変わる鞄
会社帰り、わたしは電車の中で本を読んでいた。
「いいですか?」
一人の男がわたしの隣の席を指して訊ねてきた。
「どうぞ」
わたしは壁際に体を寄せて、また読書を再開した。
それからニ駅ほど過ぎただろうか。わたしは本を読み終え、ふと隣を見た。
男は鞄から何か取り出そうとしているようだ。わたしは気にせず、居眠りでもしようかと考えた。
だが、男がチャックを開けたとき、私は思わず息を飲んでしまった。チャックの隙間から、青々とした草原の風景が覗いたのだ。
疲れているのだ、目の錯覚だろう―――そう思ってわたしは瞬きをしたが、やはり草原は見える。風に揺れる葉と葉のこすれる音が、今にも聞こえてきそうだ。
その鞄は、何の変哲もないものだった。薄汚れて少し擦り切れた、黒い革のどこにでもありそうな鞄だ。
ふと、男がわたしの方を見た。わたしは慌てて目をそらし、何も関心のない振りをした。
「素晴らしいでしょう、この鞄」
突然男がわたしに語りかけてきた。わたしは観念して、そうですねと答えた。
「ちょっと見てて下さいね」
男はそう言って、鞄のチャックを閉めた。男がもう一度開けると、そこにはどこかの外国の港町が広がっていた。白い壁に、青い海がよく映えている。
わたしは思わず、男から鞄をひったくっていた。チャックを何度も開けたり閉めたりする。その度に、ある時は賑やかな街、ある時はのどかな田園風景と見える景色が切り替わっていく。
「買います」
私は言った。
「いくらで売ってくれますか?わたしはこの鞄がとても気に入りました。こんな鞄は見たことがない」
「お金は要りません。ただでお譲りしましょう」
「ただで?それはとてももったいない!貴方がどうやってこの鞄を手に入れたのか、わたしに知る由はありませんが、しかしそれはとても大変だったでしょう。こんな素晴らしい鞄をただでいただくわけにはいきません」
「いえいえ、構わないのですよ」
男はほっとした様子で言った。
「わたしはこの鞄を長い間使ってきました。もうそろそろ、この景色にも飽きてきたところです。それに、妻が金銭にうるさいので、出所が不明なお金があれば博打でもやったのではないのかと問い詰められるのですよ。それはもう大変で…。ですから、どうぞ受け取って下さい」
男が鞄を差し出してきた。わたしはそれを受け取ると、礼を言った。男はもうすぐ降りるからと、席を立った。
男と別れた後、わたしは上機嫌で帰宅した。すぐに例の鞄を開けてみる。すると、荒涼とした砂漠の風景が広がっていた。
この鞄は、売ればどれくらいするだろう?いいや、売るだなんてとんでもない!たとえいくら大金を積まれようとも、わたしは絶対にこれを売ることがないだろう。
わたしはすっかりこの鞄の虜になっていた。
わたしはそれを、自室の鍵のかかった金庫に入れた。鍵の在処は、自分だけが知っている。こうしていれば、誰にも見つかることはないだろう。
そのうち、毎晩寝る前に鞄を開けて様々な風景を楽しむことが、わたしの日課となった。
わたしが鞄を譲り受けてから数日後のことだった。
近所の家に、泥棒が入ったという。幸いにも泥棒はすぐ捕まり、死傷者は出なかったというので一安心したが、わたしの中には別の不安が頭をもたげていた。
わたしの家に泥棒が入ってきて、あの鞄を盗んで行ったら?
その日から、わたしは夜に眠れなくなった。少しの物音でも飛び起き、うたた寝が続くようになった。
金庫の錠はより強固なものに変え、鍵は毎日身につけて出勤する。帰宅すると一番に鞄の有無を確かめる。気付けば、鞄の見せる景色を楽しむ余裕もなくなっていた。
わたしは、男がなぜこの鞄を手放そうとしたのかをやっと理解した。
この鞄は魔性のものだ。このまま持っていればいつかわたしは全てを失うことになるだろう。
誰かに譲らなければ。
翌日、わたしはその鞄を持って家を出た。電車に乗り、空いている席を探す。ちょうど、二人席のうちの片方が空いているのを見つけた。
「いいですか?」
わたしは青年に訊ねた。
「どうぞ」
青年は新聞を畳みながら言った。
わたしは早速、物を取り出すふりをして鞄を開けた。隣で、青年が息を飲む音が聞こえた。
「素晴らしいでしょう、この鞄」
わたしは言った。
「ちょっと見てて下さいね―――すごいでしょう、ほら。この鞄はね…」
お久し振りです、播磨光海です。
なんとなく書きたくなって、書いてみました。
こんな鞄、個人的にはあまり欲しいと思わないかなあと。。。