10 誘涎香血(5)
翌朝、一睡もできなかったニエザは、しょぼついた目で最上階へ上がった。その時、学問所へ行く前のカリウラが、朝の挨拶をしようと上がっていくのと一緒になった。
「おはようございます。ニエザ様」と、カリウラから挨拶されて
「おはよう、カリウラ、昨日の夜はよく眠れたかい?」と、思わず尋ねてしまった。
カリウラは、凶悪そうな面を少し緩め
「雷の音が気になったけれど、わりとよく眠れたぜ」と、無邪気に答えた。
ニエザは、内心、凡人は何も感じないから、本当に幸せだよなあとぼやいた。
螺旋階段を上がり、最上階の部屋へ入ると、魔法陣の中で、リーユエンが大盥の湯につかって座浴中だった。ニエザは、その姿にのけぞりそうになった。心拍数が一気に上がり、息が荒くなったのを自覚した。
(まずい、まずい、まずい、落ち着け、冷静になれ)と、必死に自分へ言い聞かせた。リーユエンの上半身には、背中側と胸側に神聖紋が入り、紋の上下には玄武の甲羅から蛇身が伸びて、互いにねじれ合いながら取り囲んでいた。玄武の紋は、座主が守護者となったことの証だった。
横ではカリウラが棒立ちになって固まった。この光景は、凡人には刺激が強すぎたかもしれないと思っていたら、次の瞬間、カリウラは、そのままリーユエンのいる魔法陣まで近づき
「リーユエン、紋が綺麗に入ってるじゃないか。それに、お前、最近背が伸びたんじゃないか」と、普通に話しかけたのだ。
ニエザには、衝撃だった。こんなに怪しいくらい匂い立つような色香を纏い、危うい雰囲気なのに、カリウラは何も感じないのか。いくら、凡人だからって鈍感すぎやしないかと思ったのだ。
カリウラの方を向いたリーユエンは、薄っすら微笑み
「背が伸びたかな?」と、問い返した。
「ああ、伸びたと思うぜ。今日は、帳簿の付け方を教えてもらうんだ。また、夕方に会おうな。行ってくるぜ」と、カリウラはリーユエンへ手を振ると、踵を返し、螺旋階段を降りて行った。
もちろんカリウラだって、リーユエンのただならない変化には気がついていた。けれど、わざと気が付かないふりをしたのだ。獣が反応しない以上、リーユエンは安全だと信じていたからだ。
ニエザは黙ったまま、台所へ入り、食事の支度を始めた。師父の姿が見当たらないのが気になった。気配もないのだ。食器をもって、部屋の中央にある大テーブルへ配膳していると、広窓の方に突然気配がし、視線を向けると、座主が姿を現した。ニエザは慌てて跪拝叩頭しようとしたら、座主が腕を振って止めた。
「作業を続けよ」そう言うと、魔法陣へ入り、リーユエンに近寄り、声をかけた。
「カリウラには、そなた、笑いかけるのだな」
リーユエンは紫色の目を見開いて、座主を見上げた。
「わしには、素直に笑えぬか・・・残念だ」と、言いながら、座主は彼の右側の頬を撫でた。リーユエンは微かに震え、視線を下げると
「彼は凡人です。猊下は比類なき御身でいらっしゃれば、比べようなど・・・」
と、囁いた。座主は、縦長の眸で、顔を覗き込み
「わしには、本心が見せられぬのか?」と、静かに尋ねた。
リーユエンは、右目から涙を流し、座主を見上げた。
「猊下・・・」
座主は、風呂桶のそばにあったタオルでリーユエンを包み込み、両手で軽々と引き上げた。そして、しばらく口付けを交わした。リーユエンは脱力して、座主へぐったりともたれかかった。
「わしは長い時間を生きてきたのだ。そなたの心が少々揺らいだところで、不愉快に思ったりはしない。わしが庇護を決めたのだから、わしの前では本心を曝け出すのだ。隠し事は許さぬ」
「御意」
リーユエンは小声で答えた。
しばらくすると、太師が戻ってきた。ニエザは、朝食の配膳を始めた。魔法陣の中で、リーユエンに朝食を与えたのは、座主だった。




