18 明妃のお茶会(5)
招待客の中には、宰相ディルバと正室オルナ、その娘アーリナの姿もあった。庭園へ通された宰相は、まず最初に、家族二人を伴い、東屋にいるドルチェンと明妃のもとへ向かった。
黒に近い濃い緑色の袍に、燻銀の冠をつけた宰相は、東屋へ行こうとして視線をそちらへ向けた時、猊下の横に大きな紫の蝶を見つけた。ふわりと広がった衣の裾が、紫蝶の翅に見えたのだ。猊下と明妃の間は、互いに絡みつき惹きつけ合う磁力で包まれているかのように、何者の侵入も許さない磁場があった。
「明妃はお顔に傷がお有りとうかがっておりましたが、お美しい方ですわね」と、オルナが感嘆の声を漏らした。
宰相も無言でうなずいた。稟議書を何度も回してきた相手だが、実際に会うのは初めてだった。明妃は、稟議書によく理由書をつけて返却するが、理由書の内容は、老練な大臣でもすぐには反論できないものが多かったし、指示は的確だった。けれど、これまで猊下は、明妃に仕事はさせても、決して明妃を公式の場に出そうとせず、手元に隠し続けてきた。この庭園も、明妃に仕える者以外は原則立ち入り禁止の区域だ。それが、私的な茶会とはいえ、お披露目するとはどういう心境の変化があったのだろう。
宰相は猊下のもとへ伺候し、正室と娘も紹介した。明妃は、ふたりへ微笑み、優雅に礼を返した。その動きだけで、宰相は、目が眩みそうになった。この方は、風に吹かれて気まぐれに舞う蝶だと思った。
宰相が呆然としている間、オルナは明妃へいそいそと近寄り
「その御衣装、本当によくお似合いですわ。でも見た事もない生地ですね。どちらのお品ですか」と尋ねた。明妃は、ふっと笑みをもらし
「大牙からの献上品です。よろしかったら、お持ち帰りくださいな」と、後ろに置いてあるいくつかの唐櫃を指し示した。
「西荒からの献上品とは珍しい。実に素晴らしいお品ですね」と言いながら、オルナは、興味津々で唐櫃の中を遠慮なくのぞき込んだ。一方、娘のアーリナは、むすっとした表情で、明妃を眺めていた。(なんだ、この女、私とそんなに歳が変わらないみたい。わざとらしい科のある態度で、やたら色気をふりまいて、お父様までぼおっとなって、やっぱり噂通りの毒婦なんだわ)
ところが、明妃はアーリナの方へ振り向き
「よろしかったら、好きなものを取ってくださいな」と優しい口調で誘った。アーリナは、その七分立てのクリームように滑らか声に、胸がドキッとして、頬を赤らめながら、母親の横から唐櫃をのぞき込んだ。
ふたりの様子を見ながら明妃は心の中で
(宰相の家族が選び終えたら、あとは、それほど順番は気にしなくていいだろう。さっさと、唐櫃の中身を、皆に選ばせて、空っぽにしてやる)と、目論んでいた。
その時、庭園の向こうの方で
「入らないでください。今日は招待状のない方は入れません」と、侍衛が誰かを阻止する声が聞こえた。ウラナが直ちにそちらへ向かい、しばらくして戻ってくると、明妃の耳元で「伝奏部の役人が、急ぎの稟議書があるといって、持ってきております」と、囁いた。「わかった。部屋の方へ通して、そちらへ・・」と言いながら、長椅子から立ち上がりかけた明妃をドルチェンが制した。
「あなたは、まだ、あまり動かない方がよい、こちらへ連れてきなさい」と指示した。
いつも書類の山を持ってくるなじみの伝奏部の役人が、恐縮しながら書類の束を明妃へ差し出し、頭を下げた。
「猊下、明妃殿下、誠に申し訳ございません。今日の午前中にご承認をいただかないと間に合わない稟議がございます」
明妃は受け取りながら、小声で
「締切は昨日って、言いましたよね」と話しかけた。すると、役人も声を低めて
「私もうるさく注意していたのですが、また、例の部署で、書類を止めて溜め込んでいたものがいて」
書類の目を落として、馴染みの名前をみつけ、明妃のこめかみがピクピクした。
(また、こいつかあ・・・いっつも、決裁を溜め込んで・・・忌々しい)
ドルチェンは、明妃が珍しく腹を立てている様子をおもしろがり、そっと心をのぞいて、問題役人の名を知った。
(ふうむ、これは、あとで宰相に伝えておいてやるか・・・)




