第三章 田中の実家
王町の中心から車で十五分。
細く曲がりくねった山道を登りきると、平松たちのジープは一軒の廃屋の前で止まった。
「……ここです」
小夜が地図を手に、無感情に言う。
屋根は半分落ち、壁は土砂に覆われ、玄関の戸は朽ちたまま斜めに吊られていた。
冬の名残の冷たい風が、軒下の風鈴を不気味に揺らしている。
「田中一也の実家──確かに、今はもう人の気配すらないな」
平松はジープのドアを閉めると、手袋をはめた。
「これはまた…幽霊屋敷だな。心霊写真が撮れそうだ」
平松は玄関の戸を押す。
金属が軋む音とともに、屋内の空気が漏れ出した。
そこには、誰かの“生活の残り香”すら存在しなかった。
畳は抜け落ち、柱は白蟻に喰われて中空。
押入れには古びた教科書と、黄ばんだ週刊誌が束ねられて残されていた。
「ここが田中の、子供時代の部屋だと思います」
小夜が足元を確かめながら指さす。
平松はそっと引き戸を開けた。
部屋の奥には、一枚だけ色褪せたポスターが貼られている。
「……革命か」
ポスターには“全共闘蜂起”と記された文字と、黒いヘルメット姿の学生たちが描かれていた。
昭和四十年代、大学紛争の象徴的な一幕。だが、その情熱もすでに忘れ去られた。
「公安にとってはお宝展示室みたいなもんですね、係長」
臥竜が苦笑する。
机の上には、埃をかぶった一冊のノートが置かれていた。
罫線の上には、まだ少年の筆圧のままの、荒い文字が刻まれている。
俺の家は、江戸の頃からこの村の外れに追いやられてる。
飢饉の年、先祖が村長の米櫃から一升の米を盗んだ──それが村八分の始まりだ。
たった一升だぞ。けれど、その一升でうちは「汚れの家」になった。
田畑も水も取り上げられ、寄り合いにも祭りにも呼ばれねぇ。火事と葬式だけが義理だとよ。
生まれたときから、俺は“人の数”に入っちゃいなかった。
この国は表じゃ平等を語るくせに、裏じゃ生まれた場所と家の名で人を値踏みする。
最近、東京で学生たちが声を上げてるってニュースを見た。
警察に囲まれても、誰も逃げなかった。
俺も、あんなふうに胸を張って立ってみたい。
きっと、あれができたら……俺も“人の数”に入れる気がするんだ。
ページの端は湿気で波打ち、数年分の風と砂埃を吸い込んでいる。
ノートは、置き去りにされた家と同じく、過去をそのまま閉じ込めていた。
平松は再度、色褪せた“全共闘蜂起”のポスターに目をやった。
裏庭に出ると、草むらの中に、土の崩れかけた掘り返し跡があった。
誰かが“何か”を探し、そして諦めたような──そんな形跡。
「ここ……イノシシじゃないですよ。人間です。最近の掘り返しだ」
臥竜がしゃがみ込み、泥の中からビニールの破片を引き出す。
「……韓国製のラーメン袋だ」
その瞬間、木陰からこちらを見ていた近隣の老人が、杖をついて近づいてきた。
「お巡りさん。あんたら、あの家を見張ってるのか?」
「いえ、捜査です。何かご存じのことが?」
平松が手帳を取り出す。
老人は目を細めて言った。
「先週の夜中だ。背広を着た男が一人と、もう一人──体格のいい東洋人が来とったよ。話はわからんが、あれは朝鮮語だったな。耳で覚えてる」
「方言じゃなく?」
「ちがう。わしの若いころ、トラックの運ちゃんやっとったでな。釜山航路の言葉は、よう覚えとる」
臥竜が平松を見やる。
一瞬、静寂が流れた。
「帰るぞ」
平松は短く言った。
「えっ、まだ裏は──」
「いい。十分だ」
「北朝鮮、か……」
車に戻った平松は、フロントに手を置き、目を閉じた。
平松は、長野へ向かう前に課長と交わした打ち合わせを思い出した。
課長がデスクの引き出しから煙草の箱を取り出し、一本くわえる。
火を点ける前に、ぼそりと口を開いた。
「最近、北朝鮮工作員の動きが活発だと――外事から話が来ている」
「北朝鮮ですか」
平松は、無意識に背筋を伸ばした。
「我々の懸念は、北朝鮮ルートでロシア製の武器が国内の過激派に流れ込んでいないかということだ」
煙草の先が赤く灯り、煙がゆっくりと立ち上る。
「それと……田中の死には?」
課長は一瞬だけ目を細め、煙を吐いた。
「ああ、可能性はある。直接首を突っ込んではこないだろうが……外事も田中の死には興味を持っているようだった」
平松は黙ったまま、紫煙の向こうの課長の横顔を見つめた。
外事が絡むというだけで、事件の輪郭は急に不鮮明になる。
警察の捜査網の外で、別の駒が動いている――そんな気配が肌にまとわりついた。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。