10 誘涎香血(4)
胸側の神聖紋は、背中側の半分の日数で作業が終わった。座主は、その間、リーユエンに付き添い、様々なことを耳元で囁き続け、時に彼へ質問した。気まぐれに、彼が読み始めた魔導書について尋ねたこともあった。それに対するリーユエンの答えは、黙々と日課の仕事をしつつ耳だけ側立てているニエザが、内心で驚くほど正確だった。
「では、金剛壁の半球体を顕現し、防御となすには、何が必要だ」
「右回りにスンコルの真言を唱え、生気を流し、凝集させることが必要」
「ふーむ、魔導理論の方は順調だな。あとは、実践か・・・太師、リーユエンはいきなり法術修行から始めさせてはどうだ?」
太師は、針を起き、血止め薬を振りかけながら、座主を見上げ
「そのつもりです」と、答えた。
座主は、血止め薬を上からのぞき込み
「ああ、せっかくの血が不味い薬の中へ隠れてしまう。もったいない」と惜しんだ。
太師は、リーユエンの額に浮いた汗を白布で拭き取りながら、
「明日で、全部入れ終わる。あと一日だ」と話しかけた。リーユエンはうなずき、何か言いかけたが、そのまま意識を失った。
座主が身じろぎし、リーユエンを床へ寝かしつけた。そして、太師へ
「今夜は確か、獣が生気を食べる頃合いのはずであろう?」と尋ねた。
太師は、刺青の器具を片付けながら、
「左様でございます」と答えた。その横で座主が、長い爪には紅い宝玉と黄金で細工された被せ物を嵌め、薄い緑色の細かな鱗のある手で、リーユエンの腕を取り、脈診していた。
「ちと、弱りすぎているぞ。食事があまり取れていないようだな」
「出血と、熱が続いております」
「今晩、このまま生気を取られると、心臓が動きを止めるかもしれない」
太師は驚き、厳しい表情のまま座主を振り返った。
座主は錦織の燕尾帽子の下で、縦長の眸が目立つ両目を細め、薄っすら笑った。
「わしは嘘はつかんぞ。わしの唾液の麻酔作用で作業を早めたが、ダメージがあることに変わりはないのだからな。止血が常人より遅いのだから、生気が減るのは当然だ」
「しかし、獣を飢えさせるわけには・・・」
座主は、リーユエンの髪を一房持ち上げながら、
「わしが、今晩来てやろう」と言った。
太師は珍しくも動揺した。
「猊下、それは、まだ・・・」
座主は、太師を冷笑した。
「そなた、未練があるのだな。しかし、誘涎香血の持ち主では、そなたでは無理だぞ。魔導士風情では、発狂するか、魔へ落ちてしまう。いっそ、そなたが凡人であれば、事は簡単であったのになあ」
「・・・・・・」
「そなたは、あくまで師父として接することだ」
「獣を止める気ですか?」
「いいや、そんな意地悪な事はせんよ。飢える事の辛さは若い頃散々味わいつくしたからな。同胞にそのような仕打ちはしない。体がまだ未熟なのが残念だが、一度経絡をすべて開き、わしの法力と練り上げて、それを獣へ食わせれば、満足するだろう」
ニエザはもう全速力で部屋から逃げ出しくてたまらなかった。座主の秘め事を知りすぎたために本当に滅却されるかもしれないと、心の底から恐れ慄いていた。
「では、今晩、この部屋はリーユエン以外無人にー」と、言いかけた太師を、座主が遮った。
「いや、そなたは残れ。師父なのだから、弟子に関わる事柄は知っておくべきであろう」
その夜は、猛吹雪で遠雷が何度も轟いた。最上階の下、ニエザは寝床の中、布団の中へ潜り込み、ブルブルと震えていた。遠雷も猛吹雪も、慣れているので、本来なら熟睡できたはずなのに、上の階から漏れ落ちてくる気配が恐ろしく、またひどく惹きつけられて眠れなかったのだ。
(うわぁ、ダメだ。全然目が冴えて眠れないよ。師父は、こんな気配の間近にいらっしゃるなんて、本当に大変だよ)
ニエザは、布団の中から天井を見上げた。弟弟子は、座主に喰われてしまうのだろうか、それとも、明日は、また無事に姿を見る事ができるのだろうか、と心配でならなかったが、自分にはどうすることもできない。ただ、夜が更けて、朝が来るのを待つしかなかった。




