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Rev.3_夏のホラー2025 水の章  ちびきのいわと  作者: シニフィアン&グノーシス(AI)
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第四章 捜査行き詰まり

 王町の朝は、山の稜線をなぞるように白く明けていく。

冷え切った霧が舗装の途切れた路地に溜まり、どこか別の世界に踏み込んだような錯覚を起こさせた。

「……空気が重いな」

臥竜が襟元を引き上げながら呟く。

「気圧のせいじゃない」

平松はぼそりと返した。


 昨日得た北朝鮮ルートの証言も、その後を追おうにも手がかりは途絶えていた。

小夜の案内で、三人は村を歩き、農協、集会所、駐在所、寺と回ったが──どこも「何も知らない」という言葉を、用意されたように繰り返すばかりだった。

「腫れ物に触るような態度だな」

臥竜が吐き捨てる。

「いいや……腫れ物そのものに触られたくないって感じだ」

平松は、聞き込みメモをポケットに押し込むと、ふと一軒の古い雑貨店に目を留めた。


 店内は薄暗く、棚には缶詰や薬箱が埃をかぶって並んでいる。

奥から老女が姿を現した。

「……東京の警視庁さんかい」

すでに彼らの情報は広まっていた。

「ええ、田中一也について。昔を知る方なら何でも──」

「その人の話は、この村じゃ“過ぎたこと”だよ」

老女は静かに言った。

平松は目を細める。

「“過ぎた”とは、どういう意味です?」

老女は返さなかった。ただ、奥に引っ込んでいった。


 それは答えではなかったが、沈黙そのものが村の“拒絶”という意思だった。

神社へ戻るジープの中、誰も口を開かなかった。

夕霧が早くも山を包み、村の屋根から細く煙が上がっている。

神社の社務所に着くと、小夜は早々に風呂の支度に向かった。

臥竜は持ち帰った証言を整理し始めたが、何かを整理するほどの収穫もない。

平松は、柱にもたれて独り、静かに煙草に火をつけた。


 ──何かがおかしい。

村人の誰もが、話すと見せかけて、決して核心に触れない。

誰かが“何か”を守っている。あるいは、“何か”に縛られている。


 夜、境内を一人歩く平松の耳に、かすかに水音が届いた。

社の裏手、小川の奥、杉林の陰から──地下の水脈を流れるような、かすかな音。

彼は煙草をもみ消し、立ち止まった。

「……駄目だ。このままじゃ、飲まれる」


 平松は神社へ戻ると、臥竜と小夜に向かって言った。

「俺は静岡へ戻る。単独で、水宮神社をもう一度洗い直す」

そう言い残し、平松は駅へ向かった。


 王町を出たのは、夜の帳がすっかり町を覆ったころだった。

駅前通りの街灯の下を抜け、列車で松本市へ向かう。

車内は通勤帰りの男たちや買い物袋を抱えた女たちがちらほらいるだけで、揺れる蛍光灯の光が窓ガラスにぼんやり映っていた。


 松本駅に着くと、すでに時刻は九時を回っていた。

駅前の店はほとんどシャッターを下ろし、ネオンの灯るのは酒場と数軒の旅館ばかり。

平松は小さく息をつき、駅前で流しのタクシーを捕まえた。

行き先は浅間温泉──駅から北東へ、およそ四キロ。

後部座席に腰を沈め、窓のハンドルを回す。

冷たい夜風が頬を刺し、川沿いから湿った匂いが入り込む。

マッチを擦り、煙草に火をつけると、紫煙が夜の闇に溶けていった。


 やがて、木造三階建ての旅館が肩を寄せ合う温泉街へとたどり着いた。

街灯のオレンジ色が、湯けむりににじんで揺れている。

街路には白熱灯の裸電球がぶら下がり、湯気が路地の隙間からふわりと漏れている。

平松は今夜、浅間温泉の宿に腰を落ち着け、翌朝には中央本線から身延線へと乗り継ぎ、静岡へ向かうつもりだった。


 暖簾をくぐり、帳場で宿帳に名前と住所を書き入れる。

木札の付いた鍵と浴衣を受け取り、廊下を抜けて部屋に荷を下ろした。

畳の匂いが鼻をくすぐる。

ひと息つく間もなく、平松は浴衣のまま階下へ降りた。


 古びた木札のかかった「混浴」の暖簾をくぐると、そこは昭和の温泉らしく、壁も天井も煤けた木造り。

湯殿の中央には、まるで小学校のプールのような大きな湯船がどんと構えている。

かつてこの町では、子供から老人までが一緒に湯に浸かり、互いの身体を隠さず見ることで、余計な幻想や歪んだ欲を生まぬようにしてきた――そんな土地の古い知恵が、この湯船にはまだ息づいていた。


 平松は肩まで湯に沈み、硫黄の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

そのとき、白く濃い湯気の向こうに女の人影が立っていた。

長い髪が湯に漂い、ゆらゆらとこちらへ近づいてくる。

湯気の中で、輪郭が少しずつ、ゆっくりと鮮明になる。

胸の鼓動が早まり、呼吸が浅くなっていく。


 そして、最後の湯気がふっと晴れた瞬間――頬から顎にかけて皮膚が崩れ、骨がのぞいていた。

平松は反射的に湯から立ち上がった。

だが次の瞬間、再び湯気が女を包み込み、形を曖昧にした。

そして湯気がもう一度晴れたとき――そこに立っていたのは、ごく普通の女性だった。

平松は何も言わず、湯から上がった。

背後で湯の波紋が静かに広がる音が、妙に耳に残った。

あの顔は、夢か現か──その答えを持たぬまま、夜は更けていった。


 あくる日、午後の陽が傾きかけた頃、平松は再び水宮神社を訪れた。

境内はひっそりと静まり返り、木々の間を渡る風が鈴をかすかに鳴らしている。

奥から現れた宮司は、やや呆れたような顔つきで平松を値踏みし、しばし無言のまま立ち止まった。

やがて口を開く。

「……さすがに、もうお話しすることはありませんが」

「いえ、今回は、この神社に伝わる何かしらの伝承があればお聞きしたいと思いまして」

「伝承、ですか? それが事件と関係があると?」

平松は頭をかき、苦笑を浮かべた。

「いえ、直接的には何も。ただ……何かの参考になればと思いまして」


 宮司は視線を外し、しばらく黙っていた。

風が鈴を鳴らし、葉のざわめきが途切れる。

やがて、重い口を開いた。

「……昔からの言い伝えがあります。

諏訪の葛井池に沈めたものが、翌日にはこの桜池に浮かぶ──そう申します」


 あまりにも当たり前のように語られたその言葉に、平松は眉をひそめた。

地図を思い浮かべても、両者を結ぶ川は存在しない。

「……その道が、本当にあるのか」

胸の奥に冷たいものが走る。

平松は礼を述べ、社を後にした。


 次に向かう先は、伝承の源──諏訪の葛井池だった。

この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。

登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。

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