留守番の名前
船を降りたときには、もう雨が降っていた。
ヴェルナの港には、私のほかに観光客らしい人影はなかった。迎えを待っていた乗客たちが一人、二人と車に乗りこみ、やがて桟橋には私だけが残った。携帯に保存しておいた宿までの道順を、濡れた指で開いた。
坂の途中で一度道を間違え、宿に着くころには靴の中まで冷たくなっていた。
受付の女性は私の旅券のコピーを取ると、分厚い宿帳をカウンターに置いた。項目には英語も添えてあったので、名前や住所を書くのに困ることはなかった。
ただ、最後の欄だけは何を書けばよいのかわからなかった。
〈帰宅したとき、あなたを待っている人の名前〉
緊急連絡先は、その上ですでに書いている。
顔を上げると、女性は洗濯籠からタオルを取り出して畳んでいた。待っている人はいない。その一言を書けば済むのに、赤の他人に一人暮らしの事情を打ち明けるようで気が進まなかった。
私は氏名欄に書いたばかりの「小野美緒」を、そこにも書き入れた。
自分の帰りを自分で待つ。そう考えると、少しだけ笑えた。
女性は記入欄を確かめ、下に重ねてあった複写用紙を一枚はがした。控えにも私の名前が二つ並んでいた。
夕食は宿の近くの店で食べた。読める単語を頼りに注文したスープには、見たことのない葉が浮いていた。隣の席の客がパンを浸しているのを見て、私も同じようにした。
帰り道、坂の下に港の明かりが見えた。写真を撮り、いつもの癖でメッセージの画面を開いてから、送る相手がいないことを思い出した。
恋人と別れたのは二か月前だった。この旅を予約したのは、その翌週だ。ヴェルナには以前から来たかった。二人で行くつもりで調べた宿もあったが、予約のときには候補から外した。
宿の部屋に戻ると、「ただいま」と言いかけた。
一人で暮らすようになってからも、しばらくは玄関で同じことをしていた。口を開き、返事をする人がいないのを思い出して、声を出す前に閉じる。最近ようやく、そんなことをしなくなったのに。
濡れた靴を脱いでから、携帯で自宅の見守りカメラにつないだ。旅行に備えて買い、出発の前日に棚へ置いたものだった。窓際の鉢植えと壁際の食卓、その奥の廊下の入口が映る。玄関そのものは壁に隠れて見えない。
画面の隅に表示された日本の時刻は、翌朝の七時を過ぎていた。
カーテンが開いていた。
出発前には、鉢植えに日が当たりすぎないようレースのカーテンを閉めた。すぐそばの物干しにブラウスを掛けたとき、袖がカーテンに引っかかり、掛け直したので覚えている。
白い袖は、今も画面の端に垂れていた。動いたのはカーテンだけらしい。
元恋人とのやり取りを開いた。最後に私が送ったのは、郵便物が届いたら知らせる、という事務的な返事だった。
〈部屋に来た?〉
そこまで打って消した。合鍵は返してもらっている。確かめたところで、まだ疑っているのかと言われるかもしれない。
自分の閉め忘れだろうと思うことにして、携帯を充電器につないだ。
翌朝、市場へ出かける支度をしながら、もう一度カメラの映像を見た。
食卓にコップが二つ置かれていた。
片方は私が使っている青いコップ。もう片方は、別れた相手が置いていった透明なコップだった。
画像を拡大すると、透明な方の縁にある小さな欠けまで見えた。欠けた部分は壁側に向けてある。
捨てようとしたら、まだ使えると言われたことがあった。それ以来、あの人にコップを出すときは、欠けた部分に口が当たらないよう、壁側へ向けて置いていた。
携帯から、何かを引きずる音がした。画面には誰もいない。
続いて廊下の奥で、鍵の束を振ったような音がした。
私は鞄を引き寄せ、内ポケットから自宅の鍵を出した。持ち上げた拍子に二本の鍵が触れ、そのすぐあとで、携帯からも同じ音が聞こえた。
もう一度揺らすと、また聞こえた。
こちらの音が向こうへ伝わっているのだと思った。けれど、このカメラで声を送れるのは、画面のマイクボタンを押している間だけだ。私は一度も押していない。
鍵を毛布の上に置いた。向こうの音も止まった。
しばらくしてから、おそるおそるマイクボタンを押した。
「誰か、いるんですか」
指を離すと、廊下の入口から椅子が滑るように出てきた。食卓のそばまで動き、そこで止まった。椅子を押しているはずの手も、足も見えなかった。
それは私がいつも座っていた椅子だった。
画面を閉じてからも、しばらく携帯を手放せなかった。ようやく立とうとすると、結びかけの靴紐を踏んだ。
受付へ下り、昨日の宿帳を見せてほしいと頼んだ。女性は私の英語を聞き返したあと、カウンターの下から帳面を出してくれた。
氏名欄の「小野美緒」は、昨日と変わらなかった。
下の欄に書いた同じ名前だけが、黒くにじんでいた。今しがた誰かが重ね書きしたように、インクが光っている。
「緒」の右側を狭く書く癖も、名前全体が少し右に傾くところも、間違いなく私の字だった。
鞄から控えを取り出した。薄く写っていたはずの名前が、こちらでも黒くなっていた。紙の裏まで湿っている。
女性が小さな吸い取り紙を差し出した。
「これ、どうして乾かないんですか」
英語で尋ねたが、返事のうち聞き取れたのは「名前」という単語だけだった。
私は携帯を取り出し、自宅の映像を見せた。
「これは日本の私の部屋です。誰もいないはずなんです」
食卓には、まだ二つのコップがあった。椅子も同じところにある。けれど、画面には誰も映っていなかった。女性はしばらくそれを見て、困ったように首をかしげた。
宿帳の名前を消してほしかった。けれど、どう言えば伝わるのかわからない。せめて手元の名前だけでも消したくて、控えを二つに破った。
女性が何か言った。私は謝り、紙の切れ端を鞄へ押しこんだ。
部屋へ戻って確かめても、食卓の様子は変わっていなかった。
二日後の帰国便を翌日の便に変更した。差額は思ったより高かったが、そのまま予約を確定した。
別の町へ行くことも考えた。けれど、日本の部屋をそのままにして、何日も旅を続ける気にはなれなかった。仕事の書類も、薬の予備も、まだ捨てられない写真も、あの部屋にある。
帰ったらまず管理人を訪ねよう。自分では中へ入らず、一緒に確かめてもらえばいい。誰かが侵入したのなら警察を呼ぶ。
そう考えると、次に何をすればいいのかだけは決まった。
翌朝、港へ向かう支度をしていると、鞄の中で紙の切れ端が指に貼りついた。破った控えは、まだ湿っていた。
飛行機の中では、ほとんど眠れなかった。
配られた水を飲もうとして、紙コップの縁を親指でなぞった。欠けなどあるはずがないのに、唇を当てるところを探していた。
私はあの家で、毎日何をしていたのだろう。
食卓を離れるときは膝で椅子を押し戻す。帰宅したら鍵を鞄の内ポケットへしまう。疲れている日は玄関の明かりもつけず、右足から靴を脱ぐ。
何度も繰り返した動作が、次々に浮かんできた。
あの椅子を動かしたのは誰なのか。考えそうになるたびに、私は機内の明るい通路へ目を向けた。
アパートに着いたのは夕方だった。
道路の向かいから三階の自分の部屋を見上げると、カーテンは閉まっていた。ベランダに人影はなかった。
携帯でカメラにつないだ。室内は薄暗い。コップは片づけられ、椅子も食卓の下に収まっていた。
そのとき、廊下の入口を白い肩が横切った。
ブラウスの襟に、青い縁取りが見えた。出発前に洗って干した、私の服だった。
映像を拡大したときには、もう何もいなかった。窓際を見ると、あの袖も消えていた。
私は管理人室のベルを押した。返事はなく、扉には翌朝まで不在だと書いた紙が貼ってあった。
もう一度画面を見たが、部屋は静かなままだった。さっき見たものを、誰かにどう説明すればいいのかわからなかった。洗濯物が揺れただけだと言われたら、そうではないと証明できない。
階段の上を見た。三階の踊り場からなら、自分の部屋の扉が見える。そこまで行って、何も聞こえなければ引き返そう。扉には近づかない。
そう決めたのに、上がる途中で何度も足が止まった。
三階に着くと、携帯の向こうで床板がきしんだ。
玄関で右足を踏み出すと鳴る、あの音だった。二人で暮らしていたころは、それだけで私が帰ってきたと気づかれた。
私は携帯の音を消した。
廊下の奥に、自分の部屋の扉が見えた。鞄に入れた鍵には触れていない。
扉の向こうで、鍵を外す音がした。
「おかえり」
私の声だった。
語尾を少し伸ばすところまで同じだった。帰りの遅かった相手を迎えるとき、ずっと待っていたと悟られたくなくて、私はああいう言い方をしていた。
扉が開くのを待たずに、階段を駆け下りた。
駅前のホテルで、一泊かと二度聞かれた。返事をしていなかったらしい。
部屋に入ると内鍵を掛け、靴も脱がずにベッドへ座った。鏡には、灰色のシャツを着た私が映っていた。家の中にいたのは私ではない。当たり前のことを確かめてから、また携帯を取り出した。
自宅のカメラには、誰も映っていなかった。廊下の入口にも、食卓の周りにも人影はなかった。
まだ玄関にいるのだろうか。
誰かの帰りを待っていたころのことを思い出した。階段を上がる足音がするたび、テレビの音を小さくした。鍵の音がしてもすぐには立たず、偶然そちらを見ただけ、という顔で迎えた。
あの部屋で、私を待っている。
私は携帯を枕元に置いた。このカメラから、こちらの姿が見えることはない。マイクのボタンにも触れていない。
声を出さずに、「ただいま」と口だけを動かした。
なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。
携帯から、椅子を引く音がした。
「おかえり」
今度は、待ちかねたような声だった。




