監督さんとの出会い
監督さんとの出会いは長男が幼稚園に通っていたころに遡る。友達のお父さんにそういう人がいる、と話では聞いていた。何かの発表会のとき、その場にあまり似つかわしくない目の鋭い人が他の父兄の目線とは明らかに違う方向にあるグランドを見つめていた。いかにも二遊間を守りそうな、背は高くなく反復横跳びが得意そうな体格だった。気が付くと私は自分が中日ファンであることを彼に話し始めていた。巨人ファンが多いこの地で彼も巨人ファンではなかった(そう言えば少し鳥谷選手に似ていた)。幼稚園の送り迎えで野球の話を父兄とするのはそれが初めてだった。
当時の私はそれまでの仕事の内容とは違った、「研究」というものをしていた。それを一生続けるわけではなく、本来ならおかしな位置づけだが時限的な仕事と理解していた。そのおかげで火曜日は幼稚園への送り迎えをすることができたのだ。自分が通った以外は来たことがない幼稚園の園庭というものは、自分の位置取りやだれと何を話すべきかについてかなりの分析を要し、決して安らぐ場ではなかった。そういうなかで彼と出会えたことは私にとって幸運だった。
でも、その時の彼との関係性はまだ幼稚園で野球の話をする人ができたというだけのもので、まさか甲子園で強豪校の2塁ランナーを牽制死した時にランナーにタッチしたというキャリアを持つ彼と同じユニフォームを着てベンチに入り、子供たちを指導することになろうとは思いもよらなかった。