第六章 留守の間の旅
夜の神社は、虫の声と柱時計の音だけが響いていた。
臥竜は湯呑を持ったまま、小夜をじっと見た。
「……なによ」
「別に」
風鈴がひとつ、澄んだ音を立てる。
距離が近づきすぎて、互いの呼吸が触れた。
何かを言おうとした臥竜の声が、夜の闇に溶けて──その先の記憶は、途切れていた・・・。
平松が静岡へ戻って三日。
王町での捜査は、もはや打つ手も尽き、実質的に中断していた。
宿舎である大禍津神社の社務所には、鈴虫の声と、古びた柱時計の音だけが響いている。
臥竜は、横になったまま天井を見上げながら呟いた。
「なあ……小夜。捜査も止まってるし、どっか出かけねぇか」
「出かけるって、どこへ?」
「観光でも何でもいい。おまえんとこの神社じゃ、気が休まらん」
「そういえば臥竜くん、大学中退なんでしょ?」
「中退って言うな、“途中で見切った”んだ」
「はいはい、見切った巡査さんね」
その日の午後。
二人はジープで王町を抜け、一路安曇野を目指していた。
車窓に流れる北アルプスの稜線が、次第に近づいてくる。
空気が澄み、田に水が張られ、早苗がまっすぐ空を向いていた。
小夜は珍しく、頬を緩めて言った。
「高校卒業してから……こういうの、初めてです。遠出、というか、旅行みたいなの」
「おまえに旅行なんて似合わねぇって思ってたけど、意外と乙女だな」
「うるさい」
小夜が呆れたように笑ったとき、ジープは穂高神社の鳥居の前に到着した。
境内の砂利を踏みながら、二人は拝殿へと向かった。
参拝客は少なく、風に揺れる御神木の葉音だけが響いている。
社務所へ案内されると、すでに白装束の神主が待っていた。
初老の男性が目を細め、ゆっくりと微笑んだ。
「お久しぶりです、小夜様。お母様とご一緒に来られたのは……もう十数年以上前でしたね」
「……神主さん」
小夜がぴたりと足を止めた。
「今もよく覚えております。磯良様が『この子には見えてしまうかもしれない』と、おっしゃっていた」
臥竜が目を丸くする。
「え、“様”? おまえ、なんなんだよ……」
「黙ってて。話、聞こえなくなる」
神主は奥の間に案内し、床の間の屏風を横へ動かすと、一枚の古い和紙を取り出した。
「こちらは、磯良家にのみ伝わる記録の写しです。正式には社外秘ですが……お母様の意志を尊重して」
和紙には、見たこともない文字が並んでいた。
臥竜が首をかしげる。
「何だこれ……?」
小夜は、それをじっと見つめていた。
「……ヤチマタヒコ……チマタヒコ……クヒノカミ……」
その名を、ひとつずつ、ゆっくりと口に出していく。
神主は微笑んだ。
「やはり、小夜様にはお読みいただけましたか」
「この三柱は、封の神です。交差点に立つ神々──道を断ち、邪を閉じる神格」
「ここ穂高神社の御祭神・穂高見命は、海神・綿津見命の御子にあたります。すなわち、安曇氏族の氏神です」
「そして、もうひとつの名前──磯良命こそが、霊的には安曇氏族の“始祖”として語られる神」
神主は言葉を継ぐ。
「磯良命は、かつて神功皇后の新羅征伐の折、龍宮から宝物を授かり、帰還を助けたとされる。つまり、“竜神の御霊”と接触した神──水脈と海と、封印の鍵を操る存在です」
「磯良家がその血を引くというのは、単なる言い伝えではない。実際、ここ穂高には“神代文字の断片”が実在する。そしてそれは、王町に眠る“千引岩戸”を封じる呪文と一致しているのです」
神主はふと視線を落とし、静かに語った。
「かつて、磯良家の先祖は、“国家に供する者”でありながら、“国家に消された者”でもありました」
「顔に刻まれた“印”は、呪いでも罰でもない。封印の“鍵”であり、“誓約”でございます」
「それが、“安曇氏族の末裔”──小夜様の中に、今も息づいている」
臥竜が息を呑み、低く問うた。
「じゃあ、その封印って、今も残ってるのか?」
「──はい。王町に。千引岩戸の奥底に」
帰りの車内、ジープは山道をゆっくりと登っていた。
夕暮れの光が、林の隙間から差し込み、車内の空気に、黄金色の静けさを溶かし込んでいた。
臥竜がハンドルを片手に、助手席の小夜をちらりと見た。
「なあ、小夜」
「……ん?」
「おまえ、本当は……何者なんだ?」
小夜は笑わなかった。
窓の外を見たまま、わずかに眉を動かした。
「私だって、知らなかったよ。お母さんは、何も教えてくれなかった。ただ“いざというときは、耳を澄ませ”って、それだけ」
「耳を?」
「……水の音が聞こえるって、前に言ったでしょ。あれ、昔は空耳だと思ってた。でも今は……」
小夜は言葉を切った。
「……今は、怖いの。だって、あの音、最近……」
「最近?」
「名前を呼ぶようになったの。……誰の名前かは、言えないけど」
臥竜は冗談を飛ばそうとして、やめた。
代わりに、小さくため息をついた。
「おまえさ。平松係長がいない間に、俺をホラーアトラクションに引きずり込むのやめろ」
小夜はようやく笑った。
でもその笑みは、さっきまでの笑顔とはどこか違っていた。
少し、切なく。少し、迷いながら。
ジープが神社の参道に入ると、灯籠に明かりがともされ、社務所の玄関先から、ほのかにスパイスの香りが漂ってきた。
「……あ、これ……カレーの匂い?」
臥竜が鼻をくんくんと動かす。
玄関を開けると、台所から割烹着姿の宮島が顔を出した。
「おかえりなさい、小夜さん。臥竜さんもご一緒でしたか」
「ただいま、宮島さん。……カレー?」
「はい。小夜さん、お好きでしょう。ちょうど煮込み終わったところです。お二人分、ちゃんと用意してありますよ」
「わぁ、ありがとうございます」
「臥竜さん、辛さは大丈夫ですか? うちは結構“効いてる”ほうなんですが」
「……効く、って、どのレベルです?」
「まあ、目が覚めるくらい……ですかね」
宮島はにこやかに言った。
居間に戻ると、食卓には湯気の立つ鍋と、木製のスプーンが二つ。
臥竜は荷物を置きながら、ぽつりとつぶやいた。
「なんか……“ただいま”って言いたくなるな。神社なのに、下宿先みたいな空気があんの、不思議だな」
小夜は笑わず、ふっと目を細めた。
「……そう。昔は、ここが“ただいま”だった」
「もう、ちがうのか?」
「……どうだろう。“ここ”は、まだ動いてる。けど、何かがずっと“待ってる気配”がする」
臥竜は言葉を返さなかった。
代わりに、木のスプーンを手に取った。
「とりあえず、空腹は悪に通じるって平松が言ってたからな。ありがたく、いただきます──!」
皿に盛られたカレーは、深く黒く、そして香りが濃かった。
臥竜が一口食べると、ぴたりと手が止まった。
「……効くな、これ。マジで、目が覚める」
小夜もまた、スプーンを握りしめていた。
だがその時、どこかで──水の滴るような音が、かすかに聞こえた気がした。
臥竜が眉をひそめる。
「今、なんか音……した?」
「……しない。気のせいでしょ」
だが、小夜の手はほんのわずかに、震えていた。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。