婚約者の彼曰く、私の価値は銅貨三枚程らしい。
「そうだ。お前を売り飛ばすことにした。そうだな、価値は銅貨3枚と言った所だ」
ある日、エドガー王太子は、婚約者であるロザリア・クレーベルに向かってそう言った。
王宮の応接室へ呼び出されたロザリアは、告げられた言葉の意味を理解できず、しばらく彼の顔を見つめていた。
エドガーは、残忍な男として知られている。気に入らない者は容赦なく遠ざけ、どれほど長く仕えた者であっても、些細な失敗一つで職を奪う。相手が困窮しようが家族を路頭に迷わせようが、気に留めることはなかった。
彼にとって人間とは、自分の役に立つかどうかで価値が決まるものだった。
それは婚約者であるロザリアに対しても変わらない。
二人が婚約してから、すでに二年が経っている。それにもかかわらず、ロザリアが個人的な用件で王宮へ呼ばれたことは、ほとんどなかった。婚約者同士でありながら、二人で食事をしたことさえ数えるほどしかない。
そんなエドガーが突然ロザリアを呼び出したかと思えば、挨拶もなく売り飛ばすと言い放ったのである。
「ど、どういうことですか?」
「人件削減だ。聞いたことがあるだろう。この国は大変な時期なんだよ」
エドガーは、大したことではないと言わんばかりに答えた。
確かに現在、この国は深刻な財政難に陥っている。
だが、その原因は戦争でも災害でもなかった。王家と、それに連なる一族が長年にわたって私腹を肥やしてきたためである。
彼らは民から集めた税を自分たちの金と考え、宝石や衣装、豪華な宴に惜しみなく使っていた。国庫が底を突きかけても生活を改めようとはせず、足りなければ民からさらに徴収すればよいと考えている。
エドガーもまた、その中心にいる一人だった。
「そうですね……売り飛ばされるのは勘弁していただきたいですが、銅貨三枚なら十分に持ち合わせています。それで手打ちにしましょう」
ロザリアは身につけていた小さな革袋を開き、中から銅貨を三枚取り出した。どれも王都で使われている、ごくありふれた硬貨である。それをエドガーの前へ一枚ずつ並べると、乾いた金属音が机の上に響いた。
エドガーは鼻で笑った。
「何だ、持っていたのか。それを早く言ってくれ」
そう言うと、エドガーは机に置かれた銅貨三枚を手に取った。しかし、革袋へ収める様子はない。そのまま開いていた窓へ近づき、何のためらいもなく外へ投げ捨てた。
三枚の銅貨は陽の光を受けて一瞬だけ輝き、やがて王宮の庭に生い茂る木々の中へ消えていった。
財政難だから自分を売ると言ったばかりではなかったか。
ロザリアは、エドガーの傲慢な態度に何か言おうとして口を開きかけた。しかし、結局は何も言わずに閉じた。
注意したところで、この男は聞かないだろう。
国が苦境に立たされている原因を理解しようともせず、わずかな硬貨さえ平然と投げ捨てる。自らの行いを省みるつもりがある人間の態度ではなかった。
人は変わることができるというのは、本人に変わろうとする意思があればの話である。耳の痛い言葉を聞く気すらない者に、どれほど正しい言葉を尽くしても意味はない。
「それでは、失礼いたします」
ロザリアは静かに一礼すると、エドガーに背を向ける。
そのまま応接室を出たロザリアは、一度も振り返ることなく王宮を後にした
◇
数か月後、ロザリアは母国へ帰るため、国境へ向かう馬車に乗っていた。
ロザリアは東部にある小国の出身である。二年前、エドガーの婚約者になるために家族や友人と別れ、ほとんど身一つでこの国へ渡ってきた。
しかし、あの日以来、王宮からは一度も連絡がなかった。エドガーが婚約者として扱うつもりもない以上、ロザリアがこの国に留まり続ける意味もない。帰国する旨を記した書状を王宮へ送ったものの、それに対する返事さえなかったため、旅支度を整えて出発したのである。
それに、最近は各地で民による反乱が相次いでいた。
重い税に耐えかねた民が役所を襲い、徴税人を追い払ったという話も聞いている。王家に対する不満は、すでに押さえつけられる段階を越えていた。
これ以上この国に残り、反乱に巻き込まれるのは御免だった。
ところが、馬車が国境近くの関所を通過しようとした時だった。
「ちょっと、そこの貴方。止まってください」
外から呼び止められ、馬車がゆっくりと止まった。
ロザリアが窓から様子をうかがうと、武装した男たちが道を塞いでいた。革鎧や胸当てを身につけ、剣や槍を携えている。しかし、その装備は一人ずつ異なり、王家の紋章もつけていなかった。
この国で二年間暮らしてきたロザリアには分かる。彼らは関所を守る正規の兵士ではない。
反乱に参加した民兵だった。
ロザリアは急いで外套のフードを深く被り、顔を隠した。
もし各地の反乱が革命にまで発展しているのなら、王族と関係の深い者は真っ先に狙われる。すでに婚約者として扱われていないとはいえ、ロザリアがエドガーの婚約者であった事実は消えない。
彼らから見れば、ロザリアも王家の一員に等しい存在だった。
やがて一人の民兵が馬車へ近づき、開かれた窓から中をのぞき込んだ。ロザリアは顔を伏せたが、隠しきるには遅すぎた。
(終わった……)
正体を知られたロザリアは、最悪の事態を覚悟した。
ところが、民兵は驚いたように目を見開くと、その場でいきなり片膝をついた。
「これは、ロザリア様でしたか。このような所で何をなされているのでしょう?」
「帰国しようと思って……」
思いがけない態度に戸惑いながら、ロザリアは正直に答えた。
「申し訳ありませんが、現在、商人以外の通行を禁止しております。それに、革命政府からの通達により、ロザリア様には御用がございます。どうか王都へ御帰還ください」
「革命政府が、私に……?」
ロザリアには、呼び戻される理由など思い当たらなかった。
なぜ革命政府が自分の名を知っているのか。何のために王都へ戻らなければならないのか。尋ねても、民兵は詳しい事情までは知らされていないと答えるだけだった。
そうしてロザリアは訳も分からないまま、数か月前に一度も振り返ることなく去った王都へ戻されることになった。
◇
王都へ戻ったロザリアを待っていたのは、かつての面影を失った無惨な光景だった。
城門の一部は崩れ、王家の紋章が刻まれていた場所には大きな亀裂が走っている。大通りには壊された馬車や家具が積み上げられ、即席の防壁として使われた跡が残っていた。窓を割られた商店も多く、火を放たれた建物からは、今も焦げた臭いが漂っている。
ロザリアは王都から比較的離れた場所にある屋敷で暮らしていた。そのため、各地で反乱が起きていることは知っていても、王都がどのような状況にあるのかまでは知らなかった。
それでも、ここまで酷いとは思っていなかった。
大通りの石畳には黒ずんだ染みが残り、道の端には折れた剣や槍が転がっている。すでに亡骸は片づけられていたものの、ここで激しい戦いがあったことは明らかだった。
ロザリアは凄惨な跡から目をそらし、小さく身震いした。
やがて馬車が王城へ続く広場へ入ったところで、大勢の兵士が進路を塞いだ。先頭には身なりの整った数人の男が立っており、そのうちの一人がロザリアの乗る馬車へ近づいてくる。
「これはこれは、ロザリア様ではありませんか。どうやらご無事のようで、何よりです」
男が声をかけると、それを合図にするように兵士たちが馬車を取り囲んだ。
何十人もの武装した兵士を目にしたロザリアは、思わず座席の上で身を屈めた。
拘束されるのだろうか。
関所では丁重に扱われたが、革命政府がロザリアを呼び戻した理由は分からない。王太子の婚約者だった者として、これから処罰を言い渡される可能性もあった。
そんなロザリアの怯えに気づいたのか、先頭に立っていた男は両手を見える位置まで上げた。
「どうか、怖がらないでください。私どもは、あなた様を拘束したいわけではございません」
「では、どうしてこれほど多くの兵士が……」
「王都には、まだ残党が潜んでおります。こちらは念の為の護衛です」
男はそう説明すると、自ら馬車の扉を開け、ロザリアへ手を差し出した。
信用してよいのかは分からない。しかし、兵士に囲まれた状態で拒むこともできず、ロザリアはその手を借りて馬車から降りた。
男たちはロザリアを拘束することも、武器を向けることもなかった。そのまま大勢の兵士に守られながら王城へ入り、長い廊下を進んでいく。
そして案内されたのは、かつてエドガーから売り飛ばすと告げられた、あの応接室だった。
応接室の中には、先ほど馬車の前でロザリアに声をかけた男が待っていた。
王家が集めた豪華な調度品の多くは運び出されており、以前よりも室内は簡素になっている。壁に飾られていた歴代国王の肖像画も取り外され、代わりに王都と各領地を記した大きな地図が掛けられていた。
男はロザリアを椅子へ案内した後、その向かい側に立った。
「初めまして。ルーカス・シュナイダーです。革命政府の長をしています」
そう名乗ったルーカスは、ロザリアへ右手を差し出した。
ロザリアは一瞬だけ戸惑ったものの、その手を握り返した。王国の高官であれば、王太子の婚約者に対して深く頭を下げるか、手の甲へ口づける仕草を見せるところだろう。
しかし、ルーカスが求めたのは対等な者同士が交わす握手だった。
「それで、ルーカスさん。私に何の用でしょうか?」
ロザリアが尋ねると、ルーカスはすぐには答えなかった。
わずかな沈黙の後、決意を固めるようにロザリアをまっすぐ見つめた。
「ご存じのとおり、この国では革命が成功し、新たな国へ生まれ変わろうとしています。しかし、民が主権を握ることに忌避感を覚える国は、今も非常に多いのです。このまま王を置かない国となれば、周辺諸国から危険視され、国交を断たれる可能性もあります」
民による革命が自国へ広がることを恐れ、革命政府の存在そのものを認めようとしない王国もある。国が荒廃している今、周辺諸国との関係まで失えば、新たな国を築く前に民の生活が立ち行かなくなってしまう。
ルーカスはそこで言葉を切ると、静かに続けた。
「そこで、ロザリアさん。あなたに女王となって、この国の支柱になっていただきたいのです」
ロザリアは目を見開いた。
ルーカスの説明をまとめれば、革命政府が望んでいるのは、ロザリアを新たな支配者にすることではない。政治を行うのは民によって選ばれた議会であり、国の方針も法律も議会が決定する。女王となったロザリアに政治的な権力は与えられず、国を代表する象徴として王座に就いてほしいということだった。
立憲君主制というよりも、議会君主制に近い。
王家という形は残しながら、主権は民と議会が握る。ロザリアに求められているのは、他国との関係を保ち、新たな国を一つにまとめる顔役になることだった。
つまりルーカスは、数か月前まで銅貨三枚の価値しかないと言われていたロザリアに、この国の女王になってほしいと頼んでいるのである。
「どうして私なのでしょう? 私は何もしていませんよ」
ロザリアは戸惑いを隠せないまま尋ねた。
王家の浪費を止めたわけでも、反乱に参加したわけでもない。各地で苦しんでいる民を救えるほどの財産も力も持っていなかった。
女王に選ばれるような功績など、一つも思い当たらない。
「民はあなたを見ています。あなたが王家と距離を置いていたことも、民と同じような暮らしをしていたことも」
「民と同じような暮らし……ですか?」
ロザリアは首をかしげた。
確かに、ロザリアが暮らしていたのは王城から離れた小さな屋敷だった。王家から渡される生活費も最低限で、豪華な衣装や宝石を買う余裕はない。使用人の数も少なく、必要な物があれば自ら町へ出向くこともあった。
だが、それはエドガーから婚約者として顧みられなかった結果にすぎない。
「私は、自分にできる範囲で暮らしていただけです」
「その当たり前のことが、以前の王家にはできなかったのです」
ルーカスは机の上に、何枚かの書類を並べた。
そこにはロザリアが暮らしていた町の住民や商人、屋敷に仕えていた使用人たちから寄せられた証言が記されていた。
ロザリアは店先で身分を振りかざさず、品物には決められた代金を支払った。民の暮らしが苦しい時に宴を開くことも、新しい衣装を仕立てるために税を使わせることもなかった。道ですれ違えば挨拶を返し、困っている者の話にも足を止めて耳を傾けた。
ロザリアにとっては、どれも特別なことではない。
しかし、人を人とも思わない王家の者たちに苦しめられてきた民にとって、その振る舞いは決して当たり前ではなかった。
「民が求めているのは、何もかも一人で解決できる支配者ではありません。自分たちを同じ人間として見てくれる、信頼できる国の象徴です」
ルーカスは、ロザリアの前に置いた書類へ手を添えた。
「あなたは王家とつながりを持ちながら、彼らの行いには加担していない。周辺諸国にも名を知られており、それでいて民から憎まれてもいません。新しい国の女王として民が受け入れられる方は、ロザリアさんをおいて他にいないのです」
何もしていないと思っていた。
けれど、ロザリアが何気なく重ねてきた振る舞いを、民はずっと見ていたのである。
◇
一方、エドガーをはじめとする旧王家の者たちは、革命政府による裁判を受けていた。
エドガーが王太子として行ってきた浪費や不当な処罰も、すべて明らかになった。身分と財産を剥奪された彼は、王都の復興作業に従事させられることとなった。
自由に出歩くことも、自分の意思で仕事を選ぶこともできない。朝から晩まで兵士に監視され、命じられるまま瓦礫を運ぶ日々である。
かつて多くの者を道具のように扱ってきたエドガーは、今や奴隷と変わらない存在になっていた。
ある日、満足に瓦礫を運ぶことさえできないエドガーに、監督役の男が冷たく言い放った。
「健康な平民なら、銅貨三枚ほどの価値はある。だが、ろくに働けない罪人奴隷となれば、銅貨一枚の価値にも満たないだろうな」
その言葉を聞いたエドガーの脳裏に、かつて自ら窓の外へ投げ捨てた三枚の銅貨が浮かんだ。
当時の彼にとっては、拾う価値もない金だった。
しかし今のエドガーは、その三枚にすら届かない存在として扱われている。
女王となったロザリアの価値を銅貨三枚だと嘲った男は、最後になって自分の本当の価値を思い知らされたのである。
世の中は、何が起こるか分からない。
こうしてエドガーは、三枚の銅貨に泣くことになったのだった。




