ネット上のライバル
うちのチームは父親が監督をする決まりで、長男が3年生でお世話になってから毎年監督が替わってきた。だから、彼が2年務めたのはチームと しては例外的だった。「少年野球とはこういうものか」と分かり始めたころには1年という時間は過ぎてしまう、という話を上級生の父兄から聞くのは1回や2回ではなかった。チームにはその貴重な経験を継承していくという仕組み、いや「空気」がなかった。
彼のもとで2年間コーチをすることができるため、「少年野球とはこういうものか」を始めから探さなくても済むはずだった。でも、実際は彼の足を引っ張らないように、自分の野球観、すなわち30年前に中学で経験してきたものとのギャップを理解することにかなりのエネルギーをかけなければならなかった。ある騒動の後で去っていく父兄に、今後のチームのリスクは自分だと告げられたときには全く聞く耳を持たなかったが、まさにその通りになってしまうのである。
そのギャップを埋めるべく、私はネット上で「ノウハウ」を探した。ネット上には同じ「現場」での体験で得たノウハウを共有することをコンセプトにした良質なサイトが複数あった。自分の息子が入っているチームの指導者を経験した人たちのブログには、私がこのチームと係っていくうちに「これからこんな事が起きていくのでは」とイメージされるシナリオがこれでもかと盛り込まれていた。選手たちの技術的な面ばかりでなく、「今の子供たちは・・・」で検索すれば真摯に検討された内容とそれに対する方策が数多くヒットした。中には私も辿り着いた人文学的なアプローチからコメントされているものもあった。それらのノウハウを知ることによって、私はなんとかチームを壊さずに済んだのかもしれない
その中で私たち親子はライバル、いや目標となる選手と出会った。彼は海の向こうで、正直野球と いう言葉からは発想されない国でプロの野球選手を目指していた。長男より2学年上のその子のスイングやピッチングフォームを私たち親子ははじめ憧れた。私たち親子にはおかげで「井の中の蛙」という概念は存在しないのかもしれない。彼らのキャリアのごく初期に、いきなり同世代の子の眩しいほどのプレーを動画で見てしまったからだ。
多くのトレーニングメソッドの映像を今はネットで見る事ができるが、うちの親子の場合そこでプレーしているのはその子だった。サンプルが大人だと課題が上手くできなかったときに逃げ道が見えてしまうかもしれない。彼はそれらのトレーニングに於いて、うちの子たちの先輩になってくれた。彼がいつか楓のマークのユニフォームを着てワールドベースボールクラッシックに出てくるのを私は密かに待っている。
そのギャップを埋める「救い」の中にはブロガーではなくコメンテーターも含まれた。長男ははじめナイター中継に向かって応援やヤジを言う私と距離をとっていたが、ある選手を好きになることで、「こっち側」に来た。もしもクラスでそのチームのファンの人がいるか挙手を促されても、この町では誰も手を上げないにちがいない。決めるのに時間がかかるが、一度決めたら他に流されないのは妻の方のDNAだろう。
その年の夏休みは開催地というよりもそのチームが対戦相手になるカードを手配した。通常と異なる側にフランチャイズのファンが座る、なだらかな丘に穴を掘ったような球場の一塁側の席に着くとお目当ての川崎選手がティーバッティングをしていた。わざと詰まったようにフライを打つような、子供の目にはスッキリしない練習をしていた。試合中に彼がサード後方の安打を打ったとき、それが狙って行われていることが分かり、思わず子供たちと目を見合わせた。
そのコメンテーターはそこが勤め先だった。お土産で買ったタオルと同じデザインの旗とCMでシリーズ化しているしゃべる白いイヌを贈ってくれた。誰か知らないけど応援してくれる人…当時のうちの子供たちにとっては望外な励みとなり、それらは今でも部屋に飾られている。