1 飛魄がないけれど、飛べますか?(4)
カリウラは、老師へ向き直り、
「飛魄なしで、本当に飛べるようになるのか」と、大真面目に問い質した。
フードの端からのぞく、老師の口元が緩く弧を描き、笑みとなった。
「カリウラ、おまえや私が転身するのに、魄の有無なんか問題となったことがあったか?」
逆に問い返されたカリウラは、太い眉尻を八の字に下げ、腕組みして天を仰いだ。
「うーん、そんな事気にしたこともなかった」
「転身に魄の有無が関係するとは思えない。明日、崖から突き落としてみれば、はっきりするだろう」
老師は、世間話のようにさらりと言った。
「なるほど、崖から突き落とす・・・ゲッ、真面ですか、それ?」
カリウラは驚いて、椅子から腰を浮かした。
「転身できないというのが、ただの思い込みなら、それくらいすればできるようになるだろう」と、老師は淡々と話した。
カリウラは、明日はユニカと老師から、目を離さないようにしようと思った。皆が老師と呼ぶリーユエンと、カリウラは長い付き合いだが、彼の果断ぶりには、今だに驚かされる。
「まあ、飛べるようになったら、紐付きでない空中監視人が手に入るのだから、雇ったからといって損にはならない。最悪飛べなくても雑用係で使えるだろう」
リーユエンの言葉に、カリウラは、はっと気づいた。
「なるほど、紐付きでないってのは、いいですよね」
長距離の隊商を組む時、天候や進路上の安全確認で、空中監視人が必要だった。有翼の一族の中から雇うのだが、大抵、彼らが空中から見た情報は、彼らの出身一族も情報共有するようになる。そのため、ライバル関係にある隊商へ、秘密の通商経路が漏れてしまったり、商品の仕入れ情報が漏れることもある。有翼の者たちは、隊商の機密情報だろうが、お構いなしに、平気で売り渡して大儲けするのだ。だが、話を聞いた限りでは、ユニカは、黄金鷲の一族から絶縁されたようだから、彼が空中監視できるようになれば、有翼の一族へ情報が漏れることはないはずだ。さすがはリーユエン、良い所へ目をつけたなとカリウラは思った。
翌日、ユニカは、朝から老師に呼び出され、平原に点在する岩山のひとつに登るのにお供をさせられた。朝日が昇り始めた頃で、辺りの青草には朝露が光っていた。
老師は無言のままユニカを連れて、岩山の頂上へ登った。一番高い峰に二人っきりで立ったとき、突然、老師がユニカへ話しかけた。
「ユニカ、風の流れが分かるか?」
ユニカは、老師を見上げた。今日も老師はフードを被ったままで、顔は影になって見えにくかった。彼がどういうつもりで、風の流れの事を自分に聞くのかが分からなかった。
「よく、分かりません」
老師は、ユニカの横に立つと、遥か百丈下にある地面を指差した。(※ 一丈:3メートル設定)
「太陽の光に、地面が温まってくると、上方向へ向かう風が発生する。その風に乗ることができれば、空を飛ぶことができる」
老師の説明に、ユニカは驚いた。
「空を飛ぶには、飛魄が必要だと言われました」
「飛魄があれば、飛びやすいだろうが、それは絶対必要な条件ではない。むしろ、風を捉える方が重要だろう」
老師は淡々と話した。太陽は高度を増し、あたりは眩いほどの日の光に包まれ、陽炎が立ち、大気は揺らいでいた。老師と一緒に崖から下をのぞくユニカの顔を、下から吹きあげる風が直撃した。
ふいに一際強い風が吹き上がり、老師のフードが後ろへ跳ね上がった。ユニカは老師の顔を初めて見た。右側は、非常に端正な若い男の顔で、紫色の目が、射抜くように鋭くユニカを捉えた。けれど、左側は、黒鋼のマスクで覆われ、それが蛇の鱗のように見えた。ユニカは、老師の顔に、畏怖する気持ちと、禍々しさに忌避したい気持ちが同時に湧き上がってきて混乱した。
老師は、そのままユニカへ歩み寄ると、ふっと笑みを浮かべ
「風も吹きごろになってきた。そろそろ落ちてもらおうか」と言うなり、右手でユニカの肩を押した。よろめいたユニカは、気がつくと真っ逆さまに墜落していた。