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菫と鈴が、鈴の家に帰りついたのは9時過ぎだった。
カウンターに座り直した後、菫は鈴に振られた彼女に、散々どれくらい鈴を好きかを聞かされた。それにつられたのかどうかわからない。テーブル席にいた女の子たちも一緒になって鈴がいかにかっこいいのかという座談会が始まるに至って、鈴はいたたまられなくなったのか、店の裏手にある倉庫の片づけをすると引っ込んでしまったから、座談会はさらにヒートアップしていったとか、いかないとか。
結局、失恋仲間と盛り上がって満足したのか、振られた彼女もすっきりとした表情になって、手作りのブラウニーを鈴に渡して帰っていった。もちろん、座談会の参加者は漏れなく鈴へのチョコレートを置いて帰っていったのだった。
貴志狼が『あんた。バカだろ』といい、葉に怒られていたけれど、彼の言う通りなのは菫にもよくわかっている。
自分はバカなのだと菫は思う。
けれど、葉が『そこが菫君のいいところだよ』と、言ってくれたから、救われた気がした。
とにかく、鈴の家で手料理を作る計画はご破算になってしまったから、代わりに二人で食事をして帰った。その間、鈴はいつもと変わらない様子を装ってはいたけれど、いつもより少し沈んでいたように思う。
当たり前と言えば当たり前だ。付き合い始めて初めてのバレンタインは今日しかない。それなのに、菫が余計なことを言ったせいで、その後も放っておけなくて話をきっちり最後まで聞いてあげていたせいで、二人きりでいられる時間は随分と短くなってしまった。鈴は優しいから菫の前では不機嫌な顔を見せないようにしてくれているけれど、鈴の機嫌がいいわけがない。
なんだか、すごく申し訳なくて、菫は小さくため息をついた。
その音に、鈴が持っていた紙袋を置く、どさり。という大きな音が重なる。
想像通り、鈴の貰ったチョコレートの数はすごかった。全部持って帰って来られずに、緑風堂に預かってもらっているくらいだ。鈴は甘いものがあまり好きではないから、こんな量をどうするのだろうと少し心配になる。
「部屋。すぐに温まると思うけど。何か温かいものいれてきますね。菫さんコーヒーでいいですか?」
エアコンのスイッチを入れてから、鈴がくるり。と、菫を振り返る。菫の方も持っていた紙袋を置いて顔を上げると、チタンのフレームのレンズの奥の瞳がじっと菫を見つめていた。
「……や。いい。いらない」
菫は首を横に振る。
それから、ちらり。と、鈴が置いた紙袋を見た。開いた口からは中の色とりどりの包みが見えている。きっと、それらの一つ一つには全部、緑風堂であの女性が贈ったブラウニーのように切実な思いを込めているはずだ。中には芸能人を好きになるようなノリの子もいるだろうけれど、それでも大なり小なり鈴への思いが詰まっている。
けれど、鈴は言ったのだ。
『気持ちは。受け取れない』
と。
だから、菫も決めた。
「鈴」
肩から掛けたままのトートバックの中から菫は包みを取り出した。鈴が貰ったほかのチョコレートと違って、ピンク色でも、ハートが乱れ飛んでもいない。菫はバレンタインにチョコレートを贈ったことはないし、貰ったものの包装の仕方まで覚えていない。だから、どうするのが正解なのかわからなくて、100円ショップで買った箱を英字新聞で巾着状に包んで、口を小さな赤いリボンでくくっただけの地味な包みだ。
「これ」
中身だって決して出来がいいとは言えない。高級店のチョコレートでも、手間と時間をかけた手作りでもない。
「あの。実は。もっと、難易度の高いやつ。作る予定だったんだけど……失敗して……こんなのしか作れなくて」
ほかの人と比べて恥ずかしいと思う気持ちはある。
ただ、負けないと思えるところもあるから、菫は胸を張ることに決めたのだ。
「でも。『気持ち』は込めたから」
お粗末なチョコレートかもしれないけれど、鈴が好きだという気持ちはたっぷり込めたつもりだ。失敗した分も全部。その中に詰め込んだ。
「だから。貰って……ほしい」
鈴にチョコレートを上げたほかの女の子たちのように、俯いて鈴の返答を待つ。
しばし、沈黙。
「じゃあ。菫さん」
箱を受け取ることはしないまま、鈴は言った。
それから、鈴が少しだけ近くを離れる気配。けれど、すぐに戻ってきた。そして、俯いたままの菫の前に何かが差し出された。
それは、きっちり。と、包装紙に包まれた小さな箱だった。薄いピンク色のチェックの包装紙で、赤い小さなリボンがかかっている。
「初めてだったんで……うまくはできていないですけど……俺も。ありったけ込めました。『気持ち』」
顔を上げると、鈴は恥ずかしそうに笑った。頬が赤い。
「貰ってくれますか?」
最初、その意味が分からなくて、菫はきょとん。としていた。しかし、意味が分かると思わず菫は鈴の胸に飛び込んでいた。
なんとなく、勝手に思っていたのだ。バレンタインデーはあげるもの。
けれど、違っていた。
バレンタインは誰にとっても平等だ。平等に告白するチャンスをくれる。だから、鈴も菫のために用意してくれていたのだ。『ありったけ』を詰め込んだチョコレート。
「ありがと。鈴。嬉しい」
同時に小柏さんの言っていたことが、本当の意味で分かった。それがどんなに拙くても構わない。ただ、それを作っている間、きっと鈴は菫のことを考えてくれていた。その時間が何より愛おしい。
思いを込めて顔を見上げると、鈴も嬉しそうに笑っていた。
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一頻り抱き合うと、鈴はコーヒーを入れてくれた。ソファに二人。並んで座って、お互いが作ったチョコの包みを解く。二人とも、ハートの形をしたチョコを固めただけのものだったのがなんだかおかしくて、また笑う。
そこに鈴は『すきです』と、ホワイトチョコで書いてあった。字は歪んでいたけど、それを書こうと四苦八苦している鈴を想像したら、もう、それだけで何でも許せる気がした。
「全然うまく書けなくて……何度か失敗してこれが一番マシでした。でも。菫さん。料理上手だし。今日見たどの手作りチョコも全部、少なくとも俺よりは出来が良くて……本当はもう。渡すのはやめようって思ってたんです」
菫の肩を抱いて鈴が恥ずかしそうに言う。鈴が同じようなことを考えていたのだと思うと、可笑しいよりも、嬉しい。もちろん、鈴だって貰うばかりでバレンタインにチョコレートをあげたことなんてなかっただろう。
「でも。それじゃダメだって思って」
ぎゅ。と、菫の肩を抱く鈴の腕に力が籠った。見上げると、少しだけ真剣な顔。
「もっと、必死にならないと。菫さん。誰かにとられたくないし……」
菫の視線に気づいて、困ったような顔をした後、鈴は菫の耳元に鈴の低い声がぼそり。と、小さく呟く。
「大げさだな。とられるなんてあるわけないだろ?」
鈴の声が耳にくすぐったくて、くすり。と、菫は笑いながら答える。
少なくとも、菫はどんなチョコを渡されても、誰に告白されても心変わりするなんて思えない。鈴が世界で一番好きだし、そもそも鈴以外が自分を奪いに来ることなんてありえない。黒羽の件があったけれど、あれは完全にイレギュラーだ。あんなことが二度もあるはずがない。
「……わかってないな」
菫の反応に、鈴はため息交じりに小さく呟く。
「きっと、ブラウニーの子は5年後には俺のことより菫さんのこと覚えているはずですよ?」
少し不機嫌な顔になって、鈴は菫の頬を甘くつねった。痛くはない。どちらかというよりも、鈴が不機嫌になってしまったことの方が引っかかる。緑風堂を出て、食事をしている間もずっとそんな顔をしていたからだ。
「え? あ。まあ、俺みたいな……無関係のくせに他人のことに首突っ込む変わり者。忘れられないかもしれないけど」
そう答えると、今度は鈴は大げさにため息をついた。
「あなたが。そんな、だから、必死にならざるを得ないんでしょ」
難しい顔をして、鈴は言う。それから、さっきつねっていた頬にキスをした。
「覚悟しててくださいね? 菫さんの良さに気付きそうなヤツがいたら、容赦なく邪魔しますから。俺、必死なんで」
そんなことを言って、鈴は笑った。なんだか黒いものを多分に含んだ笑顔だったけれど、どういう意味なのかと尋ねる前に唇を塞がれた。
鈴は長いキスの後、唇を放してから、ふと。思い立ったように自分が作ったチョコレートを割る。
「あ。ちょっと」
写メ撮って、現物は冷凍保存してゆっくり堪能しようと思っていたのに、いきなりそんなことをするから、抗議の声を上げると、鈴は微笑んでチョコレートの欠片を菫の唇のあたりに差し出す。
「はい」
その表情が『たべて』と、言っているから、素直に口を開けると、口の中にそれが入ってきた。
甘い。
今まで食べたどんなチョコレートよりも甘い。
「甘い。ね?」
なんだか、すごくすごく幸せな気分になって、菫は笑った。勝手に頬が緩んでいた。
「はい。もうひとつ」
だから、そう言われて、菫はまた、素直に口を開けた。そうしたら、もう一つ。チョコレートが口の中に入っていくのが視界の端に映った。しかし、それは、鈴が菫にくれたチョコではなくて、菫が鈴に渡したチョコだった。ように思う。
が、考える間もなく、また、菫の唇に鈴の唇が触れる。今度は少しばかり、深いキス。口の中に鈴の舌が割り込んでくる。
「ん」
少し息苦しく感じるころ、鈴の唇が離れた。そして、離れ際、名残を惜しむようにぺろ。と、鈴の舌が菫の唇を舐める。
「鈴」
別に怒っているわけではない。だから、名前を呼ぶ声には抗議の色は含まれていない。けれど、顔は真っ赤になっていたことだろう。こんな恥ずかしい食べさせ方ってあるだろうか。少なくとも菫は初めてだ。
「ん。菫さんのチョコも。甘い」
そう言って、鈴は笑う。
甘いのは、鈴の方だ。
とは、言葉にしなかった。きっと、言ったら、鈴は菫の方が甘いというだろう。そして、その論争には勝者はいないのだ。
「『気持ち』たくさん込めてくれたからですか?」
そうだよ。と、答える代わりに、菫は鈴の胸に顔を埋めた。そんなこと、言わなくても分かっているし、言葉にしなくてもわかってもらう方法はいくらでもあるからだ。
「やっぱり。俺は。菫さん以外の『気持ち』も、チョコも要らない。この先もずっと。です」
そう言って、鈴はちらり。と、菫が渡したチョコレートの箱を見た。そこには小さなハート型のチョコがいくつか入っている。鈴が菫にくれたチョコと同じようにそこにはホワイトチョコレートで文字が書かれていたけれど、鈴のそれとは違ってまるで普通のペンで書いたのではないかというような綺麗な文字だ。
せめてそれくらいは綺麗にしたくて、気合を入れたし、言葉はかなり慎重に選んだ。つもりだ。
『な』
『い』
『り』
『か』
『た』
『く』
チョコレートには一粒に一つずつの文字。さっき鈴が菫の口に入れたのは『え』だ。
「じゃあ。帰さなくていいですか? ずっと」
耳元にぼそり。と、囁く声。もちろん。菫はそこまで意図していなかった。ただ、今夜は泊まると約束したわけではなかったから、せめて一緒にいられたら、情けないチョコの代わりに鈴を喜ばせることができるかな。と、思っただけだった。だから、たっぷり30秒ほど、鈴の言葉の意味を考えて、驚いて顔を上げると、鈴はまた、少し意地の悪い笑顔を浮かべた。
「冗談。……でもないですけど。あなたのこと、帰さなくてよくなるまで。……や。ずっと、菫さんのバレンタインチョコは俺が予約していいですか?」
テーブル脇に鈴が置いた紙袋の中のたくさんの手作りチョコに詰まった、菫が知らない誰かさんたちの『鈴への気持ち』たちには申し訳ないと思うけれど、菫だって、鈴に『気持ち』を受け取ってもらえる権利を誰かに譲る気はない。だから、菫は頷く。
「ずっと。ですよ? 約束しましたからね?」
言質を取った。とばかりに、鈴が必死な顔で念を押すから、菫はまた、笑って頷いた。
外は-8℃の寒さ。けれど、25℃設定の寒冷地仕様エアコンと鈴の温もりで、何もかも全部。暖かいと感じる。初めてのバレンタインデーの出来事だった。
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