4 沼地を抜けて(1)
翌日、総隊長カリウラ率いる隊商は、宿営地を撤収し出発した。夜明けと同時に、乾燥し切った石塊と根なし草しか見当たらない荒野を移動し続け、昼前には沼沢地へさしかかった。昨日、街があったあたりは、一面黒い水面の沼地となり、そこから瘴気が風に乗り靄となって広がっていた。
カリウラは、リーユエンの騎獣へ、自分の乗る騎獣を近づけ、
「ここが昨日街のあった場所で間違いないよな」と、話しかけた。リーユエンはうなずき、数十丈先を指差した。指差す場所を見たカリウラは、思わず
「うわっ」と、声を上げた。沼の中から、人間の手だけがいくつも飛び出して、手招きするかのように揺れていたのだ。
「昨日、街へ入り込んだ隊商の者たちだろう」
「どうする?助けるか」
カリウラへ、リーユエンは首を振り
「ヘドロと同化しつつある者は、助けようがない」と、答えた。
「誰か、無事な奴はいないかな」と、言いながらカリウラは辺りを見回した。
リーユエンの耳には、助けを求める何百人もの声が、先ほどからずっと絶え間なく聞き取れていた。
「助けてくれ・・・ヘドロが入ってくる」
「苦しい・・・ここから出してくれ」
ここへ来てからずっと、その声は聞こえ通しだった。それに、彼らの最後は、幻視となって、脳裏に鮮明に現れた。今現在目や耳から入ってくる情報と、その幻聴、幻視が重なり、気分が悪かった。目や耳を塞いで消え失せるものではないので、ただ耐えるしかない。
けれど、その声も幻視も、遺体がヘドロと同化してしまえば、やがて消えてしまう。数百年にわたり存在し続ける沼は瘴気を放ち、生き物を飲み込み、ついに人まで飲み込む人食い沼と化していた。人外の妖まで瘴気の力で生み出し、ついには街まで幻出させ、巨大な罠をつくっていくつもの隊商を呑み込んでしまったのだ。
「ユニカは?」と、リーユエンに尋ねられ、カリウラは
「呼んでこようか?」と、尋ね返した。
「いや、あの子もこの光景を見たのか」と、リーユエンが低い声で言うと、カリウラは、ハッとして「様子を見てくる」と、騎獣を早駆けさせた。
リーユエンは騎獣を並足で進めた。今度は後方から、デミトリーとヨークがやって来た。デミトリーは、フードを目深に被り表情のうかがえない彼へ軽蔑しきった眼差しを向け、沼地のあちらこちらで飛び出し、ゆらゆらと揺れる手を指差し「助けないのか」と尋ねた。それに対してリーユエンは
「ご自分で試されてはいかが?」と、冷淡に言った。
デミトリーはむっとした表情となり、騎獣を掛け声とともに疾走させ、沼地へ接近した。ヨークは、止めようと騎獣を方向転換させようとしかけたが、リーユエンが進路へ割り込み、
「彼自身にやらせてみればいい。瘴気の出る沼が、実際にどのようなものかを知る良い機会だ」と話しかけた。
ヨークは騎獣を制止し、「しかし、沼に引きずり込まれでもしたら・・・」と懸念を口にすると、リーユエンはフードの下からのぞく口元に薄い笑みを浮かべ、「その前に助ければいい」と、答えた。
人の手が揺れる沼地へ近づいたデミトリーは、騎獣から降り、不安定に揺れる地面へ降り立つと、できるだけ堅い地面を選びながら、揺れる手へ近寄った。そして
「今、助けてやるからな」と声をかけながら、その中の手をひとつ、自身の手で握りしめた。その瞬間、手がデミトリーの手を怪力で締め上げ、沼へ引きずり込もうとした。デミトリーは、力の限り必死で抵抗したが、足元が柔らかく踏ん張ることができず、ズブズブと沼へ引き摺り込まれた。
「いかん、殿下、今行きます」
ヨークが騎獣を走らそうとしかけた横を、何か黒い物体がデミトリーめがけて猛スピードで飛び出した。
デミトリーの胴体へ、黒い鞭が巻きつき、一気に沼から引き上げ、たちまちヨークの前へデミトリーを連れ戻した。驚いたヨークが振り返ると、リーユエンの左腕の甲当てが変形し、長い鞭となって伸びていた。




