対決1
日が暮れると居所内を老婆の幽魂が歩き回り始めたため、明明は紅玉を連れて大急ぎで翠蘭の寝室に避難し、繰り返し悲鳴をあげることとなった。
そして、丑の刻を迎えた頃、老婆は散歩を終えたのか姿を消したこともあり、居所内は静まり返っていた。
明明の規則正しい寝息のみが響く中、紅玉はそっと体を起こした。
寝台に背中を丸めて横たわっている翠蘭の穏やかな寝顔を、強張った表情でじっと見つめる。
やや間を置いてから、すっと立ち上がり、足音はもちろん衣擦れの音すら立てずに寝室を出て行った。
気配が遠ざかっていくと、翠蘭はぱちりと目を開けてゆっくり体を起こす。
すると、同じく柱に寄り掛かっている明明も目を開けて、小声で翠蘭に話しかけた。
「捕まえますか?」
「まさか。術式の完成まであと少しのようですし、温かい目で見届けましょう」
楽しそうに口元を綻ばせた翠蘭の言葉を聞いて、明明は今にでも泣き出しそうな顔となる。
翠蘭は寝台から降りて、香炉が置かれている卓へ真っすぐ進んでいく。香炉の横にある小さな手鏡を掴み取ると、笑顔で踵を返した。
「さあ、行きましょう」
明明は強張った声で「わかりました」と返事をすると、表情を引き締めてすっくと立ち上がる。
翠蘭と明明は、先ほどの紅玉と同じように足音を立てずに寝所を出た。
紅玉の姿は、翠蘭の居所内の庭の奥にあった。
月明かりの下、暗い表情の紅玉の目の前には女官が立っている。
その女官の頭と口元は薄い布で覆われていて、眼光の鋭い目だけが露わになっている状態だ。
紅玉は女官から蓋つきの小さな壺を受け取り、自分の足元へと苦しそうに視線を落とした。
そこには小さな壺が入るくらいの穴が掘られてあった。
正確には、紅玉が前もってこっそり掘っておいた穴である。
「……本当にやるのですか?」
短い問いかけに続いて、紅玉は堰を切ったように女官に自分の思いを訴え始める。
「翠蘭様は、凛風様とは明らかに違います。きっと、あなた方の思い通りに、ことは運ばないと思います。下手したら返り討ちに……」
「黙りなさい」
ぴしゃりと女官に遮られ、紅玉の言葉が途切れた。しばしの静寂を挟み、女官が再び話し始める。
「体が弱く、占術に長けていなかろうが、李家の人間。人並み以上の霊力を持っているのはこちらも承知済み。お前に言われなくても対策は抜かりない。李翠蘭を、皇后はもちろん、四妃にさせてはいけない。李家が宮廷内でこれ以上の力を持つことは好ましくない」
言い終えると、女官はさっさとやれとばかりに、顎をしゃくった。
紅玉は自分の足元にある穴を見下ろすものの、苦し気な表情は崩れず、次の行動にもなかなか移れない。
「今更、なぜ躊躇うか。あの時と同じように、教えた通りにやればいい。朱家の娘に呪いをかけたのは誰でもない、お前だ」
女官は強い口調で責め立てるが、それでも動けないでいる紅玉に痺れを切らし、苛立ちのこもった声で言い放った。
「できぬなら、そのまま報告する。そうすれば、お前は収監され、病気の母は助からず、妹は路頭に迷うな」
紅玉は奥歯をぐっと噛みしめて、勢いよくその場にしゃがみ込む。穴に小さな壺を入れて、その上に手荒に土をかぶせていく。
必死にも見える紅玉の様子を、女官は見下すような目で見つめていた。
完全に埋め終えたところで、すかさず女官が御札を差し出す。紅玉はそれを掴み取ると、小さな壺が埋まっている場所に御札を並べ置いた。
紅玉が手を合わせて目をつぶり、ぶつぶつと呪言を唱え始めた。
女官も紅玉に合わせて唱え出すと、月に雲がかかり、しっとりとした闇夜の重みが増していく。
しばらく唱えたところで、次々と御札が燃え始め、火の赤が線を描いて走り出す。
火力を増して炎となった線が居所の庭をぐるりと一周して戻ってきた。まばゆい赤が跡形もなく消え失せると同時に、紅玉たちの呪言も終わる。
術式が完成した瞬間だった。
女官が薄布の下でにやりと笑みを浮かべた時、ぱちぱちぱちと拍手の音が響き渡った。
「紅玉、やりますわね」
紅玉と女官が振り返った先に、翠蘭と明明がいる。
翠蘭は一気に絶望の色に染まっていった紅玉の顔を見つめながら、にこやかに手を叩き続け、明明は完全に敵意を露わにした眼差しをふたりに向けている。
「い、いつの間に」
「あらやだ。ずっとここから見学させていただいてましてよ」
後ずさりした女官に視線を移動した途端、翠蘭はぴたりと拍手を止めた。
そして、侮蔑のこもった目で女官を見つめながら、真っすぐふたりの元へ歩き出した。
「紅玉を使うなんて姑息な真似などせず、あなたが術式を完成させればいいのに。臆病者が」
翠蘭に睨みつけられ、女官は怯んだよう大きく後ずさりする。
しかし、翠蘭たちの後ろに迫ってきている怪異に気づくと、一転して勝ち誇ったような笑い声を上げた。
「悲鳴をあげて逃げ惑うがいい。お得意でしょう?」
小馬鹿にしたように吐き捨てると女官は身を翻し、軽々と塀を乗り越えて翠蘭たちの目の前から姿を消した。
「あなたは逃げなくていいの?」
翠蘭はその場に座り込んだままの紅玉の真横で足を止めて話しかけた。
「いいえ。逃げません」
紅玉は冷ややかな翠蘭の面持ちを見上げる。小刻みに震え、涙を流しながらもはっきりと答えた。
「翠蘭様、申し訳ございませんでした。あなた様はどうか今すぐお逃げください。あれは、私が責任を持って地獄に連れて行きます」
翠蘭は、今さっき自分が立っていた方へと視線を移動させる。
程なくして、がさがさと音を立てながら近づいてくる、老婆の霊を視界に捉えた。
同時に、明明が引きつった声を上げて、翠蘭のそばへ駆け寄ってくる。
「あらあら、急に静かになったと思ったら取り込まれてしまっていたのですね」
翠蘭は老婆に対して呆れたように呟いた。
目の前に現れた老婆はついさっきの姿とは違う。上半身はそのままだが、下半身は大きな蜘蛛に変わってしまっていたのだ。
翠蘭はこの状況に少しも動じることなく、再び紅玉へ視線を落とした。
「先ほどの提案ですけど、お断りします。あれは私の獲物です。横取りするなら怒りましてよ。それに、優秀な占術師にあの世に行ってもらっても困ります」
翠蘭は身を屈めると、持っていた小さな手鏡を紅玉に差し出した。
「……す、翠蘭様?」
紅玉が手を伸ばして戸惑い顔で手鏡を受け取ると、翠蘭は姿勢を正し、大蜘蛛へと体を向けた。
「紅玉、私は今から呪いを破ります。破られた呪いは、まずは術者であるあなたに還ります。決して目をそらさず、鏡をしっかりと持ち、呪いを弾き返し続けなさい!」
紅玉は凛々しさすら感じられる翠蘭を見つめて、涙をぼろぼろとこぼす。
しかし、すぐに「はい!」と声を震わせて返事をすると、手の甲で涙をぬぐった後、両手で手鏡を抱きしめた。
翠蘭が一歩前進する。すかさず明明も、真言を唱えながら翠蘭の後方支援につく。
そこで、紅玉はもうひとつ、大きな霊力を内包した気配が翠蘭の傍に降りてきたのを感じ取り、慌てて視線を翠蘭へ移動させた。
「……なっ……なに?」
少年の姿をしたそれに対し、紅玉は恐れと怯えで固まっていると、翠蘭がぽつりと釘を刺した。
「黒焔、あなたも手出し不要です」
まったく臆することなく黒焔に話しかけている翠蘭に紅玉が唖然とする中、翠蘭がまた一歩前に出る。
「いらっしゃい」
楽しげでもあり、艶やかでもある翠蘭の誘いの言葉がその場に響いた。




