皇后候補選定試験2
「まあ二胡を持ってきてくださったのですね。お忙しいお兄様の手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
(十五分で戻らなければ、失格だったのに。余計なことを)
言葉とは裏腹の翠蘭の思いになど汀州はまったく気づかず、妹の横に立っている自分と同じ羽織を着た同僚へと顔を向けた。
「あれ。泰然じゃないか。こんなところで何を……」
言いながら、自然と汀州の視線が、泰然が抱え持っている二胡に移動する。泰然は苦笑いと共に答えた。
「金夫人に頼まれて、選定試験の間、僕が雪玲の補佐をしています」
「そうか。お互い大変だな」
(私は頼んでないわ。むしろ断ったのに、お兄様が勝手に首を突っ込んでいるだけ)
汀州は互いの苦労を労うように泰然に微笑みかけ、そんな兄を翠蘭は物言いたげに見つめる。
そんな中、泰然は惚けた眼差しを李家の兄妹へ向けつつ、素直に気持ちを述べた。
「李家は本当に美形ぞろいですね。宮廷占術師長を務められている御父上の雲頼様を初め、汀州殿ももちろんですが、翠蘭殿もとてもお美しい。薄命の月華と呼ばれるのも納得……あっ、失礼」
薄命の月華。
飛び出したそのひと言に、翠蘭が目を大きく見開いて反応すると、泰然は今のは失言だったと気づいたらしく、ばつが悪そうに視線を揺らした。
汀州が泰然が発したひと言に対して苦笑いを浮かべながら、指摘する。
「雪玲殿が、あなたが来るのを待ち侘びているようです。すぐに二胡を渡しに行った方が良いかもしれない」
部屋の窓際に二胡を手にした娘が数人固まっていて、その中に金雪玲がいた。雪玲はなかなか自分の元にやって来ない泰然を不満たっぷりに睨みつけている。
泰然は雪玲の様子に表情を強張らせた。
「あっ。確かに……翠蘭殿、二胡の演奏楽しみにしております。それでは失礼いたします」
そして、翠蘭に軽く頭を下げた後、身を翻し、慌てた様子で歩き出した。
兄とふたりっきりになったところで、翠蘭がぽつりと呟く。
「薄命の月華。その二つ名、久しぶりに聞いたわ。まだ廃れてなかったのね」
「それね、しぶとく生き残っているよ。逆に、翠蘭が選定試験を受けるってなってから、頻繁に耳にするようになったかな。ようやく表に出てきた翠蘭をみんな注目しているからね」
「それって、ただ単に物珍しいだけでは?」
乾いた笑い声を交えながら翠蘭が言葉を返した時、部屋に試験官が戻ってきた。室内をぐるりと見回したあと、大きな声で発言する。
「これより最終試験が執り行われる桂央殿へ移動する。呼ばれた順に並びなさい」
試験官の求めに応じて選ばれた娘たちが動き出したのを見て、汀州が翠蘭へ二胡を差し出した。
「翠蘭の二胡の音色を聞くのは久しぶりだな。俺も楽しみにしているよ」
二胡を受け取ってしまったら引き返せない気がして、翠蘭がなかなか手を伸ばせずにいると、戸口で女性の泣きわめく声が響いた。
その娘は、不合格を言い渡されたが納得がいかず部屋を出るのを拒否している様子だった。
「せめて煌月様の御前で弾かせてください! お願いします!」と繰り返される言葉を聞いて、翠蘭の胸が罪悪感でちくりと痛む。
(彼女のためにも、選ばれてしまった責任はしっかり果たすべきね)
自分の態度を改めるように表情を引き締めて、汀州から二胡を受け取った。
「お耳汚しにならないように精一杯頑張ります」
翠蘭は軽く頭を下げて、進み始めた娘たちの列の最後尾へと移動し、ゆったりとした足取りで歩き出した。
諦めきれずに喚き散らしている娘の横を通って部屋を出る。
列を乱すことなく通路を進んでいく途中で、肩越しに振り返ると、少しばかり距離を置いて他の不合格だった娘たちが付いてきていることに気づかされる。
先ほどの泣いていた娘と違い、彼女たちは試験に落ちたことなどまったく気にしていないらしく、みんな揃って期待に満ちた顔をしている。
「早く雪玲様の二胡を聴きたいわ」
「私は以前聴いたことがあるけど、思わず聞き惚れてしまったわ」
「李翠蘭も二胡の名手だし。楽しみ」
「私は初めて聴くけど、そうらしいわね。お手並み拝見だわ」
翠蘭は先を歩く娘の後ろ姿へと早々に視線を戻し、持っている自分の二胡を優しく抱きしめる。そして、ため息が零れ落ちそうになるのを必死にこらえた。
(こんなことなら、ちゃんと練習しておけばよかった)
最終試験は試験官だけでなく、皇帝陛下、皇后、三妃、夫となる煌月、両親、宮廷に勤めている者まで含め、大勢の人が見ている前で二胡を弾くこととなる。
もちろん大勢の前で下手な演奏をすれば、二胡を弾いた本人だけでなく、両親も恥をかくこととなる。
そのため、最終候補に選ばれてもいいように、身分の高い家柄の娘たちは幼い頃より二胡の練習に励むことを余儀なくされる。
日々の努力の賜物を発表するのだから見応えもあり、後ろの娘たちのように楽しみにしている者も多い。
翠蘭も例外ではなく、幼い頃から練習してきたうちのひとりだ。
今から六年前、翠蘭がまだ十歳だった時、園遊会で二胡を披露したことがあった。
その際、翠蘭は練習の成果を遺憾なく発揮した。
場に居合わせた聴衆から称賛を受けただけでなく、口伝に話が広がり、想像以上の反響を受けることになる。
しかし、体調が優れないという理由から、人々の前で演奏をするのはそれっきりとなったため、「薄命の月華」同様、「二胡の名手」という言葉も独り歩きしている状態である。
(お父様とお祖母様からしっかり練習しておけと言われていたのに、このままだとあまり練習していないのが、ばれてしまうわ。その上、皇帝陛下をはじめ、たくさんの人々の前で大失敗でもしようものなら、大目玉を食らうわね)
今回、翠蘭は自分が最終選考に残ることはないだろうと踏んで、二胡の練習をさぼってしまっていた。
皇后という地位や結婚に興味がないのも否定しないが、最終試験から逃げ出そうとしていた一番の理由がこれである。
桂央殿に入ったところで、ついてきていた娘たちはいなくなり、選ばれた娘も列を崩すことなく廊下を進んでいく。
竜の姿が彫られた立派な大扉の前にたどり着き、先導していた試験官の足がようやく止まった。
同時に、試験官の元へ素早く歩み寄っていく宦官の姿を視界に捉える。
試験官は宦官と短く言葉を交わした後、「ここで待機するように」と娘たちに告げるて、宦官と共にその場を離れた。
試験官がいなくなったことで、娘たちの列が崩れた。
お喋りをし始める者、二胡の練習をし始める者、ただただ緊張で体を震わせている者。
十人十色の様相を見せる中、翠蘭は娘ふたりが自分をちらちらと見ていることに気づく。
何かと思っていると、ふたりが意地の悪い笑みを浮かべて会話を始めた。
「儚げな美しさだとお兄様は評しておりましたけど、私はそう思えないわ。色白過ぎて、まるで幽鬼みたい」
「病弱でこれまで屋敷から出てこなかったし、てっきり悪鬼に喰われて鬼籍に入ったと思っていましたわ」
見下した発言は翠蘭の耳にしっかり届いている。冷ややかな眼差しを返した時、金雪玲が娘ふたりの後ろから姿を現した。