに履き替え、その場を後にした。
封筒に差出人の名前はなかった。宛名だけはしっかりと、封筒の前面、ハートのシールの下に、丁寧な字で“南優子”と書かれていたが。
教室の隅、僕は机の影に手紙を隠すように、小さく、丸くなっていた。
「これ、どうしたらいいんだろう……」
穴が開くほど眺めてもまだ足りず、本当に穴をあけて中を見てしまおうかと思い悩みながら、未だ未開封のラブレターにしか見えないそれを見つめている。
僕が勝手に開けて中を見る、わけにはいかないよなぁ……、すごく気になるけど。
後できちんと優子に見せよう。
そう決意したつもりだったが、僕は自分から彼女に話しかけるのが苦手、というか、気が重くてたまらなかった。
一週間前にした素っ気ない会話だって、たぶん一か月ぶりくらいだ。
中身が入れ替わってしまった責任が僕にある、ということも気が重い理由の一つにはあるが、一番の理由は、中学の頃、二人で通っていた剣道場での出来事にある。
「はぁ……」
この体に入ってからすっかり癖になってしまった溜息をつき、ラブレターを机の中に仕舞って、顔を上げて教室の中を見まわした。
一人の男子生徒で目をとめる。そこは、一週間前まで僕が座っていたはずの席だった。
周りから“前川勇”と呼ばれている彼は、二人の友人と、ぎこちなく談笑を続けている。
ふと、振り向いた彼、いや、彼女と眼が合う、僕は咄嗟にまた机の影に隠れるよう小さくなったのだった。
こんな挙動不審な態度、南優子らしくないな、なんて思いながら。
「今日は練習試合を行う」
部活終わりに男子剣道場へ行って、手紙のことを話そうと決意した日の放課後。
いつにも増して落ち着かない気持ちで素振りをしていたところに、女子剣道部主将から号令がかかった。
「先週から話していた通り、今日の練習試合は、夏の大会での団体戦メンバー選出に大きく影響してくると思え。それでは、さっそく組み合わせを発表する」
頭の中で急速にハテナマークが増殖を始める。
咄嗟に周りを見回しても、僕以外驚いた表情を見せている人は誰もいない。
さっき主将さんは何て言っていた?
“先週も話した通り”
なるほど、そういうか。
僕が優子に入れ替わる前にこの練習試合のことは告知されていたわけか。なら知らなくて当然。でも、たぶん問題はそこじゃなくて、
“この練習試合は、夏の団体戦メンバー選出に大きく影響していると思え”
つまり、これから始まる練習試合に勝てなければ、南優子の体に入ったこの僕が、勝てなければ、
「優子が、団体戦に出れない……」
自分が置かれた現状の緊急性を理解すると同時に、主将の口から、僕の対戦相手の名前が発表されていた。
一つずつ順番に防具を付けていくと、防具の重みが、そのまま心の重みに変換されていくようだった。
僕の名前、つまり優子の名前は、組み合わせ表の一番上に書いてあり、早速僕と対戦相手は試合の準備に取り掛かった。
準備、と言っても、篭手は付けた状態で素振りをしていたので、胴と面を付けるだけですぐに完了した、が、この時の僕にとっては、もう少し心の準備が欲しいところだった。
あれよあれよという間に、全身に優子の匂いの染み込んだ防具を身に付けた僕は、まるで初めてピアノの発表会にでる子供のような気持ちで、剣道場の枠線の中へと足を踏み入れ、立礼の位置に立った。
正面に立っているのは二年生の先輩で、ガタイが良く、防具を付けている姿はまるで長身の男子と相対しているように錯覚させる。
本物の優子なら、たとえこの先輩にだって負けないんだろうけど。
いや彼女なら、たとえ相手が主将であろうと負ける可能性は低いと思われる。それくらい彼女は強いし、実際のところそこまでではないにしても、僕には、南優子が負けるところなど想像がつかなかった。
対してこの僕、前川勇が誰かに勝つ瞬間は、たとえ初心者が相手であろうと想像出来なかった。
小学校のころから初めて今まで、九年間も剣道をやってきたっていうのに、僕は、今の僕には、誰にも勝つことが出来ないだろうという、確信さえ感じるほどの諦観があった。
それはこの体になった後も同じ。実際、地稽古でも相手の攻撃をいなし続けるだけで、優勢になったことは一度もなかった。
ちゃんとした試合は優子の体に入って初めてだが、既に僕はもう戦うのが怖かった。南優子として負けるのが怖かった。
今度こそ、いや、今回だけでも。
まともに動いてくれ、僕の体。
気付けばいつの間にか、礼、そんきょ、前に出て剣先を交わすまでの工程を無意識のうちに終えており、僕は汗でびっしょりの両手で、竹刀を中段に構えていた。
こういうところは、ちゃんと体に染みついてるのにな。
「はじめ!」
審判の先輩の声が剣道場内に響き渡り、ろくに心の準備も整わないまま、優子の団体戦出場の切符を賭けた試合が、無情にも始まってしまった。
「キェェェェェェェ!」
先に仕掛けてきたのは先輩だった。中段に構えた竹刀を斜め上にスライドさせるように伸ばし、全身のバネを使ってこちらへの距離を一気に詰めてくる。
ギリギリで見切り、竹刀で相手の剣先をはじきながら、左側面へと回り込むようにして距離をとる。
まずは、自分のペースを作らないと。
そう考え、一呼吸おこうとしたのも束の間、さっきの踏み込みで軽く姿勢を崩した状態から、無理やりにこちらに振り向き、またしても面を放ってくる。
「くっ」
避けるのは間に合わない。なら、
「キェアアアアアアアアア!」
大きく気合を入れる先輩に向かってこちらも突っ込み、相手の竹刀が伸びる前に、鍔迫り合いに持ち込んで勢いを殺す。
く、うう……。
この先輩、力、つよ……。
「わかれ!」
鍔迫り合いを解き、僕と先輩は開始位置に戻る。
「はじめ!」
「メェェェェェェェェ!」
「く、うう……」
開始直後の面打ちに、またしても鍔迫り合いに持ち込むと、今度は審判の宣言がある前に別れた。
「キア!」
剣先がバチバチと激しくぶつかりあい、お互いへの牽制が続く。おそらく、今相手が狙っているのは篭手。剣先の向きと視線、足運びで直観する。
「テェェェェエ!」
読めていた動きに反応して相手の剣先をはじき、巻き技に転じようとするが、さすがにそこまで上手くはいかず、距離を取られてしまう。
まともに呼吸も整えられずに始まった試合だったが、できてる。
相手の動きはちゃんと見切れてる。と思う。
向かい合い、二人で円を描くように試合場内を周る。お互い相手が仕掛けてくるタイミングを図っていた。でも僕の方が一枚上手だ。相手はこちらの竹刀ばかり見ていたが、僕は先輩の足運びに注視していた。
突進してくるタイミングは予想通り。またしても容易にその打ちこみを鍔迫り合いで抑え込むことに成功する。
しかし、相手もこちらが鍔迫り合いをしてくることは読んでいたらしい、数瞬の直後、
「ドォォォオオオ!」
引き胴が放たれ、けたたましい声が道場内に響く、が、それも読んでいた僕は相手と同じタイミングで後ろにとび、先輩の竹刀が宙をかすめるのを見送った直後、
ここだ!
バックステップから元の位置に戻るように踏み込み、そのまま反撃の構えをとる。
この距離なら突きだ! 突きなら届く!
突きの高さに竹刀を上げ、一歩踏み込む。
それは何千回と繰り返し練習した動作だった。
思えば、小学校の頃から突きが好きで、そればかり練習していた気がする。公式大会では、中学生以下は使えないというのに。
でも今なら使える。
ほとんど無意識でも行える動作を行い終えた僕は、有効打突になったことを確かめるため、相手の喉当ての辺りを注視した。
しかし、そこにあるはずの竹刀の剣先がなかった。
不思議に思って自分の両手を見ると、竹刀は握られておらず、またさらに下へと視線を下ろすと、僕の竹刀は足元に転がっていた。
顔を上げると、対戦相手の先輩が不思議そうにこちらを見ていた。
「南……、南!」
名前を呼ばれ、審判に向きを変える。
「宣言が聞こえなかったか? やめ、だ」
竹刀を落すのは反則の一つ。どちらかが反則を行った場合は、“やめ”の宣言がなされる。
いつの間にか、僕の前身は冷や汗でびっしょりになっていた。
「はじめ!」
竹刀を拾い上げるとすぐに試合が再開された。先輩はやはり、開始と同時に打ちこんでくる。しかも、今度の攻めはさらに苛烈だった。
間断なく続く攻めに防戦一方となることを余儀なくされ、僕はじりじりと試合場の隅へと追いつめられている。
「キエア! キエイ!」
打ちこみそれ自体は単調で受けやすく、まだ十分見切れるものだったが、一撃一撃が重く、一つの打突を受ける度に、手がかすかにしびれる。
竹刀をかわしたり、はじいたり、鍔迫り合いに持ち込んだりと続けながらも、少しずつ追い詰められていく。
おかしい。
「キア! テェア!」
明らかにさっきより体に力が入ってない。それに呼吸の乱れも大きくなってる。冷や汗も止まらない。足運びもおぼつかない。
「セイ! コォォオ!」
また、か。
またなのか?
僕はやっぱり、まともに戦えないのか?
「ぐ、うぅぅっ!」
鍔迫り合いから無理やり抜け出し、相手の側面に回ってどうにか場内の隅を抜け出す。
「テェェェア!」
それでもまだ続く相手の攻め。
体の動きは著しく鈍ってきたが、それでも、まだ相手の剣筋は見えていた。
守ってばかりじゃジリ貧だ。どこか、どこか一瞬、隙を見逃さず、その一瞬で一本を取るしかない。
「チョアア!」
突きが来る。
激しい攻めから逃げるように距離を取った僕を追って、次はきっと突きを放ってくるはずだ。
そう予想し、次の瞬間、それは的中した。
「キェアアアアアアアア!」
先輩が気合十分でこちらに突進してくる。
ここだ。
突きをかわしてカウンターで面を入れる。左斜め前に出るようにして、打ちこむ!
そう判断した次の瞬間、僕の体は、南優子の体は、その場でぴたりと動くのをやめた。
「一本!」
審判の旗が上がる。
旗の色は赤、つまり、先輩に一本があったということだ。
「そこまで!」
僕の喉当てには、先輩の竹刀の剣先が綺麗に当てられていた。
さらに、面の型に構えているはずの、自分の両手に視線を向けると、そこに竹刀はなく、やはり、無残に足元に転がっていた。
「…………」
竹刀をおさめ、そんきょし、礼をする。
何千回もやった、試合終了の工程を終え、場外に出たところで、ようやく実感した。
負けた。
南優子として、負けてしまった。
体は変わっても、やっぱりまだ、ダメだっていうのか。
僕は、人に竹刀で打ちこもうとすると、急に体が動かなくなるという悪癖を抱えていた。
それから部活が終わるまで僕は顔を上げられず、終わるとさっさと着替えて逃げるように道場の外に飛び出した。
手紙のことで、僕の体に入った本物の南優子と話をしようと思ったのだ。しかし、既に男子剣道部の練習は終わっており、道場の中には数人の男子が自主練をしているだけで、そこに彼女の姿、いや、僕の元の姿はなかった。
「おや? 南さんじゃないですか。こんなむさくるしいところにどんな御用ですか?」
わざわざ素振りを止め、道場の外に出て声をかけてきたのは、僕と同学年で同じクラス、同じ剣道部の、倉持ヒサオという男だった。
良く言えばムードメーカー、悪く言えばお調子者、男の体だった頃は同じ部活ということもあって少しは話す間柄だったが、今、ヒサオはどうでもいい。
「みなみ、あ、いや、前川くんはいますか?」
「前川君をお探しでしたか、僕はてっきり、この間の手紙のことかとばかり」
ニヒルな笑みを浮かべて微笑むヒサオ。何か気になることを言った気がするが、こいつはしょっちゅうよく分からないことを言う。今それをいちいち気にしている場合ではない。
「勇くんならもう帰りましたよ。何やらどこかで秘密の特訓をしているみたいです。最近の彼、それはもうメキメキ強くなっていて。あ、いや、僕もガンガン練習して、バシバシ強くなっている最中ではあるんですが」「そうですか。失礼します」
ヒサオの話を途中で切り上げ、僕はその場を後にした。とてもヒサオのおしゃべりに付き合ってられるような気分じゃなかった。
彼女と顔を合わせずに済んだことに、少しホッとしている自分が情けなかった。
「昨日は惜しかったね。でも十分すごいよ。二年生の先輩とあんなに互角にやり合えるなんて」
翌日、朝のHR前の時間、同じ剣道部のヒトミさんが、慰めの言葉をかけてきた。
きっと、らしくない敗北をした僕のことを、いや、南優子のことを、気にかけてくれてるんだろう。いい友達だ。
「防戦一方だったし、全然、互角だなんて」
「そう? 私には、優子ちゃんの動き、まだまだ余力がある感じっていうか、とっても優雅で格好良く見えたけど」
「あはは、ありがとう……」
でも、結局負けは負けだ。
南優子の戦績に泥を塗ったばかりか、団体戦出場まで絶望的にしてしまった。
昨日から今まで一日中、僕の頭の中では、自分が竹刀を取りこぼしてしまった、あの試合終了の瞬間が何度もリフレインしている。
昨日の手紙のことなど気にならなくなるくらいには、憂鬱だった。
右斜め前の方向、僕が元いた席の辺りを、脇目に窺う。
そこには前川勇と呼ばれている優子と、友達二人組がいて、いつものように談笑をしていた。
僕が負けてしまったということは、もう、優子の耳には入っただろうか。
心配げに声をかけてくれるヒトミさんの言葉に生返事で返していると、ふと、優子と目が合った。
先に目を逸らしたのは、今度は優子の方だった。
何やら渋い顔をして、また正面へと向き直る。彼女とは長年の付き合いだから分かる。あれは、機嫌が悪い時の表情だ。
やっぱり、もう彼女の耳に昨日の敗北のニュースが入ったのかも知れない。僕のせいで団体戦に出場できなくて、それで、怒らせてしまったんだ……。
絶望的な気分にさらに拍車がかかると、今度は談笑していた友人二人とも目が合った。
かつての男友達二人組は、なにやらニヤニヤと笑ってこちらを見ている。
二人まで、何なんだいったい……。
気付くと、こちらを見て、顔に微笑を浮かべているのはあの二人だけではなかった。
クラスのあちこちから、原因不明の好奇の視線を感じる。
馬鹿にされている、というような笑い方じゃない、そういう下品な笑いよりも、もっと、純粋な興味というか、微笑ましくて笑っているような……。
「ぅん?」
同じく好奇の視線に気付いたヒトミちゃんも、不思議そうに周囲を見まわし、何のことだから分からない、という風に、私に向かって肩をすくめる。
より強い視線を感じた方に振り向くと、先には男子剣道部の倉持ヒサオと、その友人が数名おり、ヒサオは、やれやれ困ったな、とでも言いたげに芝居がかった表情をしていた。
僕の視線に気づくと、ヒサオはいつものニヒルな笑みを浮かべて、軽く手を振ったのだった。
挨拶を返す気分にもなれず、また正面に向き直った僕は、このクラスメイト達の不可思議な視線のことを、もうこれ以上気にしないことにした。
僕が周囲に興味を無くしたと感じると、ヒトミさんも同じように気にかけるのを止め、また何か談笑でもしようかと、彼女が口を開きかけるのと同時に、先生がやってきて、朝のHRが始まったのだった。
それから放課後まで、僕はこのクラスメイトの視線のことをきれいさっぱり忘れていることが出来た。昨日の試合のことで落ち込むのに忙しかったからだ。
しかしこの日の部活中、この朝の出来事を、僕はさらなる衝撃と共に、嫌でも思い出さなくてはいけなくなった。
それはヒトミさんからの、唐突な情報提供だった。
「優子ちゃん、ヒサオくんと付き合うかも知れないって、本当?」
「はい?」
自分が今南優子だと言うことも忘れて、思わず素で返事をしてしまった。
しかし、それも無理はないと思う。だって、そんな話聞いたこともないし、聞きたくもない。
これから練習が始まるという時、着替えの最中だった。
好奇心と驚きの入り混じった表情で、先に着替え終えていたヒトミさんが、更衣室に入ってきた僕を見るなりそう言ったのだった。
「何の、こと?」
僕の本気で驚愕している表情を見て察したのだろう、さっきよりも少し深刻な顔になって、ヒトミさんが事情を教えてくれた。
それはつまり、朝のHR前のアレにまつわることだった。
あの好奇の視線に疑問を持ったヒトミさんは、持ち前の人脈とコミュニケーション能力を使い、放課後までの休み時間の間に聞き込み調査を行ったらしい。真相はすぐに分かった。なんでも、僕、つまり南優子と、倉持ヒサオが、ある賭けをしたということらしかった。その賭けとは、
「何だよそれ」
慌てて昨日の、あのハートマークのラブレターの封を切り、中を見て愕然とした。
そこにはヒトミさんから聞かされた賭けの内容とそっくり同じことが書いてあり、つまり、要約すると以下の通りになる。
ヒサオは密かに、南優子に惚れていたらしかった。しかし、剣道が滅茶苦茶強い彼女に、自分は相応しくないのではないかと、ヒサオは悩んだ。そこで、自分が優子を守れる男かどうか判断するため、また、自分の覚悟を確かめるため、優子に勝負を挑んだのであった。戦いの舞台は剣道部伝統の男女対抗新人戦である。余談だが、例年男子剣道部主将と女子剣道部主将は必ず犬猿の仲になるそうで、どちらがより優秀な剣道部か、新入生五人で団体戦を行わせ、毎年競い合っているらしい。今年もご多分に漏れず、この男女対抗新人団体戦に、主将同士は闘志を燃やしているようだった。話をヒサオの手紙の内容に戻そう。とにかくそこで、自分が万が一にでも勝つことが出来たなら、自分と付き合うことを真剣に考えてほしいとの旨だった。
以上が、原稿用紙八枚にわたる倉持ヒサオから優子に当てられたラブレターの大まかな内容だった。
「最悪だ……」
書いてある内容よりもより事態を深刻にさせたのは、この手紙の差出人が倉持ヒサオであるということだった。
倉持ヒサオという人物はお調子者で、その割に礼儀正しく、たまに熱血な、つまり普通に良い奴である。クラスでも人気者で友達も多い。そして一番の特徴として、何かにつけて大仰に事を成すところがある。それも愛嬌といえば愛嬌だが、今回ばかりはそこが憎らしかった。
あいつ、絶対に言いふらしてる……。
まず間違いないだろう。朝のあの視線はそれだったんだ。ヒサオと僕、つまりヒサオと優子のことが噂になって、それで皆興味津々だったと。
くそっ、もっと早く、昨日のうちに優子に話して、断っておけば、余計な注目を集めることもなかったかも知れないのに。
ところで、この男女対抗団体戦って、
「いつだっけ?」
更衣室の隅で手紙を覗き込んでいた僕は、後ろにいるヒトミさんを見上げた。
「たしか、来週の月曜日」
もうすぐじゃないか!
いや、たとえ時間があったとしても人の口に戸は立てられない。噂が広まってしまったことは、もう元に戻しようはない。時間があっても解決できるようなことじゃない。
とにかく、今日中に優子にこのことを話そう。たぶん、もう彼女の耳にも入ってるだろうけど、それでも謝ろう。伝えるのが遅れてしまったこと。
ああもうっ。どうして昨日、メールでも電話でもして伝えなかったんだ。
南優子として負け、今度は変な約束まで結ばされて、僕はどれだけ彼女に迷惑をかける気なんだ。
今からでも遅くない、まずは優子に話して、その後ヒサオに断って……。
そこで、僕の中で一つの考えが頭をもたげた。
優子が、断らなくていいって言ったらどうしよう……。
「…………」
目の前が暗くなった。
そのパターンは、できれば考えたくない。しかし、断るも断らないも、それは彼女の自由だ。
今はまだ、元の体に戻る方法は分からないけど、でもきっと、それでもきっと、いつかは元の体に、元の生活に戻る時が来るだろう。
今の僕が竹刀で人に打ちこめないということは優子も知っている。今の僕にヒサオに勝つ見込みはない。それでも、約束を受けてもいい、と彼女が言ったらなら、それはつまり、ヒサオと付き合ってもいい、ということだ。
それは、いやだ。
いやだ……、けど……。
「南優子! 佐藤ヒトミ!」
更衣室に主将の声が響き、僕とヒトミさんは慌てて振り向く。
「もう練習は始まっているぞ。さっさと来い」
「は、は~い、ごめんなさいー」
主将さんの立つ更衣室の扉の方へと、頭を下げながら向かうヒトミさんの背中を見送り、僕も着替えを始めたのだった。
当然、この日もまるで練習に身が入らなかった。
部活終わり、憂鬱な気持ちを振り払うようにキビキビと何かに追われるような動きで帰りの支度を済ませ、ヒトミさんからの一緒に帰ろうという誘いを断り、僕は男子剣道場の前まで来ていた。
開け放たれた扉から中を覗くと、昨日と同じように数人の男子が自主練や帰り支度にいそしんでいる。
目をこらして探すも、そこにヒサオの姿はない。
昨日はいたのに! どうして肝心な時に居ないんだ!
ヒサオの連絡先も知らない。知っていたところで、データはケータイの中だから今は見れない。家なんてもっと知らない。
優子は、僕の姿の優子はまだ学校にいるだろうか? ヒサオよりまず彼女だ。でも昨日もヒサオより先に帰っていたらしいし、秘密の特訓、とかヒサオは言ってたっけ。
たしか優子は、高校に入ってもまだあそこに通っているはずだ。あの剣道場に。
僕と優子が、小学校の頃から通っていたその剣道教室は、あの因縁の神社から、山を下りてすぐのところにある。
高校に上がると同時にあことが原因で辞めてしまった身としては、今更のこのこ顔を出すのは正直気後れしてしまう。出来れば道場には行きたくない、行きたくないけれど、それは僕の理屈だ。優子には関係ない。
決意して、男子剣道場がある裏庭を後にしようと、振り向いた時。
捜していた人は、僕のすぐ後ろにいた。
「ここに、いたんだ……」
一週間ぶりに聞く自分の声に違和感を感じたものの、確かにその発音や抑揚の付け方は、彼女に違いなかった。
「優子……」
眉根に皺を寄せて、怒っているような、困っているような、微妙な表情をした自分の顔が、南優子がそこにいた。
「何してるの?」
言いながらそっぽを向いた優子は、唇を尖らせて、警戒心の強い猫のような表情を僕の顔の上に作った。
「き、君を捜してて。どうしても、謝らなきゃいけないことが」
「知ってる」
神経質そうな、内向的そうな表情で、ぶっきら棒に答える彼女。あまり社交的でないところと、ポーカーフェイスが苦手なところは、数少ない僕との共通点だった。
お互い人見知りをするタイプで、引っ込み思案で、それでも、僕たち二人は長い時間をかけて、これまで少しずつ仲良くなってきた、と、思う。中学時代までは。
でも今、高校に入ってからは、目を合わせることすら少なくなった。原因はもちろん僕にある。
「朝、君の友達から聞いたから。ヒサオくんとのこと。そういう約束をしたって」
「し、してないんだ! 約束なんて。実は昨日の朝にあの手紙をもらって、それで朝学校に来たらいつの間に知れ渡ってて」「もう、いいよ」
僕の顔で彼女が作る表情は、いろんな意味に見て取れた。不機嫌そうにも、諦めているようにも、子供が駄々をこねているようにも、無理して強がっているようにも。
「え……?」
もういいって。
「好きにしたらいいよ。それだけ。それだけ……言いたくて、君のこと捜してたの」
片腕でもう一方の腕を掴み立つその姿勢は、まるでこちらを拒絶しているようだった。
「もしかしたら私たち、もう、元に戻れないかも、知れないんだし……」
“そんなことはない。必ず元に戻る手段は見つける”
そう強く言える自信は、ない。
「このままで生きていくことも、考えた方がいいのかも、だから」
最後に一際大きくそっぽを向いて、
「だから、好きにしたらいいよっ」
元々あまり感情を大きく表さないタイプだから、優子の仕草は、傍目にはその気持ちが分かりにくい時もある。しかし、今回は簡単だ。
「じゃ、じゃあね……っ」
それだけ言って、肩にかけた鞄を担ぎ直すと、優子はさっさと行ってしまったのだった。
「…………」
今度は溜息すら出なかった。
明らかに怒ってた、よな……。
まず一つ、僕と優子が入れ替わってしまったこと。
次に、僕のせいで優子が団体戦出場の機会を逃してしまったこと。
そして最後に、僕のせいで、かどうかは分からないが、ヒサオと優子が付き合ってしまうかも知れないということ。
以上、三つの懸念事項が、今の自分にのしかかっている全てだ。
どれ一つとっても、今の僕には解決しようのない問題ばかりだった。
「元はと言えば、あいつが……」
慣れない愚痴を言おうとして、予想通り言葉に詰まる。
人格の入れ替わり、なんて荒唐無稽な話を持ち出したのは僕の友達だけど、それにノッたのは他ならぬ僕だ。二年生の先輩との試合に負けたのも僕で、手紙をきちんと確認しなかったのも僕だ。
「僕が、どうにかしないとな……」
小さく呟いた言葉は風呂場のタイルに反響し、自分の耳に返ってくるなり、その頼りない声に落ち込んだ。
チャプン。
湯船の中、体育座りになって顔を湯面に付けてみる。
何も変わらないので、より深く体を湯船に沈み込ませ、丸まって、すっぽり湯面の下に潜る。
そうして十秒くらい潜っていたが、当然、気分転換には少しもならなかった。
「ぷは……っ」
「お姉ちゃん何してんの?」
「……へ」
声のする方へ顔を向けると杏子ちゃんが、今は僕の妹ということになっている女の子が、生まれたままの姿で、桶で体を流していた。
「…………」
驚きの声をぐっと押し殺し、ゆっくりと彼女から視線を逸らして、僕はまた小さく体育座りの格好に戻ることにしたのだった。
「ふー、さっぱりー。お姉ちゃんはもう体洗った?」
「う、うん。もう、済ませた」
「ふーん」
サプン、と、小気味良い音を立てて、杏子ちゃんは僕と向かい合うように湯船に浸る。
居場所を無くしたお湯たちが、僅かに洗い場へと流れ落ちていった。
南家のお風呂は立派で、二人の人間が体育座りで収まっても、まだ少し余裕があった。
「…………」
チャプチャプ……。
杏子ちゃんが手持無沙汰に湯面に波を立てている。
同級生の妹と一緒にお風呂に入る。
このシチュエーションはどうなのだろう。僕の友達だったら大喜び、だろうか? さすがにそこまで能天気かつ不義理なやつではない、と思う。
僕個人の感想としては、以前、同じようなことがあった時に比べて、あまり動揺はしなかった。三つの懸念事項のせいか、それとも杏子ちゃんを騙していることからくる罪悪感か。
あるいは、異性の体に慣れてしまったのかも知れない。
「最近どう?」
おもむろにそう質問してきた杏子ちゃん、質問した割に興味は無さそうで、きっとこの時間が退屈だったんだろう。
「うーんと、なんとか、やってるよ……?」
ヒトミさんとの会話の時もそうだったが、僕は優子が普段、周りの人とどんな風に会話していたかを知らない。僕と二人きりで話していた時の思い出は数えきれないくらいあるけど。
だから、こうして南優子として誰かと会話するとき、どこか不自然なところはないかと、おっかなびっくりになってしまうのだ。
「本当に?」
少しだけギョッとして、顔を上げる。
杏子ちゃんは相変わらず興味なさそうに、チャプチャプ水面を叩いていた。
そういえば中学の頃一度だけ杏子ちゃんに会ったことがあるが、その時もこんな感じだったっけ。何にも興味なさそうに見えて、案外聡い子なんだろう。
「本当に、って?」
「意味はないけどね、なんとなく、元気なさそうだなって」
さすが良く見てるんだな。
「……そう、かも」
否定するのも不自然かと思って、軽く肯定してみた。
しかしそれがマズかった。
誰にも言えない秘密を抱え心労が溜まっていたせいか、ダムが決壊するように、僕の口は言わなくていいことまで喋り始めてしまったのだ。
「実は、最近剣道で上手くいかなくて。なんか、自分が思い通りに動かないっていうか、自分が、自分じゃないみたいっていうか……」
「…………」
顔を上げると、黙って続きを促すかのように、杏子ちゃんは手持無沙汰に動かしていた手を止めて、こちらを見つめていた。
「えっと……、前まで、意図しないでも出来ていたことが、急に出来なくなってきちゃって、だからそれの治し方も分かんなくて」
「うん」
「どこをどうすれば上手くいくとか、もっと分かりやすければいいのにな、とか思ったりして……」
「ふーん。よく分かんないけど」
顎に人差し指を当てて、思案顔を作る杏子ちゃん。中学生一年生らしいあどけなさがにじみでていた。
「お姉ちゃんが悩んでるのってさ、勇さんのこと?」
自分の名前を呼ばれて、内臓に触れられたような気がした。
「どうして、そう思うの?」
「だって、お姉ちゃんに調子悪い、なんて台詞言わせられるの、勇さんくらいだし」
たしかに、杏子ちゃんが考えてるのとは別な意味で、僕が言わせてるな。
「もしかして、やっぱり傷のこと気にしてるの?」
「傷?」
それって、もしかして。
「うん、首んとこの。今も見えてるよ」
僕は咄嗟に自分の首元に手を当ててみた。違和感のあるところは、ない。
しかし、怪訝な顔の杏子ちゃんの次の台詞で、僕は全身の気が逆立った。
「お姉ちゃん、自分で言ってたじゃん。普段は見えないけど、お風呂とかで体が温まると見える傷があるってさ。首のところに」
自分の首を指さす杏子ちゃん。
そこは、剣道で言えば喉当ての少し下の位置だった。
黙って立ち上がり、心配げな杏子ちゃんの言葉を無視し、体もろくに拭かず、僕は脱衣所に出た。
脱衣所の大きな鏡に映るのは裸の自分。裸の南優子。
優子の首元には、裂傷のような形の赤い模様が、痛々しく浮かんでいた。
僕と優子が出会ったのは小学校の頃、いったいどういう経緯で知り合ったのかはもう忘れてしまった。気付いた時にはすでに、剣道場で並んで素振りをしていたと思う。
昔のことで覚えているのは、始めの頃は僕が強くて、それから次第に優子が追い越していったということくらい。
要因は色々あると思う。優子に才能があったとか、僕以上の努力家だったとか、あとは僕が、中学生以下では使えない突きの練習ばかりしていたからとか。
しかし、僕が剣道に興味を持ったのも、そもそも突き技が理由だった。我ながら単純だが、剣道のテレビ放送、大人の部の全国大会生中継、一方の選手が高速で繰り出した突きに、一目で魅了されてしまったのだ。その選手は結局準優勝だったけど。
そういえば、優子が剣道を始めた理由は何だっけ……。
カーテンの隙間から差しこむ光に、ベッドの中で身じろぎをする。
頭に響く鈍痛をこらえながら、布団に顔をうずめると、安心する匂いが鼻孔を満たした。何故安心するのかは分からない。
ベッドの匂いも、この部屋の匂いも、入れ替わった直後の違和感は薄れ、すっかり自分のもののように感じ始めていた。
布団から顔を出し、スマートフォンのスイッチを入れると、画面には十五時十一分と表示されていた。
今頃、皆部活か。
きっとヒトミさんが優子の欠席を主将さんに告げてくれたことだろう。
僕は今日、体調不良で学校を休んでいたのだ。
朝、原因不明の頭痛と気だるさが体を襲い、風邪かと思って優子の両親に相談したところ、学校を休むことになった。
ついさっき気付いたことだが、生理だった。
女の人は毎月こんな気分にならなきゃいけないのか。それとも、やはり何か他の病でも併発してしまったのか。心の病ならあり得る気がする。
スマートフォンのスライドロックを解除すると、メール二件の着信を示すマークが表示されていた。
一週間この体で過ごして分かったことだが、優子は普段からケータイをほとんど使わないらしい。メールが届いたのもこれが初めてだった。それにアプリもほとんど初期状態のままである。まぁ、僕のスマートフォンも似たようなものだけど。
プライバシーのことも考え、これまで極力ケータイの中は見ないようにしていたのだが、この間のヒサオの手紙の経験もある。
布団にくるまったまま、親指でタップしてメールアプリを起動した。
二件のメールの差出人の欄に表示された名前は、それぞれ“佐藤ヒトミ”と“女子剣道部主将”だった。中身を簡単にチェックすると、ヒトミさんのメールには、来週の試合のことは気にせずゆっくり休むべし、といったこちらを気遣うようなことが書いてあった。主将さんからのメールの内容はその真逆で、来週の月曜日の男女対抗戦がどれだけ大事なものかを熱弁した後、これを休んだ一年生には地獄の特訓メニューが一週間毎日二時間ずつ追加されるという脅迫じみた文言で埋められていた。主将さんのメールはどうやら女子剣道部員全員に送信されたものらしかった。
メールアプリを閉じて、再度ホーム画面に戻り、今日の日付を確認する。
五月七日、金曜日。
三日後にはもう男女対抗戦だ。
そこで負けたら、負けたら……。
“好きにしたらいいよ”
あれは、受けてもいい、ってことだったんだろうか。ヒサオと付き合ってもいい、と。
いやいや、それもやっぱり僕の勝手な考えじゃないか。まだそうと決まったわけじゃない。それに、好きにしたらいいなんて言われても、やっぱり僕に決められることじゃない。
気だるげで胡乱な焦燥感が、ジリジリと湧きあがってくる。
今日は金曜日、ヒサオと話をするとしたら、もう今日しかない。
「やっぱり、断らなきゃ……」
決断して、ベッドから起き上がり、制服に着替えると、僕は人気のなくなった優子の家を後にした。
それは学校までの道中、大通り沿いのコンビニ前を通りかかった時に起こった。
コンビニ前には数人の男たちがたむろしており、彼らは皆、僕や優子とは異なる高校の制服を身に付けていた。原因不明の視線を感じた僕は足早にその場を立ち去ろうとしたのだが、コンビニ前にいた他校の男子生徒一団はいつの間にかこちらへと歩き出しており、そういうことか、と合点がいった僕は、さらに足を速めたのだ。
しかし、自分の歩幅がいつもより小さくなっていることを失念していた。あっけなく正面を塞がれ、僕は声を掛けられてしまった。
「やぁ」
無視していこうかとも思ったが、その男が声を掛けると同時に、退路も塞がれてしまう。
顔を上げると、いかにもな優男が笑みを浮かべており、気付くと続々と彼の連れ合いたちが僕の周りに集まってきていた。
正面の優男も含めて、一、二、三……、四人か。
「うわっ、レベル高」
「俺かなり好みなんだけど」
集まってきた男たちが僕の、優子の顔を無遠慮に覗き込み、各々勝手な感想を漏らしていく。
正面に立つ優男はきちっと制服を着こなし、身なりも整っていたが、後から来た三人は制服を中途半端に着崩し、すぐにそれと分かるチンピラらしい風貌だった。
「ねぇねぇ、もしかしてさ、今暇してる?」
よく出来たバランスで配置された口の端を吊り上げて、正面の男がどこかで聞いたような台詞を投げかけてくる。
どうやら、彼がリーダーらしい。
僕は答えずに、もう一度周りを見まわした。
ちょうど正面と後ろ、左右を囲まれ、逃げ出せそうにない。大通りということもあって人通りはちらほらあるが、こちらを気にかける人は誰もいない。
「暇してんでしょ? 答えてよ」
先ほどよりも多少苛立った声で、優男がまた同じ質問を投げかけてきた。
「暇してない。どいて欲しいんだけど」
「うっそだー、そんな鞄も持たないで歩っててさ、暇してないわけないじゃん。それとも散歩に忙しいわけ?」
何が面白いのか、つられるように取り巻きの三人が下卑た笑い声を漏らす。
「僕らさ、これからカラオケでも行こうかなって思ってたんだけど、君も一緒にどうかな、もちろん奢るよ。君みたいに可愛い子が一緒に遊んでくれるなら、カラオケじゃなくても、何でも奢っちゃうけど」
「いらない、どいて」
「そんな連れないこと言わないでよ。それとさ、人と話すときは目を見て話してよ。そんな俯いたままじゃなくてさ。傷つくじゃん」
「話すことなんてない。どいて」
「だーからさぁ! ちゃんとこっち見なよ。何? もしかして怖がってんの? ダイジョブダ イジョブ! 俺ら、すっごい優しいから、あっちの方だって結構優しくヤるんだよ?」
一際大きく、取り巻きの連中がケタケタ笑う。
「どいてって……」
「いい加減にしなって。諦めて俺らと遊ぼう? それと何度も言わせないでほしいんだけど、ちゃんと顔上げろって」
「どいて」
「ああもう! だっからさぁ! 分かんないかなぁ。そういう風に強情だから、俺らも痛くしちゃうんじゃん? 嫌でしょ? 君はそんなことも分かんないような馬鹿じゃないっしょ?」
「……どいて」
「だからぁ……、ホント……、ちゃんとこっち見て話せって……」
そこで、優男が尻すぼみに言葉を途切れさせた。
正面の男が振り返る気配がして、つられて僕も顔を上げた。
「何? 君」
顔を上げると、そこには肩に竹刀袋と学校の鞄を背負った男の姿があった。
優子が、立っていた。
「……大丈夫?」
彼女が、場違いなほどに穏やかな声で僕に、僕だけに語りかけた。
優男以外の三人も優子の姿を見とめると、「んだてめぇ!」だとか「何見てんだ!」とか、よくあるセリフを次々口にしていくが、優子はそのどれにも取り合わなかった。
「何なの? 君。僕らちょっと取り込んでるから、どっか行ってて欲しいんだけど」
「大丈夫?」
優男の発言を無視して、再度、優子が僕に声をかける。
「…………」
返事をしようとして開いた口からは、言葉の代わりに重い空気が溢れ出した。口が、思うように動かない。
「…………」
優男が黙って、僕と優子を何度か見比べる。
「…………はー」
そいつは少しして溜息をつくと、やれやれといった風に肩をすくめ、直後、さっきまでと同じ、作り物のような笑みを顔に貼り付けて、僕に語りかけた。
「イケメンな彼氏に助けてもらえてよかったね。バイバイ」
それだけ言って、彼はさっさと僕の横を通り過ぎて行ったのだった。
取り巻き達も彼の後についていき、僕と優子は二人きりになった。
「大丈夫?」
去って行く男たち四人組には最後まで一瞥もくれず、歩み寄る優子。
優子が近づくと咄嗟に顔を伏せてしまう。優子の心配げな言葉に、さっきまでとは全く別な感情が湧きあがってきて、唇を噛んた。
「勇……?」
心配そうな彼女の言葉が頭上から降り注ぐ。
「ありがとう」とか「助かったよ」とか、言わなければならない。せめて一言、お礼を言うべきだ。
しかし、どうしても僕には顔を上げられない理由があった。
「その……、これからね、勇の家に、あ、いや、私の家に行こうと思って。この間のこと、謝らなきゃって思ってたから……。いさむ?」
何も言わず優子の隣を素通りし、俯いたまま前へ前へと僕は歩き出していた。さっきの男たちとは逆方向に。
「い、いさむっ、私、昨日のこと、謝りたかったの」
当惑した優子の声が遠ざかっていく。
いつしか僕の歩みは早歩きになり、そして小走りになっていた。
顔を上げられない理由があった。
泣きそうだったからだ。
怖かった。
怖くて、たまらなかった。
「……くそっ、うっ、くそっ、くそ……」
しかし、あの男たちへの恐怖よりもずっと、もっとずっと強烈に僕の心を乱したのは、優子が現れたことだった。
彼女が現れて、僕は安堵してしまったんだ。ホッとしてしまった。
それが何より、悔しくて仕方がなかったんだ。
自分が憎らしくてたまらなかった。
女としての生活に慣れるにしたがって、心まで、尚更女々しく変わってきているのかもな。
そうとでも思わなければ、今の僕はあまりにもみじめだった。
中学を卒業して、一週間ほど経った頃だ。
優子と同じ高校への進学が決定した僕は、高校への入学準備を整えながら、それまでと変わらず剣道場へ通う日々を過ごしていた。そして、それは優子も同じだった。
僕と彼女は剣道場での練習の帰り、自転車を引きながら、二人で並んで帰るのが習慣になっていた。
お互いに口数が多い方でも無かったし、とりとめのない話ばかりだったけれど、僕にとって、その時間が幸福だったことは間違いない。そして優子にとっても、その時間が幸福であればいいと考えていた。
そんなある日、いつもの剣道場からの帰り道、僕は優子を、近くの神社へと連れ出した。
その神社に何か用事があったわけでも、特別な思い入れがあったわけでもない。
ただ、大事な話は、神聖な場所でするべきだと思っただけなのだ。
僕はそこで優子に告白した。
その神社が恋愛成就の神社であると耳にしたのは高校に入ってからだったが、今から思うと、やはり眉唾だったんだろう。
優子はしどろもどろになりながら、返事は待ってほしいとだけ告げて、顔を真っ赤にして、逃げるようにその場を去っていった。
次の日もまた、僕と優子は剣道場で練習していた。いつものように稽古をして、いつものように練習試合をした。ただ少し、お互いに気まずかった。
この日の日付は四月一日。
剣道において、突き技が使えるのは高校生以上とされている。理由はもちろん、危険だから。
突き技は僕が剣道に憧れた最初の動機であり、一番練習してきた技だった。
あの時の自分の気持ちは正直よく思い出せない。もしかしたら浮かれていたのかも知れないし、不安だったのかも知れないし、何かが焦らせたのかも知れない。
とにかく、練習試合で戦った優子に対して僕は突きを放ち、それは失敗した。
優子の首元にあの傷を負わせたのは僕だ。
傷がまだ残っていたなんて、昨日までは知らなかったけれど。
苦しそうな優子の表情、慌ただしい周囲の声、何をすべきか分からず立ちすくむ、頼りない自分。視界が真っ白に染まり、次第にすすけて、灰色になっていく感覚は今でも覚えている。
それからは色々なことがあった。
まず道場を辞めた。先生は何故か、僕に「すまない」と言っていたが、僕が辞めるのは当然のことだと思う。次に、入院した優子のもとへ両親と共に謝りに行った。彼女と視線を合わせることがどうしても出来ず、俯いたまま必死に謝った。彼女の病院に訪れたのは、これが最初で最後だった。
そのまま、優とは一度も顔を合わせることなく高校の入学式の日を迎え、退院した優は、僕と同じクラスに一週間遅れで入った。
以来、僕と優の人格が入れ替わるという出来事があるまで、彼女と会話をすることは一度もなかった。
「ごちそうさまでした」
すっかり慣れた南家の食卓に普段より早めに別れを告げた僕は二階の自室に戻り、ベッドの上に倒れ込んだ。もう寝間着には着替え終えているし、お風呂も済ませたし、あとはもう寝るだけだ。
あれから、あてどなく街中を歩き続けた後ふと我に返り、当初の目的であるヒサオに会うために学校に向かった。しかし、今日の部活動はどうやら早めに終了していたようで、僕が着いた頃には男子剣道場は既に閑散として誰もいなかった。
そうでなきゃ、優子があの時、あの場所に現れるはずがないもんな。
むしろ、今日の男子剣道部の部活が早く終わっていたことは幸運だったのかも知れない。
だって、そうじゃなきゃ今頃……。
「…………」
それ以上は考えるのも嫌だった。
よりきつく自分の、この優子の体を抱き抱えた。
つとめて、今日あった出来事から意識を逸らし、忘れようとした。
今日の出来事だけでなく、全ての問題を忘れたかった。
そう思い立って、実際に忘れて行動してみることにした。
まずはベッドから起き出して机に向かうことにした。
今日は学校を休んでしまったから、ヒトミさんにでも連絡して授業の内容を教えてもらおこうか。優子は勉強も得意だしな。優子として振る舞うなら、もっと予習と復習を徹底しないと。
学生鞄から筆箱とノート、そして教科書を取り出す。
ああ、それと運動もした方がいいかも知れない。この間の体育でやったバレーでは散々だったからな。運動が得意なはずの優子の名前に、このままだと傷がついてしまう。バレーとテニス、あとはソフトボールの練習もしておいた方がいいかな。あとは家族や友達、人間関係をもう少し円滑にしておいた方がいいな。最近元気がなさそうだと、お父さんもお母さんも、妹の杏子ちゃんも心配していた。明日明後日は休みだし、家族と家で過ごすのもいいかもしれない。
他に、優子として生活していく上でやるべきことは何だろう。
いつか、また元に戻れる日が来るまで、優子の評判を落とすわけにはいかない。
僕は教科書を開き、ノートを開き、早速出来ることから始めることにした。まずは一昨日の授業の復習だ。
ページを繰り、ノートに数式を書き込み、答えあわせを行う。
こうしていると、ずっと前から、自分はこうだったんじゃないかという錯覚が出来た。
この家で寝起きし、ヒトミさんや妹の杏子ちゃんと遊び、そして女子剣道部に通う。
錯覚だと分かってはいても、思い込んだ方が気が楽で、よりいっそう、目の前の勉強に身が入るのだ。
それから三十分後、僕の集中を解いたのはメールの着信音だった。
耳につくバイヴレーションの音に、目の前の課題を中断してケータイに手を伸ばすと、画面に表示されていた文字は“前川勇”僕の名前だった。
メールボックスを開き、本文を読む。それは、優子からのメールに間違いなかった。
【差出人:前川勇
件名:勇へ。
明日、道具を一式持って、剣道場に来て】
それだけだった。
それだけで、僕は目の前の課題に身が入らなくなってしまい、またベッドへと逆戻りして、小さく、丸くなったのだった。
次の日、空は嫌になるほどの快晴だった。
左手には道路まで侵食している雑木林、右手には田んぼ、山の麓の歩道もないコンクリ道を、僕はえっちらおっちら自転車をこいでいた。
籠には洗濯したばかりの剣道着、肩には防具と竹刀をまとめた道具袋をさげ、軽く息を切らし、汗で制服を体に貼りつけながら、重い荷物に重心をとられないようにしつつ、僕は恨めしく天を仰ぐ。
五月も始まったばかりだというのに、何だろうこの暑さは。異常気象というやつか。毎年その単語聞いてる気がする。異常気象でない年がそもそもなかったんじゃないかと思えてくる。
制服を選んだのが間違いだった。休日にどんな服装をすればいいか分からず、自分流のコーディネートをして失敗するのも怖かったので無難に制服にしたのだが。
「サイクリング日和だな……」
自分の心理状況と今日の天気とのギャップに、つい自嘲的に呟いてしまう。
まだ十時前にも関わらず既に日は高く、強烈な日差しが肌を差す。
メールには時刻の指定が無かった。でも、僕と優子にとってはあれで十分伝わっている。中学までがそうだったから。練習が始まるのは、いつも十時だったからだ。
自転車で僕の家から四十五分、優子の家からは三十分の位置に、その剣道場はある。
周囲を田んぼと林に囲まれた人里離れた場所で、木造平屋の瓦屋根、俯瞰して見たらたぶん長方形。
正面から見るとガラス戸が平屋を囲うようにぐるりと一周しているのが分かり、ガラス戸の奥には茶色の引き戸が横に何枚も連なっている。玄関の上には堂々と“田村剣道場”と書かれた看板構え、なだらかな三角頭の上には黒い瓦を載せている。あとは屋根付きの自転車小屋と、壊れた防具や竹刀が押し込められたプレハブの物置が、長方形の道場の傍に寄り添うように立っているだけ。
ここに、つい二か月前まで通ってたんだな。
ほぼきっかり三十分でついて、時刻は午前十時。春休みの頃なら練習開始の三十分前には着いていたが、今回ばかりは早く着きたくなかった。
自転車を降り、荷物を抱え、剣道場の前に立つ。
敷地内に敷き詰められた砂利の感触を靴越しに感じて、懐かしさと、自分が遠いところに行ってしまったような、場違いな感情が同時に去来した。
重い道具を背負い直し、僕は看板下の扉へと進んでいく。
扉に手をかけ、意を決して一息に開くと、冷ややかな風が一筋、頬を撫でた。
中は暗く、日によって温められる前の、湿り気を帯びた冷たい空気が充満していた。
今日は土曜日、道場はお休みのはずだ。
一足踏み入れると、強い日差しと重い荷物で火照った体が、包まれるように温度を奪われていき、それが案外心地よかった。
中も全く変わってないな。
広い玄関は左右を下駄箱に挟まれ、正面には人一人分くらいの大きさのガラスケースが横に三つ連なっている。ケースの中に納められているのは、この道場の生徒達が獲得した数々のトロフィーや楯、優勝旗だ。たぶん、ケースの中の三割くらいには、優子の名前が刻まれているだろう。僕の名前は一つもない。
靴を脱ぎ、上がろうとして、気付いた。
玄関に、男物のローファーが一組行儀よく並んでいた。それは正真正銘、僕が男だった時に使っていた靴だった。
一歩一歩、ゆっくり道場の中を進んでいきながら、玄関と同じように何も変わっていないことを一つ一つ確かめていく。
足の裏に冷たく伝わる硬い床の感触、試合場を区切る白線、隅に置かれた竹刀立て、正面の壁一面を覆う鏡。
先生から聞いた話では、ここは剣道場になる前バレエ教室だったらしい。改装するとき、この鏡と壁に備え付けられた手すりだけは練習に仕えるので残したそうだ。
こうして鏡の前に立って、よく自分の型をチェックしていたっけ。
その場に荷物を下ろすため、しゃがもうとした時、鏡に映る人の姿を捉えた。
彼を、いや、彼女を見とめてもすぐにはふり返らなかった。彼女が既にここに居ることは、靴を見た時、いや、玄関の鍵が開いていた時から気付いていた。
「……お、おはよう」
鏡越しに優子と目が合い、僕が振り向くと同時に、彼女がそう投げかける。
暗がりの中、言うべき言葉が見つからない、といった風の優子がそこにいた。足元には、僕と同じように剣道用の道具袋が転がっている。
「おはよう……」
僕も同じく返したが、本当はまず先に言うべき言葉があったんじゃないかと思う。
挨拶の後に何か言葉を続けようとも思ったが、何から切り出したらいいか分からず、結局、開きかけた口を閉ざしてしまった。そしてそれは相手も同じようだった。
薄暗い道場の中にまたしても沈黙が訪れた。暗闇での沈黙は、いつもより深く感じる。
それから数瞬して、ようやく口を開いたのは、僕の方だった。
「昨日は、ごめんなさい……」
頭を下げ、磨かれたフローリングに映る自分の影に目を落とす。
「助けてもらったのに、お礼も言わずに、逃げたりして。優子には本当、迷惑ばっかりかけちゃって、ヒサオのことだってそうだし」
一度謝り始めてしまうと、次から次に、これまで気にかかっていた、優子に申し訳ないなと思っていたことが溢れ出してきた。
「それに、先週のテスト、国語の小テストであまり良くない点を取ってしまったし、体育の授業でもバレーでヘマをしたんだ。あとは、部活で、この間の練習試合で、僕は負けてしまった。そのせいで優子が団体戦に出場することが出来なくなっちゃったかも知れない、それに……」
それに……、
「首の、傷のこと……。まさか、まだ残ってるなんて知らなかった。てっきりもう治ったのかと思って、取り返しのつかないことをして、今更、こんな風に謝るなんて虫がいいかもしれないけど、僕、優子にどうしても謝りたくて、謝りたいことが、たくさんあって」「勇」
名前を呼ばれて、何かに引き付けられるように、顔が持ち上げられる。
もうずっと、その名前で呼ばれていない気がした。
「勇は、私の体で剣道をしてみてどうだった?」
質問の意図が分からず、困惑した。
「女子剣道部で剣道をやってみて、どうだった?」
他愛のない世間話でもして、話を逸らそうとしているのかと思ったけど、違う。優子の顔は真剣だった。
「それは、まぁ。今の僕は優子だから、一応やってみたけど」
「竹刀は、人に打ちこめた?」
「ごめん……、出来なかった」
結果はボロボロ、優子と同等の技術を女子剣道部で示すなんて夢のまた夢、人に竹刀を打ちこむことすら出来ないんだ。自分でも救いようがないと思う。
「そう……」
本気で残念そうに目を伏せる優子。ああ、いつもそうなんだ。僕はこうして優子を悲しませてばかりで、そして優子は落ち込む僕をいつも心配してくれる。
「ねぇ勇、私と特訓してみない? また、ここで。土日なら先生も道場を貸してくれるの。私、最近先生から鍵を渡されてね、たまに休みの日も来たりするんだ」
そう言ってかすかにはにかむ彼女。
謝ってばかりの僕に、気を遣わせないようにしてる、んだよな。
「優子が、そうすべきだと思うなら、僕はそうするよ。その責任があるし。でも、また打ちこめるようになるか……」
「やってみないと分からないよ。その、もし良かったら明日から、ううん、今日からでも始めようよ。元に戻った時に、またすぐ剣道を始められるように」
どうして優子は、今そんなことを気にかけるのだろう。
ヒサオのこととか、昨日みたいなこととか、もっと、心配すべきことはたくさんあるのに。
「元に戻ったら、戻れるか分からないけど、たぶん剣道は辞めるよ」
「……そう、なの……?」
それは本気で驚愕している表情だった。僕の姿だけど、それくらいは分かる。でも何故そんな表情をしたのかが分からない。
「辞め、ちゃうの?」
「きっと。でもそんなことより、今は優子のことだよ」
悲しそうな彼女の顔から目を逸らし、話題も逸らす。
「団体戦や、学校の授業のことは無理でも、せめてヒサオとの約束くらいはどうにかしないと」
「ヒサオくんと私が付き合うっていう、あの話?」
「うん。実はまだ、まともにヒサオと話もしていなくて、僕が手紙をきちんと読まなかったばかりに、本当にごめん」
「そ、そのことなら、私だって謝らなきゃ。この間は、勝手に勘違いして、怒って、突き放すようなこと言っちゃってごめんなさい。よく考えれば、勇がそんな大事な約束、勝手に決めたりしない人だってことくらい分かるのに」
その言葉を聞いて、優子が本心から“好きにしたらいい”と言っていたわけではないと知って、心の底で喜んだ自分を浅ましく思った。
「そ、そっか。だったら、今からでもヒサオに会って断らないと。連絡先は知らないし、土日だけど、きっとクラスの誰かに聞けば」「でも、やっぱりあの話は断らなくていいよ」
「え……?」
それってつまり、ヒサオと付き合ってもいいって、こと……?
「だって、勇が勝てばいいんだから」
「…………」
驚いて、次の瞬間にはまたみじめになった。
優子は無邪気にそう言うが、しかし、今の僕にそれは酷な話だった。
たしか、僕や優子と同じようにヒサオもまた経験者だ。それもそこそこの有段者らしい。仮に僕が人に打ちこめる状態だったとしても、勝てるかどうかは五分と五分、実際は打ちこめないので、つまり絶望的。
「ごめん、無理だよ……」
「どうして?」
聞かれて、つい自分の首元を手で触れた。
「それは……」
分かってるはずだろ。優子だって。
「僕は、人に打ちこめない」
「そう。やっぱり、気にしてるんだね」
「当たり前だよ、気にするよ。気にしないわけにはいかないよ。この体になって、傷が残ってるって知って、尚更……」
指先で触れても分からない。でも確かにある。お風呂場で見た、あの傷の形がくっきりと瞼の裏に浮かび上がる。
「怖いんだ、また、怪我させてしまうんじゃないかって」
「………………そう」
呟くように優子が言う。
それから少しの間があって、再度、優子の声が聞こえた時には、彼女の声音はさっきと違っていた。今度は呟くような小さな声でなく、決意の籠もった、本来の彼女らしい声だった。
「ねぇ、勇」
僕は顔を上げ、無言で返事をする。
次に優子が言った台詞の意味が初めは分からなかった。しかし、彼女の目を見て、きっとそれが今日、僕を呼び出した一番の目的なのだと確信した。
「私と、勝負してみようよ」
僕は黙って、首を縦に振っていた。
それぞれ別な更衣室で道着に着替えて、髪の毛を縛り、垂れ、胴、篭手を付け、面を抱えて、それで準備は終わり。
今、僕たちは竹刀を握り、試合場を挟んで向かい合っていた。
剣道場の中は暗いままだ。
「一本先取で勝ち、それ以外は無効」
「分かった、けど……」
試合場を挟んだ正面には、道着を着て、竹刀を握り、片手に面を抱えた、二か月前の自分がいた。
こっちの僕は、竹刀を持つ手が震えている。
「どうして、急に勝負しようなんて?」
「久しぶり、だから。勇と剣道するの」
「それだけ?」
「他にも理由はあるよ。でも、それは終わってから教えてあげる」
少しの間があって、僕たちはどちらからともなく、面を被り、九メートル×九メートルの白線の内側へと足を踏み入れた。
「「よろしくお願いします」」
二人の輪唱が暗闇に響き、同時に竹刀が中段に構えられた。
「ねぇ勇」
暗い、顔の見えない面の奥から、僕自身の声が聞こえてくる。
「私、勇と違って、突きの練習はあまりしてないんだ」
「う、うん……」
それが、どうしたというんだろう?
「だからね、もし、失敗したらごめん」
彼女が伝えたいことが、すぐには分からなかった。
「でも、信じて」
優子の、自分の声が最後にポツリと残り、そして、僕たちはどちらからともなく足を踏み出していた。
瞬殺だった。
「大丈夫? 勇!」
「だ、大丈夫」
尻餅をついている僕に、いつもより身長の高い優子が慌てて駆け寄ってくる。
たぶん、勝負が始まってからまだ十秒も経ってないんじゃないだろうか。
開幕直後、鋭く、早く、正確に放たれた優子の突きに、僕はなすすべもなく、文字通り倒されてしまった。
「ご、ごめんね、まだいまいち体の使い方が分かってなくて、痛くない?」
まるで心配性の母親のように、男の自分が僕に語りかける。妙な感じだ。
「うん、痛くないよ。綺麗に決められたから」
衝撃はあったけど、痛みは全くなかった。
ただ、この優子の体を心配してしまうくらい、鋭い突きだった。
「やっぱり強いね、優子は」
「練習、してるから」
まだ僕を心配そうにのぞき込みながら、彼女は真顔で答える。
「ごめんなさい」
こうして近くで向かい合っていると、やはり、そう言わずにはいられなかった。
「もういいよ」
「でも、まさか傷が残ってるなんて」
「それもいいよ。普段は見えない傷だし、病院でも、嫌ってほど謝られたから」
「でも……」
「いいの。いいったらいい」
優子には珍しい、叱るような口調だった。
「ねぇ勇」
「うん」
尻餅をついた格好のまま、優子と向かい合う。
「どうしても辞めたいなら、仕方ない、と思う。剣道。私は、嫌だけど」
彼女らしい口下手さで、とつとつと話し始めた。
「ただの競技だし、無理してまで続ける意味はないと思うんだ。だけど、剣道でも、他の勝負事でも、ううん、勝負事じゃなくたって、間違って人を傷つけちゃうのは、きっとしょうがないことなんだよ」
口下手だったが、彼女の言いたいことは、ちゃんと伝わってきた。
今の勝負も、彼女なりの主張の一つだったと、今なら分かる。
「大会に出れば、相手を倒して勝ち上がっていかなきゃならない。人を好きになることだってそう。誰かを好きになって、もし、思いが通じてその人と結ばれても、その人を好きな別の誰かは、知らないうちに傷ついてる。でも、だからって遠慮するのはおかしいこと」
きっと、優子は入れ替わってからずっと、いや、入れ替わる前からずっと、こんなことばかり気にしていたに違いない。
「どこにいても、何をしてても、知らず知らずのうちに他人を傷つけることは、たぶんこれから何度もあると思う」
僕のことなんて、僕が人に打ちこめないことなんて、気にしなくていいのに。
「だから傷つけてもいい、なんて開き直るのは良くないけど、でもね。傷つけてしまった相手に、傷つけてしまうかも知れない相手に、過度に遠慮するのは、それこそ失礼なのかも、って、最近思うの。剣道の話だけど」
他に心配すべきことがたくさんあるはずなのに。昔からそうだ。自分のことは二の次で、他人の心配ばかりしている。
「それでもやっぱり、怖いって気持ちはどうしようもないのかも知れない。私も、さっきは怖かった。痛い思いをさせたらどうしようって、すごく」
こんな人だから、こんなに優しい彼女だから、僕は、好きになったんだ。
「でも、それでもやっぱり、大切なこととか、大切なものがあるなら、戦ったり、傷つけたりしなきゃいけない時がある。って、私は思う」
「優子」
慣れない長台詞まで言って、口下手なくせに。
「ありがとう。それと、今までごめん」
僕が微笑むと、きっと自分の言いたいことが伝わったと確信したんだろう。優子も微笑み返してくれる。
伝わったよ。特にさっきの突きは強烈に。
お互いに面を外し、もう一度微笑み合う。
「そうだ! あ、あの! それとね……!」
まだ何かあるらしい優子が、急に頬を赤らめてどもりだす。
「どうしたの?」
優子の急変にも驚いたが、自分の赤面した顔を見てしまったことに、どうにも複雑な気持ちになった。
「その、ま、まだ、言ってないことというか、伝えてないことがあってね……」
しどろもどろになって慌てる優子。女の子らしい仕草ではあったが、いかんせん見た目は僕自身だ。この時、一刻も早く元の体に戻ろうと、僕は決意を新たにした。
「伝えてないこと?」
「うん、神社での……」
「あ! ああ、あれか。えっと、あれに関しては……」
優子の言いたいことが分かってしまい、今度は二人してしどろもどろになってしまった。
「あ、あの時は、ごめんなさい。すぐに返事してあげられなくて、でも、でも今なら、ちゃんと言えると思うから」
何か相槌を打とうかと思って、止めた。僕は押し黙り、次の彼女の台詞を待った。
剣道場に来る前とは全く異なる意味で、緊張していた。
「わ、私も、あなたが好き……」
体の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
しかしそれと一緒に、かすかな不安も顔を出す。
「嬉しい、嬉しいよ。すごく。でも、僕は今まで何度も優子に迷惑をかけたし、傷までつけて、僕に、君の傍にいる資格があるのか」「好きなことに資格なんていらないよ。怪我のことだってもう気にしてない、こうして入れ替わったことも、迷惑だなんて思ってない。そんなのどうでもよく思えるくらい好き。こうして入れ替わってみて、自分の気持ちが、分かったの」
どこまでも真剣な優子の声に、自然と体が、頬が熱くなっていくのを感じる。もしかして、やっぱり女の子の体だからかな。真剣な眼差しで見つめられると、全身の温度が如実に上昇していくのが分かる。
「ありがとう。嬉しい」
それは心からの気持ちだった。口下手な僕には、これ以外の表現が思いつかないが。
「だから、ね……」
「うん」
「明後日、男女対抗の練習試合、私、勇に勝ってほしい。ヒサオくんには悪いけど、私は、勇が好きだから」
「でも、今の僕に勝てるかどうか……」
生活していて気付いたが、あの優子の体とは言え、やはり女の子は女の子だった。男だった時よりも竹刀は重いし、技が届く範囲も小さくなったように感じる。それに加えて精神的な枷もある。
「やっぱり今からでも、約束を断りに言った方が」
「もし負けたとしても大丈夫。付き合うことを検討して欲しいってだけだったから、たとえ周りが何か言っても、私は気にしない」
力強い優子の発言に、もしかしたら優子も、男の体になって少し性格に変化があったのかも知れないと思った。
「それよりも、私は勇がこれをきっかけにまた、剣道を好きになって欲しいって思ってるの。あなたがどれだけ剣道が好きか、私は分かってるから。入れ替わってみてもっと分かったよ。勇の部屋にあったたくさんの教本に、試合の録画映像を見て」
僕が優子の部屋を見てしまったように、優子にも自分の部屋を見られたと思うと、少し恥ずかしかった。
「勇なら大丈夫。きっと勝てる。だって勇は、本当は私なんかよりずっと強いんだから」
「僕が? 優子より? そんなわけ」「剣道の強さは心の強さだ」
そらんじるように優子が唱えたその台詞は、この道場の持ち主、僕と彼女の先生の言葉だった。
「優しすぎて気付きにくいけど、勇はちゃんと強いから。ちゃんと、大切なものを大切に出来る強さがあるから」
「そう、なのかな?」
「そうだよ」
自分では全く分からないけど、あの優子がそう言うなら、そんな気がしてくるから不思議だ。
「分かった。試合に出て、ヒサオと勝負するよ」
まともに打ちこめるかどうか、それはまだ分からないけど、やるだけやってみよう。
勝算は無くても、気持ちだけは前向きになれた。
言ってしまえば気持ちだけだが、それだけでも十分な進歩に思えた。
「勇、今日は私の我が儘に付き合ってくれてありがとう。それでね、実は、今日あなたをここに呼んだのにはもう一つ理由があってね」
本題だと言わんばかりに身を乗り出す優子。そこには、かつて、剣道場からの帰り道、一緒に歩いている時に、たまに見せる柔らかい笑顔があった。
「勇の恐怖症を治す方法、思いついたんだ」
「一本! そこまで!」
月曜日、女子剣道場に響き渡ったのは男子の先輩の声だった。
ヒサオの残心が解かれ、これで男女対抗戦は女子の四敗目が決まった。
「ごめん優子ちゃん。あとは頼んだ……!」
本気で申し訳なさそうに謝りながら、ヒトミさんがちょこちょこと女子部員が並ぶ列に戻ってきて、僕の隣に正座した。
放課後、午後四時。女子剣道場で行われている試合は、現在わずかに男子優勢だった。
この男女対抗試合は勝ちぬき戦で行われている。つまり、勝った方が試合場に残り、負けた方は新たな人員を出すという流れを続け、先に五名の人員、一年生が尽きた方の負けというルールだ。
現在男子側はこれで四人目、女子側は、たった今ヒトミさんが負けてしまったので次は僕、これで五人目、つまり、後がない状況だ。
数字の上では接戦だが、今の試合で既に、ヒサオは三回勝ち抜いていた。勢いは俄然向こうにある。
ちらりと先輩達が観戦しているスペースに目をやると、眼鏡をかけた男子の先輩、男子剣道部の主将が勝ち誇ったように女子剣道部の主将を眺めており、女子の主将はというと、今にも自分が代わりに試合に出ると言い出さんばかりに、歯がゆそうな表情でこちらを睨みつけていた。
負けられないな。色んな意味で。
「まかせて」
ヒトミさんに言葉を返して、面を抱え、竹刀を持ち、小さな動きですくと立ち上がる。
正面の壁沿いには、男子の一年生たちが並んでいる。その向かって右端に、男子一年生の五人目、僕の体に入った優子がいた。ヒサオを抑えて彼女が大将の位置にいるということは、怪しまれるとか気にせず、きっと練習でも本気を出したんだろう。だから選ばれた。優子はいつでも本気だ。
彼女はじっと僕を見つめて、何か熱いメッセージでも送ってくれているかのような顔つきになった。
見つめ返し、面の中で小さく頷く。
自分の顔と目配せするなんて奇妙な感覚だったけど、不思議と落ち着いた。
さっきから、実は竹刀を持つ手が震えてるんだ。
これで負ければ優子はヒサオと付き合う。というわけでもない。
そんな約束、正式なものではないし、試合が終わってからいくらでも反故にしていいと優子は言ってくれた。僕のことが好きだと言ってくれた。
それでも、いや、それだからこそ、僕はヒサオに負けたくなかった。
僕も優子が好きだから。約束とか、打ちこみ恐怖症克服のためとか、そんなのは関係なしに、ただ、好きな人の前で格好悪いところは見せられない。だから負けたくなかった。
なんて、少し男らしいことを考えたりして自分を鼓舞してみる。これはこれで本心だけど。
もう一度優子を見て、昨日の練習を思い出した。
優子と僕は、誰もいない剣道場で日曜日も練習していた。
一昨日からずっと同じ、人に打ちこむ練習だ。
「打ちこむのが怖いのは、つまり人に怪我させるのが怖いってことだよね?」
「うん。たぶんそう」
「じゃあ、私を相手に打ちこんでみて」
「優子に?」
「だって、今の私は君の姿をしてるでしょう? これなら、他人って感じは薄くなって、打ちこみやすいんじゃないかなって」
始める前は半信半疑だった。
自分の体が相手なら打ちこめる。理屈は分かるけれど、でも、中身は優子だ。
僕が一番傷つけたくない相手。たとえ傷がつくのが僕の体でも、痛いのは優子になる。もし、これでまた失敗でもしたら……。
「勇」
顔を上げると、優子が僕の顔で作る表情はひどく優しげだった。
「大丈夫。危なかったら私も避けるし。だからね、信じて」
分かったよ。優子。
面を付け、竹刀を握り、ヒサオと向かい合う。
昨日、日曜の夜遅く、一度だけ彼女を相手に面を打ちこむことが出来た。
優子の言った通り、見た目だけでも自分の姿だと随分気持ちが楽だった。それでも一度しか打ちこむことは出来なかったけど、自信にはつながった。気がする。
板張りの床にひかれた白線を超え、試合場に足を踏み入れる。
もう一度竹刀を強く握り直し、そして開始位置に立って、大きく深呼吸を「皆さん! 聞いてください!」
唐突に声を上げたのは、先に試合場の中にいたヒサオだった。
「実は僕、今日、ここでこちらの優子さんに勝つことが出来たなら、彼女と付き合えるかも知れないんです」
場内の剣道部員達は全員無反応のまま、静かなままだったが、気にせずヒサオは続けていく。
「ただ、たとえ勝ったとして、結局僕の思いが優子さんのハートを動かさなければ意味はありませんし、そこで強引に付き合うよう迫るつもりもありません、僕はそんな下品な男じゃない。しかし、今日、この、女子剣道場で、僕は全力を持って彼女にぶつかっていくことを、ここに宣言します!」
全員が頭の上に【?】マークを浮かべて茫然としていた。僕と優子を除いては。
理解できなくて固まっている場内と、ヒサオの突然の宣言に戦慄している僕と優子。非常に面倒くさいことになったんじゃないかと、直感が警鐘を鳴らしまくっている。
「すみません優子さん、時間をとってしまって。ただ、僕の覚悟を断固たるものにしておきたくて」
面の奥で、僕に微笑みかけるヒサオ。そうだ。彼はこういうやつだ。
顔もハンサムだと思うし、性格も悪くないけれど、何というか、天然たった。
それが今、僕と優子を苦しめる。
しばらくすると場内でかすかに笑い声が起こり始め、それをきっかけに会場全体の空気が柔らかくなっていく。どうやら皆ヒサオの言ったことを理解したらしい。女子と男子の主将二人は鼻を鳴らしただけだったが、特にヒサオのチームメイト達、優子を除いた三人は、彼の驚くべき発言を楽しんでいるようだった。そして、程度の違いこそあれど、面白がっているのは僕の後ろの女子部員達も同じようである。
周りに知られたからといって、それで絶対に付き合わなきゃいけないわけじゃない。しかし、場の空気は変わってしまっている。
「勝てるかどうかは分かりませんけど、全力でいきますよ」
そう言って、ヒサオは竹刀を構えた、僕もつられて中段の構えをとる。
「もういいか?」
焦れた審判役の男子が言い、ヒサオは満足げに頷いた。
「始め!」
えっ、もう始め?
そうしてなし崩し的に、僕の負けられない戦いが始まった。
直後、ヒサオが前進のバネを使って一歩で接近してくる。竹刀はいつの間にか上段に構えられ、開幕直後の面が飛んでくるのだと咄嗟に判断した。
「面ッッ!」ヒサオの掛け声とほぼ同時、僕は竹刀でいなしながら右に跳ぶ。
面打ちは僕の肩をかすり、ヒサオは体勢を立て直すと瞬時に向きを変えて今度はジリジリと、右に避けた僕に接近してくる。
まずい、まずい、まずい。始まる前に完全にヒサオのペースにのまれてしまった。すっかり集中が解けて、緊張と不安ばかりが先行している。
竹刀の先がバチバチと強く当たり、お互いの牽制が始まる。どうにか姿勢を崩して隙を生もうという緊迫した状況に入る。
しかし、僕の方はそもそも打ちこむ心の準備すら出来ていないのだ。牽制も何もあったもんじゃない。
「ドォ!」「くっ……」
竹刀の剣先の当たりが高い位置になり始めた瞬間を見計らって、胴が打ちこまれる。
咄嗟に後ろに跳んで避けたけど、白線はもう数センチ後ろだ。端に追いつめられた。
すかさずヒサオはまた距離を詰めようとする。竹刀が上段に構えられる。
面が来る 「突きィィィィ!」
フェイントだった。
正確に喉当てを突いたその突きは、そこまでスピードはなかった。優子の突きの方が何倍も速く、そして美しい。しかし、面打ちに対応しようと竹刀を構えていた僕は動きが間に合わなかった。
しまった!
そう思った時には、僕は白線を超え、尻餅をついていた。
見上げると、残心をとっているヒサオの姿があった。
「止め!」
僕は腰を抜かしたまま、茫然とするしかなかった。
危なかった……。
突きが飛んでくる瞬間、無理に回避しようとした僕はその場で転んでしまったのだ。
これが無かったら、今頃あっけなく負けていただろう。
転倒の衝撃から冷めないまま立ち上がり、無意識に喉元をさする。突きが当たった感触は無い。痛みもない。怪我は、ないようだ。
ギリギリ、本当にギリギリだった。
ヒサオは開始位置に戻り、静かに竹刀を構え直している。
迷いのない突きだった。決して上手とは言えないけれど、本気を証明するような、鋭い、真っ直ぐな突きだった。
好きな相手にもあんな突きが打てるんだ。それだけ本気。ってことなのか。
自分が好きな相手に、全力を出さずに戦うのは失礼だって、そういうことなのか。
「優子さん」
聞こえるか聞こえないか程度の呼びかけに、顔を上げた。
「優子さん、僕に遠慮はいりません。本気で来てください」
ヒサオが、面の奥から僕に語りかける。僕にしか聞こえないくらいの声で。
「いつも、どんな時でも、どんな練習でも、どんな授業でも、全力で取り組むあなたが好きでした。だから、どうか全力で僕を倒すつもりで来てください」
ヒサオ、お前は……。
「ただまぁ、手加減してまで僕と付き合いたいという気持ちも分かります。その時は、試合後に仰ってくれれば喜んで考えさせていただきますよ。たとえ僕が負けていても」
「…………」
口からフッと空気が抜ける。
呆れた。どれだけ自信過剰なんだ。でも、いいやつかもな。ヒサオは。
また優子の方を見そうになって、やめた。
開始位置までゆっくり歩いて行って、呼吸を整え、竹刀を握り直し、対戦相手と対面になって、もう一度中段に構えた。
いつの間にか手の震えは止まっていた。さっきの突きか、ヒサオの言葉か、どっちかが試合前に浮ついてしまった心を正してくれたんだろう。
頭の中に、昨日の優子の突きを思い描いた。
小さい頃に初めてテレビで観た、あの剣道の試合の突きも思い描く。
ついでに、中学までずっと突きの練習ばかりして、いつも、早く高校生になりたいって思っていたことも思い出す。
優子の「信じて」という言葉が、自分の声で頭の中に響く。
「始め!」
さっきと同じ、ヒサオが一気に距離を詰め、面を放とうとしてきた。
僕もそれに合わせて距離を詰め、無理やり鍔迫り合いに持ち込む。
いける。大丈夫だ。ヒサオも強いけど、実力的には勝てる範囲だって優子も言っていた。そうだ、きっと勝てる。思い出せ。僕だって、練習なら優子に負けないくらいしてきたんだ。
ヒサオはすぐさま引き面を打ってきたがタイミングは読めていた。ヒサオの竹刀をはじき、こちらも距離をとった。
信じろ。昨日の優子との練習を、彼女の言葉を。
「勇は強いから、大丈夫」
「先生の、心の強さ、ってやつ?」
「そう。勇は覚えてないだろうけど、私は、私だけはちゃんと知ってるから。勇がちゃんと戦えるってこと。戦って、傷つけたり傷つけられたりできるってこと」
正直、自信は無いよ、優子。
「面ッ!」左にかわし、隅に追いつめられないよう中央に寄る。
優子は僕のこと強いって言ってくれたけど、やっぱりまだ、怖いんだ。ここまできても。
「篭手!」間合いを詰めながらの篭手、しかしそれを丁寧に竹刀でいなした。
強くなんかない。臆病者で、優子に助けられてばかりで、実はまた、手が震えだしてる。気がしてる。
「胴ッ!」ヒサオが胴の構えに入った瞬間思いきり距離を詰めて勢いを殺す。
もし元の体に戻れたとして、やっぱりまた打ちこむことが出来ないようなら、今度こそ剣道を辞めたって構わない。
仕方ないって、優子も言ってくれた。
でも今は、
「ツキィィ!」タイミングを合わせて後ろに跳び、十分な間合いを取って切っ先をはじく。
今は、今だけは、僕は負けたくない。
僕は優子が好きだ。何度聞かれても、そう答えられる。
僕が優子として戦うことが、ヒサオの気持ちに対して不誠実なことだとしても、もし、この試合でヒサオに怪我をさせたとしても、僕は優子を渡したくない。誰にも。
僕が竹刀を上段に構えると、ヒサオは胴の構えを取った。
だから、ヒサオ。もし失敗したら、その時はごめん。
僕の誘いに乗り、ヒサオは抜き胴の構えをとった。胴が放たれるタイミングに合わせて、上段の構えを解きながら再度後ろに跳ぶ。
「信じて」
またも優子の声が聞こえた気がした。自分の声が。
もしかしたら、僕自身のままだったら、信じ切れなかったかもしれない。
彼女の体だから。あの、僕の憧れの優子の姿だから。自分の知識と、思いをのせて打ちこんでいける。
ヒサオは抜き銅を外し隙が出来ている。
中段に構え、大きく一歩前に出ながら、腕を突きの高さに上げる。腕の力では打たないこと。残心をとること。
何度も練習して、勉強した、突きの放ち方だ。
きっと上手くいく。優は体が柔らかいから、突きには向いてる体なんだ。
気持ちは真っ直ぐに。あとでいくらでも怖がっていいから、今は、余計な一切を忘れるんだ。
どれだけ考えても、練習しても、最後には、こう思うしかない。
自分を信じろ。僕。
「突きッ!」
。
「…………」
全ての音が遠ざかり、審判役の男子生徒の声は僕の耳には届かなかった。
残心を解き、姿勢を正し、真っ先に窺ったのは優子の顔だった。
その表情から、僕は悟った。
審判は、女子剣道部側の旗を挙げていた。
「一本! そこまで!」
先輩は、きっとそう言ったんだろう。
「よっしゃ!」
後ろから小さく、ヒトミさんがガッツポーズする声が聞こえてくる。
試合前にヒサオが行ったあの宣言の効果か、試合が終わると剣道場内にざわめきが続いた。温かく見守る人、笑っている人、中には僕の今の突きが上手だったと褒めてくれる人までいて、少し気恥ずかしかった。
「やっぱり強いんだな。君は」
視線を正面に戻すと、悲しげに微笑むヒサオがいた。他に、まだ何か言うことがありそうだと続きを待ったが、彼はそれだけ言って、踵を返し、開始位置に戻っていった。僕も慌ててヒサオにならい、開始位置に戻って、礼、そしてそんきょすると、女子剣道部が一勝を返したことが、主審の先輩の口から正式に告げられた。
勝ったんだな……。
数か月ぶりの勝利に、自然と胸の内から熱いものがこみ上げてくる。
「優子ちゃん、あと一人だよ!」
ヒトミさんの声がする。感傷に浸る間もなく、男子剣道部側では最後の一人が試合の準備を始めていた。
彼が、いや彼女が試合場の前に立つ。
そこにはもちろん、僕の姿の南優子。
面を付け、竹刀を構えた彼女が白線を超える。
本当に夢のようだった。
また、こうして優子と試合が出来るなんて。
それもこんなに晴れやかな気分で、
間を開けず僕もまた竹刀を構え直し、優子と相対する。
「今度は負けないよ、優子」自分の体が相手なら、最初から全力で打ちこんでいける。
「私も、全力で行くから」僕の顔だけど、強気な瞳は試合の時の優子そのものだった。
剣道を始めたばかりの、昔の僕たちに戻れた気がした。
「始め!」
優子と二人きりで立つ九メートル×九メートルのこの空間が、今はたまらなく愛おしかった。
ようやく、ちゃんと自分自身に向かい合えたと思った。
「ま、順当な結果だな。予想通りだ」
ヒトミさんと二人、剣道場から校門までの道のりを歩いていると、主将さんの声が背に投げかけられた。
「しかし予想通りとはいえ、一応、よくやったな。南」
「あ、ありがとうございます……」
「うむ。それとこれは独り言だが、今度の団体戦のメンバー、もう一度考え直そうと思う。それでは明日からも練習に励むように。じゃあな」
それだけ言って、先輩は足早に去っていった。
男女対抗の練習試合も、その後の反省会も終わり、夕暮れ時。すっかり日が沈むのも晩くなり、空は本格的な夏の訪れを予感させてくれた。
「いやー、さすが優子ちゃん。勇くんも強かったけど、やっぱり一枚上手だったね」
「う、うん……」
僕の立場としては何とも返答に困るけれど、一応心の中ではお礼を言っておこう。
男女対抗新人戦は、周囲にとっては予想通り、僕にとっては驚愕の、女子剣道部の勝利で幕を閉じた。
試合の後、あらためてヒサオが僕のところへやってきて「君のことは諦めるよ。どうやら君は、僕なんかでは満足できないみたいだしね」そう含みのある言い方をしながら、意味ありげに優子の方、つまり僕の姿の優子に目配せをして、いつものように自分の言いたいことだけ言って去って行った。
優子とは、試合を終えたっきりまだ何も話していない。話しかけにくいわけではないけど、一番最初に何を言うべきか決めあぐねていた。
「そういえばさ優子ちゃん」
並んで歩くヒトミさんが聞く。
「試合が始まる前、何か勇くんと話してなかった?」
「そう、だっけ?」
そういえば、周りに人がいるにも関わらず、試合前彼女のことを“優子”と呼んでしまったような気がする。
僕が若干引きつりながら答えると、ヒトミさんはイタズラ好きの子供のような表情になって
「あ、勇くんだ」と、正面を指さした。
その手には乗るかと僕はヒトミさんの横顔を見たまま視線を動かさなかったのだが、しかし次の瞬間、
「あ、あの、優子、さん」
振り返ると、本物の優子が僕とヒトミさんの後ろに立っていた。決まりの悪そうな顔をしながら。
「おー、こっちにいたのか。ビックリするじゃん勇くん」
そう理不尽に抗議するヒトミさんに鬱陶しそうなな表情で返す優子。
「でもちょうどいいや、勇くん。実は今ね、勇くんと優子ちゃんがね、試合の前に、何か話してたんじゃないかなって気になって、ちょーっと、優子ちゃんに聞いてみたんだけど、これが恥ずかしがっちゃってさぁ」「ちょっとヒトミちゃん」
「何の話してたの? ねぇねぇ」
ヒトミさんのいつもの軽口に、僕の姿の優子が見る見るうちに赤くなっていく。
「もしかしてさ、ヒサオくんのあれと関係あったりする? 実は、勇くんと優子ちゃんはもう相思相愛状態とか?」
優子の顔の赤らみが耳まで広がったところで、僕はようやく助け舟を出すことにした。
「ヒトミちゃん、どうしてそう思ったの?」
「だって今日の最終戦、二人ともすごい楽しそうだったじゃん。たぶん、剣道場にいた皆が同じこと思ったんじゃないかなぁ。二人は、何かただ事ではない関係のようだって」
「そ、そう、なんだ……」
全く気付かなかった。しかし、言われてみればかなり浮かれた状態で試合をしていたことは間違いない。ヒサオにもそんなようなことを言われたし。
「おっ、優子ちゃんも赤くなってる。ねぇねぇ、いいじゃん二人とも。教えてよ。二人ってさ、幼馴染なんでしょ? クラスでも二人が付き合ってるって噂聞いたことあるし、ねぇねえ」
ほとんど駄々をこねる子供のように悪絡みしてくるヒトミさん、僕は意を決して隣を離れ、優子の方へと歩み寄っていった、そして、
「い、いさむ?」
そっと手をとると、優子は小さく驚き、その仕草は本当に女の子ようで、残念ながら可愛いいと思ってしまった。いや、優子が可愛いのは残念ではないのだけれど、今は僕の体に入っているから、なんというか……。
「行こう。優子」
まぁいいや。
面倒な思考を放棄して、僕は声高に宣言した、困惑する優子の手を半ば強引に引き、ヒトミさんの隣を抜ける。
「ごめんヒトミちゃん。私、先に帰るね」
「え、ごめん怒った?」
「違うよ。そういうんじゃないから。でも、また明日ね」
そう、別に怒ったわけじゃない。ただ、優子とまた行きたいと思っていた場所を思い出したのだ。
面食らった様子のヒトミさんを置いて、僕は優子とずんずん進んでいく。
「い、いさむ、どこ行くの?」
されるがままに手をひかれ、優子はみるみる顔を赤く染め上げている。
「神社かな」
「神社って剣道場の? どうして?」
明確な理由なんてなかった。ただふと、あの神社に行くべきだと思ったのだ。ずっと前から、もう一度優子と二人で行きたいと思っていた。それに……。
「言っておきたいんだ。もう一度。僕の方から」
振り返ると、頬を夕焼け色に染めた彼女が、恥ずかしそうにこちらを見つめていた。そしてふと、微笑みかけてくれた。
それが嬉しくてたまらなくて、さらに手を強く握りしめて、僕は駈け出した。
エピローグ
優子の姿で、優子のベッドで僕が眠りについたのは、その日が最後だった。
神社でしたあることが原因なのかも知れないけれど、本当のところは分からない。
僕が僕に戻る前の最後の夜、ある夢を見た。
それは小学生の頃、僕と優子が初めて出会った日の夢だった。この夢には、奇妙なところが二つあった。
一つ目、僕は優子との出会いをずっと昔に忘れていたはずだということ。
だからこの夢が本当にあったことなのか、それとも夢の中だけの空想なのか、僕には分からない。今度優子に確かめてみよう。
二つ目、夢の中でも、僕は僕の体ではなく、優子の体に入っていたこと。
夢の中にまで現実の状態が反映されたのか、あるいは、この夢は僕の夢ではなかったのかも知れない。
もしかすると、最後の夜に優子の体が見せてくれた夢なのかもと、元に戻り、正式に彼女と付き合うことになった今では思う。
「やめろー!」
勇ましい男の子の声でその夢は始まった。
「あ? 何だお前」
「君たち、男のくせに女の子を三人がかりでいじめるなんて恥ずかしくないのか?」
「うるせーな。こいつが俺たちに突っかかってきたんだよ」
夢の中で僕は、小さな犬を庇って、少年たちに暴力を振るわれていた。
「どんな理由があろうと女の子に暴力をふるうなんていけないことだ。僕は先生からそう教わってる」
僕の姿は小学校二年生くらいの小さな女の子で、自分のペットの犬を抱いてうずくまっていた。そして、突然自分を助けるために現れた男の子に対し、はじめこう思ったのだ。
変な子。どうしてわざわざ殴られるようなことするんだろう。
「お前、俺たちにケンカ売ってんのか?」
どうして、見ず知らずの私なんか助けてくれるんだろう。と。
「売ってはいない。だけど、君たちがその子をイジメ続けるのなら僕にも考えが」「格好つけてんじゃねぇ!」
それから先は予想通り、いや予想以上にあっけなく、男の子はボロボロにやられてしまった。
「うぅ……、くっそー」
怪我したところをさすりながら、男の子が恨めしげに天を仰いでいる。
男の子は負けたが、私と私の犬はそれ以上殴られることはなかった。イジメっ子の男子達はもういない。
「弱いんだ。人助けなんかするくせに」
私のことなんか放っておけば殴られることもなかったのに。
「弱くても強くても関係ない。そりゃ、強い方がいいけどさ。でも、心の強さに、肉体の強さは関係ないんだ!」
「不必要な争いはなるべく避けた方がいいって、私のパパが言ってたわ。君、馬鹿なの?」
「馬鹿かも知れない。でも、間違ったことをしたとは思ってない。だって僕は大切なものを大切にするために戦ったんです。それは不必要な争いじゃない」
「殴られただけじゃない」
「そ、それは、そうだけど……」
決まり悪そうに力なく立ち上がると、少年はポッケから1枚の紙切れを取り出した。
紙はぐしゃぐしゃに折れ曲がっていて、はっきり言って汚かった。
「今の喧嘩でちょっと汚れちゃったけど、これどうぞ」
ごみクズでも押し付けられるのかと思ったが、受け取ってじっくり読んでみると、それは剣道教室勧誘のチラシだった。
「実はうちの剣道場、人がいなくてさ、チラシ配るように師匠から言われてるんだよね」
「剣道やってるのに、弱いの?」
「うっ! で、でも、まだ練習中だし、強くなるのはこれからだし……」
男の子は急にもじもじと気まずそうにしだしたけど、でも、さっき私を助けてくれた時、無謀にも三人相手に挑んだあの時だけは、少しだけ格好良かったことを思い出した。当然、ぼろ雑巾のように負けたところは格好悪いことこの上なかった。
「うん。入る」
「えっ、本当? 本当に入ってくれるの?」
「うん、強くなりたいし」
強くなりたいと思ったのは本当だった。この子みたいに、誰かを助けるために、誰かに立ち向かっていけるようになりたいとも思った。大切なものを守れるようになりたいと思った。しかし、この子みたいに果敢に立ち向かうだけじゃダメだ。ちゃんと強くならないと。
「そっか。じゃあさ、一緒に強くなろうよ」
男の子が、晴れやかな顔で私に微笑みかける。
「うん。なる」
こうして私は勇と出会い、そして勇と一緒に強くなっていこうと、心に決めたのだった。
おわり