蒼い月
あの夜に見た月は、青白く、ただ静かに海を照らしていた。
結婚して五年目の秋だった。
ルミは、台所に立ったまま、スマートフォンの画面を何度も見つめていた。
そこには、夫のマサルから届いた短いメッセージが残っている。
もう疲れた
子どもを頼む
それだけだった。
最初に読んだ時、意味が分からなかった。
冗談だと思いたかった。
疲れているだけだと思いたかった。
少し頭を冷やしたくて、どこかで休んでいるだけだと、自分に言い聞かせたかった。
すぐに電話をかけた。
呼び出し音は鳴らない。
無機質な案内の声だけが耳に届く。
もう一度かける。
また、つながらない。
何度かけても、マサルの声は返ってこなかった。
「……なに、これ」
小さくつぶやいた声が、台所に落ちた。
テーブルの上には、食べかけの夕飯が残っている。
マサルの茶碗も、箸も、そのままだった。
二歳の息子は、リビングでおもちゃを抱えたまま眠りかけている。
生後半年の下の子は、さっきミルクを飲んだばかりで、布団の上で小さく手を動かしていた。
いつもの夜のはずだった。
少し散らかった部屋。
洗い物の残った台所。
子どもたちの寝息。
帰ってくるはずの夫。
その中で、ひとつだけが突然抜け落ちた。
マサルが、いない。
仕事で悩んでいることは知っていた。
最近、口数が少なくなっていたことも、眠れていない夜があったことも、気づいてはいた。
でもルミは、ゆっくり話を聞けていなかった。
二歳の子はまだ手がかかる。
下の子は夜中に何度も泣く。
授乳、洗濯、食事、寝かしつけ。
一日が終わる頃には、自分の身体も心も擦り切れていた。
マサルが疲れているのは分かっていた。
でも、ルミもまた、毎日を乗り切るだけで精いっぱいだった。
――明日、ちゃんと話そう。
そう思った日が、何日もあった。
けれど、その明日はいつも、子どもの泣き声や家事に追われて過ぎていった。
画面の中の文字を見つめながら、ルミは胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じた。
もう疲れた
子どもを頼む
その二行が、何度読んでも、刃物のように胸を刺した。
それでも、どこかでまだ信じていた。
明日の朝には帰ってくる。
少しだけ一人になりたかっただけ。
きっと玄関が開いて、「ごめん」と言って帰ってくる。
そう思わなければ、立っていられなかった。
その夜、ルミはほとんど眠れなかった。
下の子が泣けば抱き上げ、上の子が寝返りを打てば布団をかけ直した。
スマートフォンが鳴らないか、何度も画面を確認した。
朝になっても、マサルは帰ってこなかった。
昨夜の夕飯は、そのまま冷えていた。
電話は、やはりつながらない。
「会社には……行ってるよね」
声に出してみても、その言葉はひどく頼りなかった。
昼近くになって、家の電話が鳴った。
心臓が跳ねる。
マサルだと思った。
でも受話器の向こうから聞こえてきたのは、マサルの上司の声だった。
「奥さまですか? マサルさんが本日、出社されていなくて。ご連絡もつかないのですが、ご自宅にいらっしゃいますか?」
その瞬間、ルミの喉が詰まった。
本当のことを言わなければならない。
そう思ったのに、言葉は勝手に別の形になって出ていった。
「すみません。少し具合が悪くて……寝ています」
自分でも驚くほど自然に、嘘をついていた。
電話を切ったあと、膝から力が抜けた。
ルミはその場にしゃがみ込み、スマートフォンを握りしめたまま、母に電話をかけた。
「お母さん……マサルが、帰ってこない」
それだけ言うと、もう声にならなかった。
母はすぐに来てくれた。
父も一緒だった。
マサルの実家にも連絡をした。
けれど、実家にもマサルからは何も連絡はなかった。
誰も知らない。
誰も分からない。
マサルがどこにいるのか。
何を考えているのか。
生きているのかさえ。
数日が過ぎた。
警察へ届けを出した。
会社にも、もう隠しきれず、本当のことを伝えた。
しばらくして、マサルの会社から解雇の知らせが届いた。
紙に印刷された冷たい文字を見た時、ルミはしばらく息をすることを忘れた。
住宅ローン。
子ども二人。
仕事を辞めた自分。
途切れた収入。
帰ってこない夫。
結婚する時、マサルは言った。
「家にいてほしい。子どもができたら、そばにいてやってほしい」
その言葉を嬉しいと思った。
頼られている気がした。
家庭を一緒に作っていくのだと思った。
だから仕事を辞めた。
その選択が、突然、足元から崩れていく。
どうやって育てていけばいいのだろう。
どうやって生活していけばいいのだろう。
明日のお金、来月の支払い、子どもたちの未来。
考えれば考えるほど、頭の中が白くなった。
けれど、一番苦しかったのは、お金のことだけではなかった。
――どうして気づけなかったの。
――何がいけなかったの。
――私が、もっと話を聞いていれば。
毎日、ルミは自分を責めた。
子どもが泣く。
電話が鳴るかもしれない。
玄関が開くかもしれない。
そんな期待と恐怖の間で、心は少しずつ擦り切れていった。
上の子は、毎日のように言った。
「パパは?」
そのたびに、ルミは笑おうとした。
「お仕事かな」
「いつ帰る?」
「もうすぐかな」
嘘をつくたびに、胸の奥が削れていく。
ある日の午後、母が下の子を抱きながら言った。
「少し外に出ておいで。下の子は見てるから。上の子と、少し歩いてきなさい」
心配そうな顔だった。
ルミは頷いた。
ただ、少し外の空気を吸うだけ。
そう思って、上の子の手を引いて家を出た。
けれど、玄関を出た途端、子どもが泣き出した。
「パパ……パパに会いたい」
小さな手が、ルミの服を握る。
「パパに会いたいよ」
その声を聞いた瞬間、ルミの中で何かが壊れた。
「……会いに行こうか」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
子どもは涙を浮かべたまま、顔を上げた。
「うん。パパに会いたい」
「会いに行こう」
ルミはそう答えていた。
どこへ行けば会えるのかなんて、分からなかった。
それでも足は駅へ向かっていた。
電車がホームに入ってくる。
子どもは泣き止み、少しだけ嬉しそうに窓の外を見た。
「でんしゃ」
その声が、遠くから聞こえるみたいだった。
スマートフォンが鳴った。
母からだった。
ルミは画面を見つめたまま、出なかった。
もう、何も考えたくなかった。
電車は街を抜け、少しずつ海の方へ向かっていった。
そこは、マサルと何度も来た場所だった。
結婚する前も、子どもが生まれる前も、ふたりで歩いた海。
「いつか子どもを連れてこような」
マサルがそう言って笑っていた場所。
気づけば、ルミはその駅で降りていた。
空はもう暮れかけていた。
電車の中ではしゃいでいた子どもは、疲れたのか、ルミの腕の中で眠っている。
抱きしめると、あたたかかった。
小さな寝息が、首元にかかる。
そのぬくもりを感じながら、ルミは海へ向かって歩いた。
砂浜に出ると、潮の匂いがした。
波の音だけが静かに続いている。
空には、青白い月が浮かび始めていた。
ルミは子どもを抱いたまま、海へ入った。
一歩。
また一歩。
水が靴を濡らし、足首を包み、冷たさが身体へ広がっていく。
でも、もう何も感じなかった。
寒いとも、怖いとも、思えなかった。
ただ、胸の奥から、いくつもの言葉が溢れてきた。
会いたい。
帰ってきて。
そばにいてよ。
どうして置いていったの。
どうして私だけ。
どうして、この子たちだけ。
涙が溢れて止まらなかった。
「会いたいよ……マサル……」
声が波に消える。
「帰ってきてよ……そばにいてよ……」
腕の中の子どもを、ルミはさらに強く抱きしめた。
このまま。
このまま、全部終わらせてしまえば。
苦しさも、不安も、待つことも、自分を責め続けることも、もう終わる。
そんな考えが、静かに形を持ってしまった。
その時だった。
腕の中で、子どもが小さく動いた。
眠そうに目を開け、ルミの濡れた頬を見上げる。
「ママ……?」
ルミは息を止めた。
子どもは、小さな手を伸ばして、ルミの頬に触れた。
「ママ、痛いの?」
その声は、あまりにも優しかった。
何も知らない声だった。
ただ、大好きな母親が泣いていることだけを心配する声だった。
「ママの痛いの、飛んでいけ」
小さな手が、ルミの頬をなでた。
その瞬間、ルミは崩れ落ちた。
海の中で、子どもを抱いたまま泣いた。
声を殺すこともできず、身体を震わせて泣いた。
この子を道連れにはできない。
この子は、まだ何も知らない。
この子には、明日がある。
マサルがいなくても。
自分が壊れそうでも。
この子たちだけは、守らなければならない。
「ごめんね……ごめんね……」
ルミは何度も繰り返した。
子どもは意味も分からず、ただルミの首にしがみついていた。
「ママ?」
「ごめんね……ママ、いるから……」
そう言った時、ようやく自分が生きていることを思い出した。
上を向こう。
泣いてもいい。
悲しいままでいい。
寂しくても
会いたくても
壊れそうでも
この子たちのために生きよう。
青白い月が、静かに海を照らしていた。
冷たい光だった。
でも、その光は確かに、ルミと子どもを照らしていた。
まるで、帰り道を示すように。
ルミは子どもを抱き直し、震える足で海から出た。
濡れた服が重い。
靴の中に水が溜まっている。
身体は冷えきっていた。
それでも、腕の中の子どもはあたたかかった。
そのぬくもりだけを頼りに、ルミは家へ帰った。
玄関を開けると、母が泣きながら駆け寄ってきた。
父も、言葉を失ったまま立っていた。
ルミはその場に膝をつき、頭を下げた。
「ごめんなさい……」
母は何も言わず、ルミと子どもを抱きしめた。
その腕の中で、ルミはまた泣いた。
泣いて、泣いて、息ができなくなるほど泣いた。
その夜、上の子を寝かしつけたあと、子どもが寝言のように小さくつぶやいた。
「パパ……会えた?」
ルミは布団のそばに座ったまま、目を閉じた。
「……会えなかったよ」
声が震えた。
けれど、続けた。
「でもね、ママはここにいるよ」
眠る子どもの髪を、そっとなでる。
「あなたたちのそばにいる」
窓の外には、まだ蒼い月が浮かんでいた。
あの時に見た月は、青白く、静かだった。
絶望の底にいたルミを、優しく救ってくれたわけではない。
何も言わず、ただそこにあっただけだった。
それでも、ルミは思う。
あの月が照らしてくれていたから、帰る道が見えたのかもしれない。
生きると決めたのは、自分だった。
でも、その決意をつなぎとめてくれたのは、子どもの小さな手だった。
ママの痛いの、飛んでいけ。
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
ルミは眠る子どもたちを見つめながら、静かに誓った。
泣いてもいい。
弱くてもいい。
また壊れそうになる日があってもいい。
それでも、明日もこの子たちのそばにいよう。
帰ってこない人を待つだけではなく、ここにいる命と生きていこう。
蒼い月の光が、窓辺に静かに差し込んだ。




