25 明妃の噂(2)
明妃の問いかけに対して、ウラナは、
「離宮では体を温泉で温めてから、柔軟体操ができましたけれど、ここではそうは参りませんから、ゆっくり曲げていかないと危のうございます。しばらく辛抱なさいませ」と、言いながら、また負荷を増やして、明妃の体を深く前屈させた。もう真っ直ぐ伸びた足と、上半身が密着しそうなくらいなのに、ウラナはまだ負荷をかけ続けた。
その様子を見たダルディンは、「うわっ、妓楼の踊り子でもここまで曲げられはしないだろう。ウラナ、やりすぎだぞ」と思わず、話しかけた。
しかし、ウラナは、彼をきっと睨みつけ
「いいえ、明妃の優雅な所作には、体の柔軟性はかかせません。一日たりとも訓練を疎かにするわけにはまいりません」と、断言した。
結局、この後、えんえん二時間、ウラナの言う訓練が続いた。
その後、ウラナは、明妃の身支度をしようとしたが、
「今日は出かけるから、筒袖服を着ます」と、明妃は断り、「シュリナに私の格好をさせて留守番させてちょうだい」と言いつけた。それから、「継承権の話はしないで、ユニカに金羽国の作法のおさらいをしてあげて」と、ウラナへ頼んだ。
扉を開けかけたのを中断し、振り返ると、ウラナへ
「昨日のマントを返しにきたら、受け取っておいてね」と、頼んだ。
ダルディンも、明妃の後をついていった。けれど、明妃は振り返り、彼を上から下までじろじろ見ると「大公殿下、玄武と分からない格好をしてください」と、注文をつけてきた。
「どうすればいい?」と、ダルディンが腕を広げて尋ねると、
「そうですね、頭にはターバンを巻いて、上はシャツに短いベスト、下は幅広のチュリダールを身につけてください」と、明妃は答えた。
明妃の指示通りの衣服を、宿の店主から借り受けて身につけると、確かに商人風になって玄武らしさが薄らいだ。
(白のターバン姿・・・お懐かしい、千年前に初めてお会いした時の、旦那様のお姿と同じだわ)と、明妃は感慨深くダルディンを見上げた。
ダルディンは、自分をじっと見上げる明妃へ微笑みかけ「では、参りましょうか」と声をかけ、宿を二人で出た。
明妃は、大通りから横道へ入り、軽食屋の二階へ上がった。そして、お茶と軽食を注文し、窓際に座ったまま、出入りする客の噂話に耳を傾けた。
二人の席に近い、大きなテーブル席に、荷役人足が四人で食事し、雑談していた。
「金杖王国の王子殿下が妹君と一緒に大通りの宿屋に宿泊しているそうだぞ」
「俺も、聞いたぞ。でっかい馬車を蒼馬四頭に曳かせてきたらしいぜ」
「妹君って、あのサン何とかっていう、金杖王国の薔薇って呼ばれる美少女だろ」
「俺も一回拝んでみたいよ」
と、そこへ、灰色のフード付きマント姿の男が近づいた。
「楽しそうなお話ですな」と、言いながら、その男は彼らの横の空いている椅子に腰掛けた。
「誰だい、おまえ?」と人足の一人が胡散臭げに尋ねた。
灰色マントの男は軽く会釈すると、
「私は、はるばる南洋海の向こうからまいった僧侶です。あなた方のお話を聞いて、ふと思い出しましてね。記憶が合っているか、確認したくなりまして」と、言いながら、給仕を呼び止め、「こちらのお客さん方に、お酒を持ってきてくれ。私が払うから」と注文した。
朝から酒が飲めるとわかり、人足たちの警戒心は緩んでしまった。
「何を確認したいんだ?」
「金杖王国の王子殿下がお泊まりなのは、たしか三日月と涼風草でしたね」
「ああ、そうだぜ」
「しかし、私の記憶が確かなら、あそこは狐狸国では二番目の宿のはずです。どうして格式第一位の灰色狐と月見草に宿泊なさらなかったのでしょう?」
人足のひとりが、鼻の頭をかきながら訳知り顔で言った。
「それは、ほら、玄武のご一行が泊まっているからさ」
「玄武のご一行?」
人足は下卑た笑いを浮かべ、声を少し小さくしたが、地声がもともと大きいので、二人の席でも内容は聞き取れた。
「法座主とかいう偉いさんの愛人で、何だっけ?マオ?違うな・・・メン?・・・そうだっ、ミンだ。明妃とかいう女が、泊まっちまったんだよ。おっかない魔女だから、誰も逆らえないそうだぜ」
灰色マントの僧侶は、男へ
「なるほど、明妃ね・・・それは、玄武の国で邪術を行う穢らわしい魔女の通名ですな。明妃どころか淫妃と呼んだ方が相応しかろう」とささやいた。
それを聞いた男は一瞬、ぼおっとなり、「なるほど淫妃か、本当にその通りだな」といい、「淫妃、淫妃、玄武の国の穢らわしい魔女は淫妃」と茶碗を叩いて叫び出し、他の者たちもそれに合わせて一斉に叫び出した。




