7 裸牙ネズミの女王(2)
「薄汚いネズミ野郎を、おまえに触させたりなんかしない」と、魔獣が、リーユエンへ話しかけた。けれど、昨晩、生気をごっそり持っていかれた彼は、魔獣を相手にしたくなかったので、黙りこんでいた。
異界での出来事は、思い出して気持ちのいいものではなかった。異界に墜落する途中劫火に焼かれ、火傷を負った。地面に激突し、身動きできなくなった。そのまま、異形の生き物に引き裂かれて食い殺されると、地面に転がったまま諦めていたところへ現れたのが、魔獣だった。魔獣は、そこに集まっていた異形の生き物の中でも、その身に纏う暗黒の闇が一際濃く重々しかった。現れるや、周囲に雷電を飛ばして威嚇し、無数の生き物をそこから追い払った。それでも退かないものへは、果敢に戦いを挑んだ。魔獣と、他の異形の生き物の戦いは、長時間に及んだが、衰弱の激しいリーユエンは、途中で意識を失った。気がつくと、魔獣が、リーユエンを見下ろしていた。彼の霞んだ視界には、魔獣の血のように赤い両眼しか見えなかった。
「俺と契約しろ。おまえを守ってやる」
魔獣が言ったのは、ただそれだけだった。リーユエンは、契約しても、しなくても、自分は食い殺されるに違いないと思っていたが、一瞬奇妙な幻視が見えたので、契約することにした。
「契約はどうしたらいい?」
「俺に生気を寄越せ、それから『私に従え』と言え」
リーユエンは言われた通りにした。契約が成立した後、魔獣から
「何が望みだ?」と、問われ
「異界を脱出して、下界へ戻りたい」と、答えた。そして、魔獣によって、東荒の森の中に連れてこられ、カリウラと出会ったのだ。
「どうして黙ってる?怒っているのか・・・」
魔獣は、彼の機嫌が気になるようだった。リーユエンはため息をつき
「あれ以上食われたら、心臓が止まるところだった。食べる量は加減してほしい」
と、囁いた。
「すまなかった。おまえを、ヨークの奴がかまうから、ちょっと腹が立ったんだ」と、魔獣は素直に謝った。
リーユエンは不意に
「おまえは、名前が欲しいのか?」と、魔獣へ尋ねた。それを聞いた魔獣の気配が一瞬揺らいだ。
「そりゃ、名前で呼んでくれが方が動きやすいだろ?」
「名をつけると、おまえを一層強く私へ縛り付けることになるのに、いいのか?」
魔獣が束縛を嫌うだろうと思っていたリーユエンは、不思議に思い、確認した。それに対して魔獣は少し気まずげに
「おまえには、いつだっていいように振り回されているんだ。もうそろそろ、名前があったっていいと思うぞ」と、言った。
「分かった。何か考えておくよ。適当に名前をつけるわけにはいかないから、しばらく考えさせてくれ」
「そうか、つけてくれるんだな。楽しみに待ってる」
魔獣は上機嫌になった。
カリウラとリーユエンの相談の結果、隊商は、そのまま砂漠地帯を進むこととなった。ただし、砂漠地帯は、日中は危険なほどの高温となるため、日没後数時間の移動となる。夜目の効くものが先頭と後方を守りながらの行進となった。
カリウラとハオズィ、ミンズィは先頭、リーユエン、デミトリー、ヨークは後方についた。晃晃と輝く月明かりの下、砂丘を登っては降り、隊商は西へ進み続けた。
リーユエンが報告したとおり、砂漠は深閑として、生き物の気配がなかった。カリウラが懸念した巨大砂虫のすり鉢状の巣穴は、どこにも見当たらなかった。
「あれ、誰か倒れてる?」
突然、ミンズィが前方を指差した。砂丘の斜面の途中、体の下半分はほとんど砂に埋もれ、長い深緑色の髪が月明かりに光ってみえた。
「女?こんなところでひとりでか・・・」
カリウラの眉間に深い縦皺が寄り、たちまち凶悪な顔つきへと変わった。真夜中の砂漠の中で、女がたったひとりで倒れているなんて、長年の経験から、厄介事が起きる予感がした。




