10 誘涎香血(2)
リーユエンは、非力ではあったけれど、非常に忍耐強かった。神聖紋を刻まれても泣き言一つ言わず、ニエザも前に包丁で指先を切ったときに使用して、どれだけ沁みるかよく知っている、あの血止め薬を振りかけられても、うめき声もあげず、ただ顔を顰めただけだった。何日も魔法陣の中に閉じ込められて、多分ニエザなら途中でおかしくなって、暴れ回ったかもしれないが、言いつけ通りただ黙々と魔法書を読み続けていた。
初めのうちは、魔導士になれるのか、その資質を危ぶんでいたニエザも、リーユエンは、太師が見込んだ通り優秀な魔導士になるに違いないと思うようになった。
一方、リーユエンと一緒に来たカリウラは、寺院の学問所へ、早朝から毎日真面目に通い、帰りはいつも夕方だった。彼が、午前中の、あの血でむせ返るような作業を目にしなかったのは、幸いだった。ただ、帰ってくると、必ず魔法陣の側まで行き、リーユエンには声をかけていた。ニエザはその様子を見ながら、カリウラはあの血の匂いに何も感じないのだと気がつき、なるほど魔導士には向いていないと太師が断じた訳だと納得した。
半月後、胸側の作業が始まった。最初の数日、作業は背中側と同じように進んだ。ニエザは魔法陣の外側で、今日も昼前に作業を終えるだろうから、そろそろ昼食とお茶の用意をしようとか、ぼんやり考えていた。
「あぁぁっ」
珍しくリーユエンが声を上げた。はっとして視線を向けると、リーユエンの体が震え、胸元から激しく出血するのが見えた。太師が手を止め、血止め薬を振りかけながら、側から白布で血を拭っていたが、大量の出血で、たちまち床へ血が広がった。太師が立ち上がり
「いかんっ、陣が消えてしまう」と、呪禁を唱え、陣を保とうとした。陣全体が激しく明滅し、今にも崩壊しそうになった。
「バーンッ」
突然広窓の鎧戸が吹き飛び、突風が吹き込んだ。と同時に、ニエザは凄まじい法力の圧力を感じ、床へ這いつくばった。
魔法陣は崩壊を免れた。魔法陣の前には、燕尾頭巾を被った僧形の、大きな人影があった。
「太師よ。しばらく籠もり切って出てこないと噂を聞いたが、随分おもしろい玩具を手に入れたようだな」
深い洞窟に響くような声に、ニエザは必死で跪拝叩頭した。
「猊下」
太師も、いきなり現れた玄武国の元首に、跪拝した。
「拝礼はせずともよい。私的な訪問だ」と言いながら、座主は魔法陣の中へ入っていった。すると、リーユエンの体から黒い靄が現れ、紅目の獣の姿となって、座主の前に立ちはだかった。
「おまえは何者だ。我の主に害なす者は許さない」と言い、低い唸り声をあげて威嚇した。しかし座主は腕を軽く払い、獣を吹き飛ばし、
「フフッ、おまえ如きの力では、わしを追い払ったりはできぬぞ」と言った。
呆然と立ち尽くす太師の側も通り抜け、座主はリーユエンの側に跪き、それから彼を抱き上げて立ち上がった。
「誘唾香血か、久しぶりにこの芳香を嗅いだな。一千年ぶりかもしれぬ」
座主は、黒い頭頭巾の下で、淡い緑色の、縦長の眸をうっとり細めると笑った。
「この血をご存知なのですか?」
「ああ、もちろんだ。この血を飲まなければ、今の私は存在すらしなかっただろう」
座主は、当たり前のように言ってのけ、緑色の長い舌先を伸ばして、血を舐めとった。そして、
「太師、血管を傷つけているぞ。その血止め薬では止められぬ。わしが法力を入れるから、早く刺してしまえ」と言った。
その日、座主はリーユエンを自分に寄りかからせて、太師に刺青を入れさせた。それが終わると、座主はリーユエンを横たえて立ち上がり、太師へ
「おまえの考えは理解できるが、やり方が乱暴すぎる。背中側より、胸側の方が心臓も近く危険なのだ」と、注意した。
「考えがいたりませんでした」と、頭を下げる太師へ、座主は
「わしが明日からしばらく面倒を見てやるから、その間に早く済ましてしまえ」と言った。




