スポーツ少年団に移る
我が家で最も多くスポーツ少年団の野球を見てきたのは、間違いなく妻の方だ。甥っ子がうちのチームにいた時からだから、悠に10年以上…私より、この地域でのスポ少の野球がどういうものかという「範囲」を知っていた。私は、自分が経験した中学野球しか知らなかった。その長年の観察から、クラブからスポ少に移るべきだと判断したのも妻だった。小学校3年で長男はスポ少にお世話になることになった。
しかし、その「範囲」は私のものと一致する事はほとんどなかった。チームにいたひとりだけ厳しい、といっても自分としては当然の指導をする、80年代の言語を話す父兄がチームで唯一理解できる存在だった。でも、その存在は自分の「気づき」をむしろ先に送ったのかもしれない。
代が変わった。6年生だけでも一人余るということがスポ少に於いてとてつもない価値を持つことをその時はまだ分かっていなかった。その事より、自分の「範囲」との一致点の少なさが気になってばかりいた。
自分の「範囲」とは、30年前の首都圏の公立中学の野球部の姿に過ぎない。顧問が変わり、1年生のキャッチャーとサードとピッチャーをレギュラーにしたことは、 先輩のしごきとなって返ってきた。でも、暗くした部室で殴られることに自分達は想像以上に早く適応し、逆に1年の3人で向こうの1名にその闇の中で仕返しすることまで発想させた。
自分たちは同じ立場になったときそれらをしなかった。
「俺たちはやめよう」といってもドラマのようにカッコいい感じではなく、新人戦で市のチャンピオンとなり、違う事の方が面白くなっていたという方が近かったのかもしれない。サードが主将となりその一声でそれらはなくなった。
野球部を3年まで続けたという事が一定の評価を得られる時代にそれをしてきた身からは到底受け入れられない「フワフワ」したものにチームは占められていた。失敗するからではない。取り組む姿勢に我慢ならず、シートノックでキャッチャーを手伝っていたのだが、レフトにボールを投げつけた。
「捕ってこい!」
私の声の大きさは中学時代に鍛えられてしまった。声が小さければ尻バットだからそれは自動的に習得された。一度東京ドームで、
「勝負しろー!ノウミーーー」と響かせたことがある。いや、中学の頃ベンチから野次ったのと同じつもりだったのに相当の人々の視線を浴びてしまい、人生で一番大きな声を出したのは、それが最後になるだろう。
妻が差し違えるような勢いで、それをやめなければ長男を退部させると談判してきた。内容というより声の大きさが尋常ではないと言うのである。
(チームに気合を入れて何が悪いのか・・・)
もしその反応が妻だけだったら、それを変えようとせず我が家のスポ少活動は破滅的な結果となっていたかもしれない。長男が止めてほしいと言っている…それを知ってやっと自分のしていることをもう一人の自分が審判し始めた。
(お前は小学校の時の野球のことをほとんど覚えていないだろうに)
その後、チームといや21世紀の少年野球というものと折り合いをつけることを度々突きつけられることになるのだが、長男が進んだ同じ敷地内の中学に外部か ら入ってきた新しいチームメイト達は、私がスポ少の指導で使ったよりもよほどきつい言い回しで、誰に言われたからでもなく、
「おまえら、声出せー!」と盛り上がりだした。自分たちがプレーしていたチームとのあまりの差に、いてもたってもいられなくなったのだろう。長男も追随して自分から声を出してプレーする野球の面白さを満喫しだした。その日、校舎を隔てたこちら(スポ少)の広場にもここ数年聞いたことのない轟が聞こえてきた。
(うちの中学の野球部が変わる…)
ただ、「野球の神様はいる」と実感させられた長男と彼らとの出会いは、ずっと後の事である。