29 上陸本番(6)
怯える二人へ、明妃は近寄り、二人の肩へそっと手を乗せ身を屈めてささやいた。
「まっすぐ前を見て、胸を張って降りてちょうだい。玄武の国を代表するのだから、堂々としていなさいよ。何か投げつけられても、大公殿下が障壁を張り巡らせるから、安心して・・・」
ふたりは、うなずいた。明妃からは、茉莉花の清涼な香が漂ってきて、ふたりの気分はすっかり落ち着いた。衣擦れの音とともに明妃が後ろへ下がると、ふたりは階段を粛々と降りていった。
下からは夥しい数の人々が何重もの人垣をつくり、船を見上げていた。集まった人々のうちのほとんどは、顔に好奇心や歓迎の色を浮かべていたが、その中に、豺狼のような敵意に満ちた不穏な表情の者が入り混じっていた。
最初に降りて来た彼女たちは小柄で、明妃とは明らかに体型が異なるので、歓迎されるだけで、敵意を向けられることはなかった。その後に続き、引っ詰め髪にいつもの明るい灰色の筒袖仕立ての侍女頭姿のウラナと、これまた黒地の虎縞柄の浮き出し織に、黄色の襟をのぞかせ、帯刀した剣士姿のシュリナが降りてきた。ふたりとも背は高いけれど、筒袖姿の質素な服装で、高位の貴人には見えないため、これまた敵意を向けられることはなかった。
最後に、雲水紋様の漆黒の袍をまとい、その下は細かい玄武紋を織出した深緑の衫と袴姿の乾陽大公ダルディンと、明妃が現れた。
明妃は、幅広の笠を被り、その笠から透き通った銀色の紗の垂衣を下ろして全身を隠していた。ただ薄い紗の生地越しに、白金の面覆いで左半顔を隠し、右面のみ降り積もったばかりの新雪のように色白の顔が見え、紫色の眸が宝石のようにキラキラと輝き、笑みが浮かんでいるのが見えた。装束は、雪のように白い高襟仕立ての衫に、裙は細かい襞を寄せた光沢のある純白の生地の上に雪の結晶模様のレースを重ね、袍は薄い紫地に銀糸で流水紋と雪の結晶模様が繊細に刺繍されたものを身につけていた。胸元からは、五連の雪の結晶の透かし彫りに水玉を嵌め込んだ首飾りが下がっていた。
その姿を目にした民衆は、一瞬我を忘れてただ見惚れていた。あたりの空気が、一気に変わり、清浄な冷気に包まれるのを感じた。誰ともなく、ため息をつく者が現れた。
「ほうっ、なんとお美しい方だろう。まるで、天上人が降り立って来られたようだ」
思わず漏れた呟きに、同意する者が次々に現れた。そこへ、
「ミン、待ってたよう」と、上空から一羽の鳥が降下し、明妃の垂衣を羽ばたいて乱すと肩へとまった。その一瞬、皆、明妃の顔をはっきり目にし、ますます感動が深まった。
「あら、アプちゃん、おはよう」
挨拶する明妃を見たアプは、目を大きくし、嘴も開け、それから、彼女の全身をくまなく見まわし
「凄いね。我は気配ですぐ気がついたけれど、これだけ変わったら、只人なら気が付かないよ。君って、すごく綺麗だよ。我も、何だか君にならお仕えしてもいいかなって思っちゃいそうだよ」と、ささやいた。
上空を飛んできた鳥の姿を見た主教のオビリオは驚愕した。(あれは、アプラクサスではないか、どうして、あの女のもとへアプラクサスが飛んでいくのだ。それに、あのバカ鳥は、いままで一体どこに隠れておったのだ)
予定外の鳥の登場にオビリオが狼狽していると、明妃が現れたので、打ち合わせ通り僧侶魔導士たちは、民衆を扇動したり、卵や生ごみの入った袋を明妃目がけて投げつけ始めた。主教は、ハッと我に返り、
「やめろ、ものを投げつけるのはやめろ。アプラクサスに当たってしまう」と、声をあげたが、もう始まった動きを止めることは、騒音にかき消されてできなかった。とうとう、僧侶の中には、大きな石まで投げるものが現れ、あたりは大混乱となった。
障壁に守られ、怪我こそしなかったものの、大勢の僧侶魔導士や、彼らに雇われたゴロつきに囲まれ、玄武国の一行は船から桟橋に降り立ったまま、一歩も進めない状態となった。




