野球の始まり
妻は実際に目にしないと決して物を買わない(ネット通販なんてとんでもない)20世紀に棲む人で、それを必ずしも重視しない私の歯止めになっている。ユメノ・ベースボールクラブも当然体験してからの決定だった。「体験」とは子供だけではなく親が試合の相手になるところも含まれていた。
「お父さんもよろしければお願いします。」クラブは親子試合に送り迎えの父兄を誘う事が多かった。
(パパって野球できるんだ…)
公園で同じことをするよりグランドではその価値が高まる事を教わった。私たち親子にとってグランドで過ごす時間が大きな存在になっていった。そしてクラブの活動は私の中のある感情の認知につながった。
(自分も野球が好きなんだ。それもプレーするのが…)
家の土間のある部屋は格好の練習場となった。クラブが呼んでくれた元プロ野球選手との交流はこちらの方がうらやましいほどだったが、基本を大事にする姿勢を子供たちのキャリアの始めに体験できたのは幸運だった。その中で紹介されたゴロ捕りの格好でショートバウンドで捕るハンドリング練習を、私たちは「練習場」で飽きずにつづけた。いやその「遊び」を子供たちにリクエストされたという方が正確かもしれない。長男は小学校と同敷地内の中学に進み、外部から入学してきた、実績のあるチームで主力を張っていた選手たちと切磋琢磨することになるのだが、ハンドリング数だけは負けないはずだ…
クラブに入って子供たちと野球の話をすることが増えた。世の中の野球だけでなく自分がしていた中学の野球の話もそれらのなかに含まれた。中1で新しく来た顧問の意向でレギュラーキャッ チャーとなり、居残りで毎日セカンドベースからバックネットに向かって投げていたこと、バッターボックスではいつもピッチャーの顔に向かってライナーを打とうとしていたこと…お互いのなかに、その話であれば優先的に入ってくる場所があるという事は親子とはいえ当然ではないかもしれない。それをはっきり認識したのは長男の卒業文集に父親のコメントを考えることになった時だった。時数を削るのに手間を要していると他のお父さん方とは逆の作業をしていると妻に言われた。
そうなると子供たちがその質問をするのは自然な発想であろう。
「なんで高校では野球をしなかったの?」
自分に対しては通学に片道1時間半もかかったから、と答えていたが、同じ中学から同じ高校に進んで野球をしていたのがいるので、それが答えではないと知っていた。いや、その質問に向き合わなくても先に進めたから答えずにそのままにしていた。子供たちにもはじめ同じように答えたが、言い直した。
「高校受験に失敗し、親に申し訳ないと思ったから…野球なんかやってはいけないと思ったから…」
今となっては自分の両親がそう思うはずはないと分かった。この台詞を口にすることができたのも野球と再会したおかげだった。