25 明妃の噂(3)
聞くに耐えない合唱が繰り返され、さすがに腹に据えかねたダルディンが立ち上がりかけたが、明妃が彼の腕に右手をそっと乗せた。そして、「行きましょうか」と小声で言って、席を立った。
階下におりて勘定をすませ、ふたりは店を出た。明妃は、ダルディンを、店の横手の路地へ連れて行き、ふたりで店先を見張った。しばらくして先ほどの灰色の外套を着た僧侶が現れた。
「あとをつけるのか?」と、ダルディンが尋ねると、明妃は首を振った。そして、小声で呪を唱え、手から礫のようなものを飛ばした。それは、僧侶の背中に張り付いた。
僧侶が雑踏へ紛れてしまうと、明妃は、「一旦宿へ戻りましょう」と言った。
ダルディンは、「あいつ、何か暗示をかけていただろう。放置しておくとまずいぞ」と話しかけた。
すると明妃は、「私たちは予定より早く来て投宿したのに、もう、そんな情報が漏れているなんて、変ですよ。格式一等と言いながら、外に宿泊客の情報をすぐ漏らすなんて、店主を問いたださないと、間諜が紛れ込んでいるかもしれない」と、提案した。
ダルディンは、うなずき「確かにあなたの言う通りだ。店主を問いただすとしよう」と賛成した。
宿屋へ戻った二人は、店主をただちに部屋へ呼びつけた。
慌てて駆けつけた店主へ、乾陽大公ダルディンは、愛想のいい笑みを浮かべながら、目は冷たく光らせ、
「さきほど、街中で、明妃殿下が当宿に滞在中であると、噂話を耳にしたのだ」と、いきなり切り出した。中背のふっくらした体型の店主は、真っ青になり震え上がって、床に土下座し、
「私どもは、お客様の情報をみだりに外へ漏らしたりはいたしません。どうか、信じてください」と、叫んだ。すると、大公は、
「おまえを責めているわけではないが、実際に耳にした以上、調べないわけにはいかない。私には、警備の責任もあるのでな。ところで、この宿で、最近雇われた者はいるのか」と、さらに尋問した。
店主は「はい、すぐお調べします。少々お待ちを」と、部屋から出て行き、しばらくして、賃金台帳をもって現れた。
「騎獣舎番がひとり怪我をいたしまして、一昨日から臨時雇いが入っております」
「なるほど、分かった。その者には、何も言わないでおけ、よいな」
「ははっ」
店主は、頭を何度も下げて部屋から退出した。明妃は立ち上がると、「王太子殿下のところへ行きましょう」と言った。先触れを出すと、王太子は会う事を了承したので、ふたりは街に出たときの格好のまま、隣の宿へ行くため、外へ出た。すると、何人か、風体の悪いのがたむろし、「淫妃、出てきて俺を相手しろ」と、叫んだりしていた。それを一切無視して、彼らは三日月と涼風草の中へ入った。
応接間に通されると、待ち受けていたデミトリーが椅子から立ち上がり、「お早う、昨日は面倒をかけてすまなかった」といきなり謝ってきた。
明妃は「気にしないで」と、手をふった。何のことか分からない大公は、きょとんとしていた。
その時、閉めた扉がふたたび乱暴に開けられ、サンロージアが飛び込んできて、明妃に抱きつき、「明妃、昨日は、本当驚かせちゃってごめんなさい」と、叫んだ。
いきなり抱きつかれた明妃のフードがずれて、顔があらわになった。明妃は、体が凍結状態で動けなくなった。大公が慌てて近寄ったが、まさか他国の王女を引き剥がすこともできず、困り果てた。
「きゃー、やっぱり茉莉花の香がする。すっごくいい匂い。素敵だわ」と、サンロージアは、明妃の髪の匂いを嗅ぎながらうっとりと言った。
「王女殿下・・・離れてください。近すぎます」と、明妃は、小声で言った。
デミトリーが立ち上がり近寄ると、サンロージアを引き離した。




