3 幻水楼の歌姫(6)
「まだヘドロの臭いが鼻について・・・」と、リーユエンは、呻くようにささやき、よろよろと立ち上がった。カリウラは、袂から血止めの薬を取り出し、彼の傷ついた手のひらに振りかけながら、
「デミトリーの馬鹿の言うことなんか、気にするな。魔獣を引き寄せるのはおまえの血の力だ。その血を持つ者は、少々生気をもっていかれようが、人外のものに堕ちたりはしない」と、慰めた。リーユエンは血止めの粉が染みるので顔をゆがめ
「ああ、気にはしないよ。ただ、宿営地で騒がれたら面倒だな」と言った。
カリウラは、「どうする?殺っちまうのか」と、物騒なことを尋ねた。
リーユエンは、「いや、影護衛つきの金杖国の王位継承者を殺るなんて、あり得ないね。適当に脅しつけて黙らすしかないだろう」と、言うと「とりあえず、宿営地へ戻ろう」と、またカリウラに転身してもらい、そのまま騎乗して戻った。
宿営地に戻ると、リーユエンは天幕に入ってしまい、夕食の時も出てこなかった。赤天幕をしきる賄い担当のオマは、また、カリウラを呼びつけ、リーユエンの天幕まで山盛りの夕食を運ばせたが、しばらくすると手をつけないままの夕食をカリウラが返しにきた。オマは、鼻梁に皺を寄せ、不穏な人相となり
「あたしの作ったものが、あいつは食えないってのかい?」と言った。カリウラは、オマの耳元で、
「見逃してやれよ。今回は、もうヘドロの臭いが鼻について、ダメなんだとよ。沼沢地を越えるまで、何も食えそうもないって」と、小声で話した。
「何だい?そのヘドロってのは」
おたまを手にしたオマへ、カリウラは幻水楼で起こった事を簡潔に話して聞かせた。
「そりゃ、災難だったね。でも、どうして、あんたらには分からないのに、あいつには全部分かってしまうんだろうね」と、不思議がった。
カリウラは肩をすくめ
「さあな、あいつは秘密の多い奴だから、俺にも分からない」と、答えた。
デミトリーとヨークは、その夜遅く宿営地へ戻ってきた。
宿営地の、自分の天幕へ戻ってきたデミトリーは、ヨークへ
「あいつをどうしたらいい。あれは邪悪な存在だ」と言った。けれどヨークは、
「私は、隊商の行動に干渉することは陛下に禁じられております。それに、強力な魔獣がついている以上、排除するのは簡単ではありませんよ」と、デミトリーの判断には賛成できない態度をはっきり示した。
「このまま、放置しておけというのか」
正義感の強いデミトリーには、ヨークの言うことに納得できないふうだった。
「恐れながら、私は、魔獣使いを実際に何人か見たことがあります。彼らは、一見したところ魔獣を従えているようでありながら、心の中では非常に恐れている様子がありました。しかし、彼には、恐れる様子がまるでありませんでした。あの妙月という女に対しても、自分の優位がはっきり分かっている態度でした。あのような態度は通常の魔獣使いは、決して取れません」
「ただ見ておけというのか」
「殿下が世間の見聞を広げることが、陛下の思し召しです。よい機会ですから、しばらく静観なさってはいかがですか。ここで揉め事を起こして、隊商から離れてしまうと、無事に金杖国へ戻ることすら難しいですよ」
デミトリーは腕組みしてしばらく黙考し
「分かった。静観する。だが、あいつが人外のものに落ちる気配があれば、容赦なく切り伏せる」と言った。
真夜中すぎに、リーユエンの天幕の周りを黒い霧が取り囲み、中へ吸い込まれるように入っていった。素顔を晒したまま眠っていたリーユエンの左側に黒い霧が集まり、面覆いへと姿を変えた。
「戻ったのか」と、半分眠りかけていたリーユエンは、魔獣へ声をかけた。
「うん、戻った。いやあ、食べでがあった。それに、明日の沼沢地の眺めはちょっとした見物だぞ。楽しみにしてろ」と言った。




