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 緑風堂に向かう路地を菫は早足で歩いていた。と、いうより、最早走っていた。小柏さんの指摘から5分。今世紀最速でメールを完成させて送信して着替えもそこそこに職場を出た。菫の業務をまんまと邪魔した小柏さんは、もちろん菫の仕事を手伝うことなどなく、『おつかれ~』と、笑顔で帰っていった。菫で遊んでいたのは言うまでもない。

 とにかく、そんなことはさておき、菫は急いで緑風堂に向かっていた。


 10分くらい遅れたところで、鈴が怒るとは思わない。ただ一緒にいられる時間が減るのも、仕事だ。という理由で鈴との時間を疎かにしていると思われるのも嫌だ。仕事は大切で大好きだけれど、鈴とは比べられない。そんな理屈を抜きにしても鈴に早く会いたい。

 そうして、足は次第に速くなっていった。

 ついつい乱暴に腕を振ってしまって、持っていた紙袋ががさり。と、大きな音を立てる。

 その中にはもちろん、今日貰ったチョコレートが入っている。

 いくつかは手作りだ。

 小さな女の子が『ママといっしょにつくったの』と、手渡してくれた時は、ちっちゃな手で一生懸命作ってくれたのだと思うと、本当に嬉しかった。ケイタたちがみんなで一緒に作ったというの手作りチョコにはそれぞれからの手紙がついていて、社の近況などがいっぱいに書かれていた。


「ありがと」


 菫は呟く。

 あんな小さな子たちが、一生懸命作った手作りのチョコを作って贈ってくれた。それは、菫にとってはすごく嬉しいことだったけれど、同時に思ってしまうのだ。あんな小さな子たちがたかが図書館のお兄さんにここまでしてくれるのに、自分はどうだろう。


 鈴はモテる。ものすっっっごくモテる。あの容姿なのだから当たり前だ。鈴の顔面力ならその辺のアイドルなんか目じゃない。別に菫の贔屓目ではないと思う。鈴はすごく嫌がるけれど、SNSでは鈴の隠し撮りが流出していて、図書館や緑風堂には鈴目当てで来る客も多い。


 だから、きっと、今日、緑風堂でバイトをしていたら、鈴はチョコなんて紙袋では収まらないくらいに貰っていることだろう。

 そして、そのチョコは菫がもらったそれとは違う。優しいお兄さんに感謝の気持ちを込めて贈るのとはわけが違うのだ。


 バレンタインは、年に一度、どんな女の子にも平等に思いを告げる勇気をくれる日。甘いお菓子に胸の奥に秘めた恋心を込めれば、普段は遠くから見ることしかできない憧れの人に告白することも許される一大イベントなのだ。

 その機会はもちろん、平等。誰にも邪魔をされることはないし、誰の邪魔もできない。

 それならせめて少しでも心に残るチョコレートを贈りたいのは当然だと思う。特に鈴みたいなたくさんもらうことが確定している相手なら何とかして目に留めてほしくて己の持てるすべての技術を集結させて最高のものを作り上げたいのは女心というものだろう。


 きっと、鈴はそんなチョコレートをたくさんもらうはずだ。


 そこまで考えて菫はまた大きくため息をつく。それから、そっと肩から掛けているトートバックの中身に触れる。

 そこには鈴に渡そうとしているチョコレートが入っている。本当に溶かしたチョコレートを型に入れて固めて、そこに湯せんで溶かしたホワイトチョコでメッセージを書いただけの超初心者手作りチョコ。小学生の女の子なら可愛いけれど、おっさんが恋人に渡すにはかなりイタい代物だ。これなら市販のブランド物の高級チョコでも買っておけばよかった。

 ただ。いくらおっさんというカテゴリに片足を突っ込んでいる菫だって、たくさんの手作りチョコに自分のものが埋もれてしまうのは嫌だった。料理だけはそこそこみられるものが作れるから、そこをアピールしたかった。できるはずだった。

 確かに菫はその他大勢のモブだし、綺麗でもなければ可愛くもない。それどころか女の子ですらない。

 それでも、鈴に恋する気持ちは負けたくないし、鈴に一番喜んでほしい。


 だから、自分の情けない現状にため息を漏らさずにはいられない。



 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



 そんなことを考えていたら、もう、緑風堂のある小道に入る前まで来ていた。いつもはしん。として、静かな路地が少し騒めいている。誰かの話し声だろうか。

 小道に入っていくと、その先は開けた場所になる。そこに緑風堂と葉の家とちょっとした畑があるのだが、店の前に人影が見えた。6時近くになっているから、もう辺りはかなり薄暗い。けれど、人影が随分と背が高いことは分かる。そして、シルエットだけでもそれが、鈴だと菫にはわかった。


 でも、声はかけられない。それどころか、さっきまで忙しなく動いていた足も地面に張り付いてしまったように止まってしまった。

 鈴の前には近くの創元館高校の制服を着た女の子が3人立っていたからだ。


 最悪のタイミングだ。


 菫は思う。

 菫は鈴とお付き合いしている。鈴はいつだって菫に愛情を伝えることを惜しまないから、鈴の気持ちを疑ったりはしない。だからといって、不安にならないわけではない。いつか鈴に『運命の人』が現れるかもしれない。そうでなくても、地味なおっさんよりも、若くて小さくて柔らかくて可愛い女の子がいいと思う日が来るかもしれない。


 そして、それは今日なのかもしれない。


 今日はバレンタイン。秘めた思いを伝えることが許される日。普段鈴を見つめるだけの好意が形になって押し寄せてくる。鈴みたいなイケメンなら、それはもう、津波のように。だ。

 それに、いくら菫と鈴が付き合っているのだとしても、菫は誰かが鈴に告白するを止める権利が自分にあるとは思えない。人を好きになるのは自由だ。

 鈴がモテるのは言うまでもないし、菫はいつだって不安だけれど、特に今日みたいな日には、こんなにたくさんの愛情を向けられたら、一つくらい菫より鈴の心をとらえるものがあるのではないかと、戦々恐々としてしまう。

 

 別に悲観しているというわけでもなくて、菫は鈴が少しでも長く自分を好きでいてくれるように精一杯努力しているつもりだ。つもりなのだけれど、特別な日なのに失敗してお手軽チョコを作ってしまったなんて時には、消えてしまいたくなる。きっと、こんなチョコレートではたくさんの鈴への思いの中に埋もれて見えなくなってしまうだろう。


 だから、声をかけることができなかった。


「これ。もらってください」


 3人いるうちの一人の女の子がリボンのかかった包みを差し出す。綺麗にラッピングされたそれは、間違いなくチョコレートだろう。どこかの店のラッピングではないから、手作りかもしれない。リボンの間には小さな封筒が挟んであって、おそらくは思いを綴った手紙だろうと想像がついた。


「ずっと。ずっと。北島さんのこと見てました」


 緑風堂から洩れる仄かな灯りだけでもわかるくらいに頬が赤い。きっと、精一杯の勇気を振り絞っているのだろう。彼女を励ますように一歩下がったところで友人と思しき二人の女の子はぎゅ。と、手を取り合ってチョコを渡す女の子を見つめている。

 その様子に、菫はトートバックの肩ひもをぎゅ。っと握りしめた。


「悪いけど」


 鈴の声だ。温度を感じない声。鈴には通常運転だけれど、彼女にどう響いているのかと考えると、少し心が痛む。


「受け取れない」


 同時に、きっと、声をかけたなら鈴が自分に向けてくれるだろう優しい声を想像して、優越感を感じている自分が嫌になる。


「あの……貰ってくれるだけでいいんです。付き合ってほしいとか、好きになってほしいんじゃなくて。ただ……その」


 女の子の声は震えていた。


「ずっと。ずっと。北島さんが……バイト始めた頃から。お店に通ってて。ずっと。好きでした。これで、もう、諦めるから……最後にこれだけもらってください」


 彼女はチョコレートを鈴に差し出したまま、俯いていた。

 ずきん。と、心が痛む。


「……好きな人がいるんだ」


 ぼそり。と、鈴が言う。聞き取るのがやっと。という声だ。


「ずっと。ずっと。好きだった人にようやく気持ちが伝わって。だから。もう、ほかの人のことを好きになるとか、考えられない」


 はっきり。きっぱり。と、鈴が言った。その鈴の言葉にびくり。と、チョコレートを差し出したままの女の子は肩を震わせた。そして、顔を上げる。多分、声の響きがとても優しかったからだ。彼女の後ろにいた二人も、鈴の表情を見て、固まっていた。ただ、菫の場所からは鈴の表情までは見えない。

 

「それでも。いいなら……」


 その声はもう、いつもの余所行きの鈴の声だった。

 彼女は『ありがとうございます』と、小さく呟いて、鈴にチョコレートを渡して、何度も頭を下げていた。


 彼女たちの去り際。立ち聞きしていたのが申し訳なくて、入り口近くの物置小屋の影に身を隠して、菫は彼女たちを見送った。


「ダメだった……ね」


 友人の一人が彼女にポケットティッシュを差し出す。ぐすぐす。と、鼻をすする音が聞こえるから、泣いているのだろう。


「うん」


 女の子はティッシュを受け取りながら答える。


「でも。……いい。渡せたし。ずっと通ってたから知ってる。最近。北島さん。あんなふうに笑うこと増えたから。なんとなく、そうじゃないかなって思ってたし」


 貰ったティッシュで鼻を拭きながら彼女は言った。ちらり。と、覗き見た表情は泣いているけれど、なんだか清々しい。


「あれはズルいよね?」 


 一緒にいたもう一人の友人がため息を漏らす。


「あんな顔で好きな人がいる。なんて言われたら……諦めるしかないよね?」


 ぽんぽん。と、友人の背中を叩く。


「でも。ミーコ頑張った! すごいよ。北島さんに憧れてる子いっぱいいるけど、チョコ渡せた子なんて、そんなにいないよ?」


「そうそう。すごい。頑張ったミーコには私たちが何でも奢ってあげる。やけ食いするぞ~!!」


 友人二人に励まされて、彼女は笑顔を浮かべた。それから、駅の方にあるカフェに行くぞ。と、言いながら去っていく。

 その姿を、見えなくなるまで見送って、菫は自分のトートバックの中を見た。


 これに。

 あの子を納得させるだけの価値があるんだろうか。


 菫は思う。


 ただ、できてしまったものはお粗末でも、鈴への思いは負けないつもりだ。


「よし」


 呟いて、菫は緑風堂に向かって歩き出した。

 ご愛読ありがとうございます。


 この作品は、フィクションであり、実在するいかなる個人・団体とも関係はありません。

 また、著作権を放棄していないので、転写等はご遠慮ください。

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