試験の余波1
他人という確証がどうしても欲しくて、翠蘭は渋い顔のまま煌月をじっと見つめる。
彼のために開かれた場だといっても過言ではないのに、煌月は最終選考に残った娘たちを見ているようで見ていない。
気乗りしていないのか、興味がないのか、それともすでに心を誰かに預けてあるかのような印象を抱いた時、煌月が翠蘭に目を向けた。
目と目が合い、不意打ちを食らった翠蘭はぎくりと体を竦める。素知らぬ顔をしつつも、ぎこちなく視線を伏せた。
(間違いない。本人だわ。どうしよう……いいえ、落ち着くのよ、翠蘭。どうもしなくていいの。だってあの時の私の姿は、私ではなかったんだから)
そこまで考えて、翠蘭は苦い顔となる。先ほど会っているため、無事だとわかっているのに、焦りと共に兄の姿を探す。
わずかに顔をあげて視線を彷徨わせたところで、比較的演壇から近い場所にいる汀州を見つけ、ほっと息を吐いた。
(むしろ、お兄様よくぞご無事で)
かつて自分が兄の姿を借りてしでかしたことは、皇子に不敬を働いたとして罰せられていてもおかしくないものだ。
今現在、汀州は煌月の近いところで宮廷占術師としての職務に当たっているのだが、その兄から苦情は来ていない。
汀州がうまく誤魔化して難を逃れたか、もしくは煌月が気づいていないか、そもそもあの日の出来事を忘れているか。
翠蘭が困惑顔で様々な可能性を思い浮かべていると、大きく銅鑼が鳴らされた。
同時に翠蘭以外の娘たちが演壇を降りていき、代わりに宦官が腰かけを持ってやって来る。
演壇の中央に腰かけを置くと、宦官は皇帝陛下に向かって一礼し、すぐさまその場を離れた。
多くの視線を受けつつ、翠蘭は腰かけの傍らへと静かに移動する。息を吸い込んで表情を引き締め、正面を見つめたところで、試験官の声が響く。
「一番手、李翠蘭」
先ほどよりも丁寧に拱手してから、翠蘭は座面に腰を下ろす。
集中と共に、名前に反応するようにざわめき出した周囲の声音が遠のいていった。
(……さてと)
演壇の陰、品のない笑みを浮かべて翠蘭を見つめる見物人たちの隙間、敵意むき出しの顔で相手を牽制している金家の娘とその取り巻きのすぐ後ろ。
意識を研ぎ澄ませた翠蘭の目が、うごめき出した暗い影を捉えた。
(宮廷占術師への最初の一歩。力いっぱい踏み出させていただきます!)
翠蘭が美麗な笑みで人々の目を奪った次の瞬間、力強い音色が霊力を伴った波となって桂央殿内部に広がっていく。
言葉を失った人々の視線を一身に浴びながら、翠蘭は巧みに弓を操り、音を通して場を清めていく。
皇帝や皇后までも表情に驚きを滲ませる中、ずっとどこかを見つめていた煌月の目が、改めて翠蘭を捉えた。
最後の一音が空気に溶け込むまで、煌月は翠蘭を見つめ続けたのだった。
無事、翠蘭が正妃候補から漏れて三ヶ月が経った。
正妃候補として後宮入りしたのも、静芳の予言通り、金雪玲、高笙鈴、そしてそれぞれと親しい家柄である朱家と張家の娘が選ばれた。
これで心置きなく宮廷占術師への道を進めると心躍らせながら、いつも通りの平穏な日常を過ごしていたのだが、今日、翠蘭の機嫌は悪かった。
「騙されたとしか言いようがないわ!」
父にお使いを頼まれたその道中、翠蘭がしかめっ面でぼやくと、横を歩いている李家の使用人でふたつ年上の明明が苦笑いを浮かべる。
正妃候補選定の試験に挑めば、宮廷占術師になるための試験もすんなり受けられると思っていた。
ちょうど試験申し込みの期日が目前に迫ってきていたので申し出たところ、雲頼に渋い顔をされ、翠蘭は唖然とする。
あげく、静芳から「焦るな。まだその時ではない」とも言われてしまう。
「皇后候補は無事に決まったはずですが?」と翠蘭が反発すると、祖母は含み笑いを返すのみで、それ以上、口を開くことはなかった。
橋に差し掛かり、翠蘭は足を止める。欄干に手を乗せて、真下を緩やかに流れゆく川へと視線を落とした。
明明も立ち止まり、つられるようにして川へと目を向けて数秒後、「ひいっ!」と恐怖で引きつった声を上げる。
川の中でゆらりと蠢いている影が、ぎょろっとした目で翠蘭を見つめていたからだ。
不気味な眼球に明明は後ずさるが、翠蘭は少しも動じることなく、冷めた目つきで見つめ返している。
影が翠蘭に向かって手を伸ばす。ちゃぷんと水音を立てながら、腐敗した手が川の中から出てきて、嫌な臭いが鼻についた。
腐乱した上半身まで露わになりかけた瞬間、翠蘭の背後に霊圧が生じた。すると、それに怯えるように、影は水の奥底へと素早く姿を消す。
翠蘭は肩越しに背後を見上げて、宙に浮かぶ存在に向かってにこりと微笑みかけた。
「さすがね、黒焔。ありがとう」
視線の先にいるのは青みがかった黒髪の男児で、幾人も横を通り過ぎていくというのに、明明以外、その存在に気づいている者はいない。
先ほど川の中から翠蘭に襲い掛かろうとしていたモノは悪鬼で、人々に害をなす。
一方で、悪鬼から翠蘭を守った黒焔は、占術師界隈では幽魂と呼ばれる存在で、一般的に幽魂は理由もなしに人間に牙を向けることはない。
黒焔は、約五年前から翠蘭の傍にいる幽魂で、「薄命の月華」から脱却できたのは彼のおかげである。
そんな彼が翠蘭の肩を突っついたあと、橋を渡った先にある饅頭屋を指さした。すぐに翠蘭は思いをくみ取り、笑顔で頷いた。
「私も食べたいわ。お駄賃ももらったことだし、饅頭を買って帰りましょう」
黒焔が嬉しそうに笑ったため、翠蘭も笑顔になる。そして明明も、そんなふたりのやり取りに微笑みを浮かべている。
明明は、今でこそ李家の使用人として収まっているが、元々は宮廷占術師であるため、黒焔や悪鬼の姿がしっかり見えている。
悪鬼への恐怖心から心が折れてしまい、宮廷占術師としては半年も続かなかったが、静芳や雲頼のおかげで悪鬼が近づかない李家は居心地が良いらしく、使用人としてもうすぐ二年が経つ。
そんな明明は、思い出したかのようにぽんと手を打った。
「静芳様は、あの店の饅頭を好まれていましたし、手土産としてお渡ししたら喜ばれるかもしれませんよ」
「それ、良い手ね! 宮廷占術師の試験を受ける許可をはやくもらうために、なんだってするわ」
「では、お使いを済ませてしまいますか」
翠蘭を真ん中にして三人並んで歩き出す。
橋を渡り終えたところで、店先で蒸されている饅頭の甘い香りが鼻腔を掠めた。
「やあ、翠蘭!」
饅頭に気を取られていた翠蘭だったが、横からかけられた声を耳にし、思わず顔を強張らせた。