4 沼地を抜けて(2)
騎獣の上から見下ろすリーユエンを、何が起こったか分からないままデミトリーは呆然と見上げ、まだ掴んだままの手が激しく動きだしたので、ギョッとして自分の手から外そうと振り回した。沼から引き抜かれた手は、たちまちヘドロと化して溶け崩れ、振り回したためにあたりにヘドロが飛び散った。デミトリーは、下半身は沼に浸かってしまいヘドロだらけで、輝く黄金の巻毛までヘドロが飛んで斑となった。
ヨークは、彼を助け起こそうと近づき、
「大丈夫ですか」と、声をかけながら手を伸ばした。けれどその手を振り払い、デミトリーは自力で立ち上がると、リーユエンへ詰め寄り
「俺がこうなると分かっていて、自分で試してみろと言ったのかっ」と叫んだ。
リーユエンは、騎獣に乗ったまま、フードを後ろへ払いのけ、面当てで半分隠れた顔をさらすと、デミトリーを見下ろしたまま
「ああ、分かっていた」と言った。
デミトリーは今にも金獅子へ転身しそうなくらい怒りに体を震わせた。彼へ頓着することなくリーユエンは続けて
「昨日、あの街で一口でも飲み食いしていたら、あなただって、恐らく、先ほどヘドロへ変わった手と同じようなことになっていただろう。ヘドロに呑み込まれた者たちには気の毒だが、ここが瘴気が噴き出る沼沢地帯であることは、以前から知られていたことだ。用心するのが当然だ」と、淡々と話した。
「・・・・用心しないのが、悪いのか」
デミトリーには、まだ得心できないふうだった。
「西荒に到る行程は、人外のものが跳梁跋扈する土地を通る。一瞬の油断が命とりになる。自分が見ているものをそのまま真実だと受け入れてはいけない。すべて、疑ってかからないと、彼らのような末路を辿ることになる」
「だからって、全部見捨てるのか、誰かひとりくらい生きているかもしれないのにっ」
デミトリーの訴えに、リーユエンはひっそりため息をつき、
「あなたは信じないだろうが、私には、この沼地に沈んだ者の叫びはずっと聞こえている。今のところ、生き延びた者の声は聞こえない」と、応えた。
「おまえの言うことなんか、信じるものかっ。俺は、生きている奴を探し出して、助けてやる」
デミトリーは意地を張り踵を返すと、また、沼地へ近づこうとした。しかし、ヨークが、「殿下、これ以上はもうやめてください。ご覧なさい、手が消えていく」と言い、指差す先、無数に蠢いていた手が次々に消えていくのが見えた。
リーユエンは、頭巾を被り直すと、騎獣を走らせ行ってしまった。
しばらく騎獣を走らせ、前方に総隊長を見つけたリーユエンは近づいた。
「どうだった?」と尋ねるリーユエンへ、カリウラは
「オマが面倒みてくれて、まあまあ、落ち着いていたよ」と返事をした。それから、カリウラは「後ろで何をしてたんだ?」と、尋ねた。するとリーユエンは、肩をすくめ「若獅子くんの教育だよ」と言った。
「それはお疲れさま。少しはお利口になったのかい?」
「ヨークがついているから、大丈夫だろう。まだ、生存者がいるだろうって、信じているようだ」
「いるのか?」
カリウラの問いに、リーユエンは首を振り
「もう、声も途絶えた。全部、ヘドロになったよ」と、言った。
「一体、どことどこの隊商が餌食になったんだろうな?こんな事が続くと、孤児院や救護院なんかいくつあったって足りやしないぜ」
「まったくその通りだ」
リーユエンもカリウラも、助けられる者がいたら助けてやりたいのだが、今回は誰もいなかったのだ。被害の大きさには、無力感しかなかった。デミトリーに批判されようが、自身の隊商を危険から守ることで精一杯なのだ。
その時、強い風が吹き抜けた。瘴気は風とともに吹き払われ、前方には柱状節理が垂直に伸びる断崖絶壁が現れた。
「ここで休憩して、午後からは巨人の壁を攻略だな」と、カリウラが言い、リーユエンも頷いた。




