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からん。
と、いい音がして、扉が開く。聞きなれた心地のいい音だ。
店内は予想通り、女性客で満席だった。
それなのに、いつも菫が座っている席だけが空いている。緑と紺と紅が団子になってその席を陣取っているからだ。席は混んでいて、待合席には2人組の女子高生と3人組の女性客が待っているけれど、猫が陣取っている席を彼女らに譲ろうとはしないあたり、猫ファーストの葉らしい。
猫たちは菫が入ってくるなり、席を飛び降りて菫の足元にすり寄ってくる。まるで、予約席へと案内しようとしているようだ。
「あ。菫君いらっしゃい」
満面の笑顔で葉が迎えてくれる。その奥にはエプロンをした貴志狼がいて、愛想なく会釈をした。
カウンター横のケースにはいつもはお茶を使ったスイーツが並んでいるのだけれど、今日は全部チョコレートのスイーツばかりで、それを目当てに来るお客さんも多いらしいから、貴志狼も手伝いに駆り出されたのだろう。
「菫さん」
葉の声が聞こえたのか、カウンター裏のパーティションの影から鈴が顔を出した。
「いらっしゃい」
笑顔が眩しい。さっき、想像した通りの優しくて、嬉しそうに弾んだ声だ。店内の女性客がその鈴の様子に色めき立つ。
「もう少しだけ待っててもらえますか? 仕事すぐに片付けるんで」
鈴の声に菫が頷くと、葉は当たり前のように猫たちが確保していた席に菫を座らせた。待っている客に『カウンター席どうですか?』と、聞くこともしない。本当に菫のための予約席だったような顔をしている。待っている女の子たちは少し怪訝そうな顔をするけれど、そもそも1席しか空いていないからと、諦めたように会話に戻っていった。
「ごめんね。今日は少し混んでるから」
そう言って、葉は菫の前にお茶を出してくれた。いい香りがする。すっきりと、清涼感のある香りだ。
「いえ。いいんです。バレンタインの限定。食べたかったし」
菫が席に落ち着くと、すぐに膝の上に紅が乗っかってきた。甘えるようにすりすり。と、すり寄ってくる。その愛くるしい姿に滑らかな毛皮を撫でると、彼女はぐるぐる。と、喉を鳴らした。こんなふうに紅の歓迎を受けられるなら、少しくらい待つのは何でもない。しかも、鈴の働いている姿を見ながらなら、なおさらだ。
「日替わり。どれにする?」
菫のそんな気持ちを察したように、葉がケーキのガラスケースを指さして言った。
「んー。どれも、おいしそうで……悩む」
本日の日替わりはザッハトルテとチョコクリームたっぷりのココアシフォンケーキとチョコレートレアチーズケーキだ。
「あんたならココアシフォンがいいんじゃないか」
ケースを前に熟考していると、横からぼそり。と、声がした。顔を上げると、今しがた一人で来ていた女性客が席を立った隣のカウンター席の食器を片付けている貴志狼がいた。彼を緑風堂で見かけるのは珍しくないけれど、話しかけられるのは稀だ。彼は外見に似合わず接客は細やかで、何も言わずにお茶のお代わりを煎れてくれたりするのだ。
「一番甘い」
菫の視線に気づいているだろうけれど、貴志狼は菫の方を向きもせずそう付け加えた。さりげなく常連客の好みまで把握している当たり、ほとんど他人に興味がない鈴よりも接客には向いていそうだ。と、菫は思う。ただ、菫は気付いていない。強面の貴志狼が菫に丁寧な接客をするのは何も菫が常連だからではなく、葉が菫を気に入っているからなのだということ。そして、葉に気に入られている菫を貴志狼自身も好ましく思っているのだということ。なんにせよ、緑風堂にとって菫は特別な客だった。
「じゃあ、それにします」
三つとも魅力的で自分では決められなかったから、菫は素直に貴志狼に従うことにした。
甘いのは好きだ。
本当なら、三つとも食べたいけれど、この後、鈴と一緒に買い物をして、鈴のうちで手料理を作る約束になっているから、少しは控えた方がいいだろう。
「あの……」
菫の言葉に貴志狼がカウンターの中に入って、日替わりの用意をしている横で、葉は席を立った女性客の会計をしていた。その女性が葉に向かって躊躇いがちに声をかけてきた。
「北島さん。少しお時間いただけないですか?」
その言葉に菫は思わずびくり。と、反応してしまった。見てはいけないと思いつつも、つい視線がそちらに向いてしまう。
薄いピンク色のPコートを着たふわり。とウェーブのかかった肩までの髪の鈴と同年代と思しき女性だ。ナチュラルなメイクがよく似合う美人というより可愛らしいひとだ。
「あー。えっと……」
彼女の言葉に、葉が言葉を濁してちらり。と、菫を見る。
さっき、鈴が外でチョコレートを貰っていたところから察すると、葉は彼女らの要望をすべて断っているわけではないらしい。けれど、言葉を濁したのは、菫に配慮してくれているからだと思う。
「葉さん。これ。3番の棚でいい?」
タイミングが、いいというのだろうか。悪いというのだろうか。パーティションの裏に引っ込んでいた鈴がそこへ顔を出した。
「あ。鈴。えと」
困ったように葉が鈴を見る。多分、ほかの女性客には鈴にチョコレートを渡す時間を許して、彼女らに断る理由が見つけられないのだろう。
その表情に言いたいことを察したのか、鈴が眉を寄せる。それから、菫の顔を見てやはり困ったように唇を噛んだ。
「北島さん。あの。これ」
二人の戸惑いなど、お構いなしに、女性客は持っていた紙袋を鈴に差し出した。ロゴが入っていない真新しい白い小さな紙袋。袋の口からは中の赤いリボンが見えている。
「お口に合うかわからないんですけど。一生懸命作ったから……」
彼女の横顔は遠目にも分かるくらいに真っ赤に染まっていた。声が震えている。きっと、精一杯の勇気を振り絞っているんだろうと想像できる。
「……悪いけど」
鈴の声の響きはさっき店の前でチョコレートを渡した女の子に対する声とも違っていた。
「受け取れない」
それはその言葉が、彼女に向けたものではなくて、菫に向けた言葉だからだと思うのは、自惚れ過ぎだろうか。
「そういうの。貰いたい人は。一人しかいないから」
鈴の言葉に菫は思わずその顔を見たから、鈴が一瞬だけ、菫の方へ視線を寄越したあと、その口が小さく動いたのを見逃さなかった。
確かに動いた。
あなたです。
と。
けれど、俯いたままの彼女は気付かなかったようだった。
「でも……さっきの子のは貰ってましたよね?」
縋るような視線を鈴に向けて、彼女は言った。
「受け取ったのは。『もの』だけだから」
再び彼女に鈴が向けた視線は菫に寄越したそれとは確実に違っていた。綺麗ではあるけれど、熱を含まない眼差し。人形のようだと思うと同時に、その綺麗な顔に表情が乗った時を思い出して、胸が痛む。
彼女だって鈴が好きなのだ。
だけど、鈴は残酷なくらいにはっきりと彼女と菫の間に線を引いている。
もし、鈴が引く線の外側に自分がいたら、耐えられない。
でも、きっと、これが、鈴なりの誠意なんだと菫は思う。
「気持ちは。受け取れない」
鈴の言葉が彼女にどう響いたかはわからないが、彼女は唇を噛んで、俯いた。
しん。と、店内が静まり返る。
ほんの数秒の沈黙。けれど、それは、とても長く感じられた。
不意に、彼女は紙袋の持ち手を強く握りしめていた手を、振り上げる。そして、そのまま一瞬止まる。ぶるぶる。と、その手が震えているのがわかった。
怒りなのか、悲しみなのか、その両方なのか、表情が複雑に変化する。
「あのっ」
思わず。菫は声を上げていた。声を上げた自分自身に驚く。
この状況で、菫は完全に部外者だ。口出しする権利などないし、必要もない。
それは、もちろん。菫にだって分かっていた。分かっていたはずなのに思わず声が出てしまったのだ。
その場にいた全員の視線が菫に向いている。鈴も、ひどく驚いていた。
「……作ってた時。思い出して」
菫は自分でも何を言っているか、何を言っていいのかよくわからなかった。いや、何も言わないのが正解だということは分かる。それでも、勝手に動く口は止まってくれない。
「は? あんた誰?」
腕を振り上げたまま、彼女が言う。可愛らしい顔に似合わない冷たい言い方だ。でも、この状況では当たり前だと思う。100人いたら99人までがそんな反応になるだろう。
「この店で。す……北島君のこと、見てた時のこと思い出して」
けれど、菫は放っておけなかった。
きっと彼女は一生懸命に鈴を思ってそれを作ったはずだ。彼女が振り上げたその紙袋の中には、緊張と。高揚と。期待と。不安と。それから、鈴への恋心のすべてが詰まっている。それを、投げ捨ててはいけない気がした。届かなかったからと言って、ゴミにしてはいけない気がしたのだ。
「あの。俺。ここの常連なんだけど。君のこと何度かここで見たことある。結構前から、この店に通ってたよね? ずっと、北島君のこと見てたんじゃない? 君が、北島君のこと見て、すごく楽しそうに笑ってたの知ってる」
菫は職業柄、人の顔を覚えるのは得意な方だ。だから、彼女をここでも、図書館でも見た記憶があった。そして、その視線の先に鈴がいたのも知っている。鈴を見つけて嬉しそうに笑う彼女を知っている。
菫の言葉が彼女の心にどう響いたかはわからないが、彼女の表情が変わった。その顔に怒りよりも、悲しみの色が強くなる。
「きっと。投げ捨てたら。苦しい。つらい気持ちしか。残らない」
自分の言葉が彼女の心を変えられるなんて、菫は思わない。彼女の心を変えることができるとしたら、鈴か、彼女自身だけだ。
それでも、菫は知っている。
チョコレートの甘い香りに包まれて、好きな人を思いながら、お菓子を作る、ふわふわ。と、舞い上がるよな幸福感。気持ちが伝わらなくても、いつか今日を思い出すとき、いつか鈴を思い出すとき、その思い出が悲しみと怒りだけになってほしくない。
「なにそれ……」
言葉とは裏腹に、彼女は振り上げていた腕を下ろした。
はらり。と、頬を涙が伝う。
「どんなチョコ作ったの?」
席を立って、彼女の元まで歩いて行って、菫は尋ねた。ポケットを探って、ティッシュを引っ張り出して、差し出す。
差し出されたティッシュをじっと見つめてから、彼女はそれを受け取った。
「ブラウニー。ナッツ。たくさん入ったの」
ティッシュで目元と鼻を拭きながら、彼女は答えた。ぱんぱんに膨れ上がっていた怒りは萎んだようだ。代わりに悲しさが止まらないのか、拭いても拭いても涙が零れ落ちる。
「北島さん……あんまり、甘いの。好きじゃなさそうだから」
ぐしぐし。と、鼻を鳴らし、しゃくりあげながら、彼女は言う。
うんうん。と、頷きながら、菫はそれを聞いていた。
「北島さんが。バイト始めた時ころから、ずっと……通ってて」
話を聞くために、もう一度彼女をカウンターに座らせて、葉に目配せすると、彼は頷いて、温かいお茶を彼女の前に置いてくれた。それから、鈴に、裏で仕事をしているように。と、小声で伝える。鈴はなんだか複雑そうな顔で、菫を見ていた。
「初めて見た時から……ずっと。ずっと。好きだったの……いろんな子たちが北島さんを見に来てるからね。叶うなんて思ってなかった。見てるだけでいいって思ってた。告白するつもりもなかった。でも……でも。大学卒業して、地元に帰ったら。もう。会えなくなっちゃうから……私」
席に座ると、彼女は堰を切ったように話し始める。
同時に、店はいつもの日常に戻っていった。
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