第一章 腐敗しない死体
静岡県・桜池──。およそ二万年前から存在するとされるこの湖は、湖畔の神社と共に静かに佇み、古くから“聖なる水”として人々に崇められてきた。
その日も、湖面は鏡のように澄み、春の霞が柔らかく水を包み込んでいた。
早朝、境内の掃除に出た神職が、湖岸に漂う白い影を見つけた。
それは、淡い衣をまとうかのように水に浮かび、寄せては離れる──静かで妖しい姿だった。
通報を受けた警察が引き上げた遺体は、まるで眠っているかのような安らぎを湛えていた。
検視の結果、死因は溺死。しかし後頭部には鋭い打撲痕があり、偶然の転落ではなく、確実な暴力の痕跡があった。
さらに不可解なことに、遺体からは腐臭がなく、肌は白く滑らかで張りを保ち、死後日数をまるで感じさせなかった。
指紋照合で身元が判明する。
長野県王町出身、田中一也(二十二歳)。
元明治大学法学部に籍を置き、一九六九年より赤軍派の地下活動に関与。
一九七〇年春、忽然と消息を絶った人物だった。
公安の記録には「消えた活動家」として刻まれたその名が、今、湖から死体となって戻ってきたのである。
事件性は極めて高く、公安は即座に動いた。
平松忠之助と臥竜卓也──二人の捜査官が現地に派遣される。
湖畔に立った二人の視線の先に広がるのは、異様なほど静まり返った水面。
春風すら波を立てられず、その奥底では何かが息をひそめ、螺旋を描くようにゆっくりと彼らを見上げているようだった。
平松と臥竜は、桜池周辺で田中一也の足取りを徹底的に洗い出した。
しかし、潜伏先も協力者の情報も一切得られない。
まるで、この土地に彼が存在した痕跡そのものが、意図的に拭い去られているかのようだった。
地元警察との間には温度差があり、事務的で腰の重い応対が続く。
鑑識からは「どう考えてもその日の朝に殺されたと見るべきだ」という見解が伝えられたが、平松の胸にはしこりが残る。
臥竜がぼそりと呟く。
「平松警部、これだけ探しても何も出てきませんね。普通なら何かしらの痕跡があるはずなんですが」
平松は湖面を見やりながら答える。
「ああ。通常、痕跡を消したとしても、その“匂い”までは消せない。何かしら残るものだが、今回はそれすらない」
臥竜が眉を寄せた。
「そうなると……第一発見者が一番怪しいことになります」
平松は小さくうなずき、視線を湖畔の社へ向けた。
「もう一度、神社に行ってみるか」
わずかな希望を抱き、二人は湖畔に佇む水宮神社を訪れた。
古くから湖と水神を祀るこの神社は、苔むした石段と湿った木の香りが、長い歴史を物語っている。
応対に出た神主は、田中の名を耳にした瞬間、ほんのわずかに眉をひそめたが、
「もう何度もお話ししましたが、これ以上は何もありません」
とだけ言い、すぐに笑みを整えて口を閉ざした。
その一瞬の変化を、平松は見逃さなかった。
社務所を後にした二人の間には、冷たい湖風がすり抜けていった。
「……行ってみるか、王町」
平松の低い声に、臥竜は静かにうなずく。
こうして捜査の舞台は、湖を離れ、雪解け水がきらめく長野の地へと移っていく。
道の先に潜む影はまだ形を見せず、ただ遠くから二人を見据えているようだった。
東京駅から中央本線特急「あずさ」に揺られ、松本までおよそ三時間半。
さらに在来線に乗り換え、山あいを抜けて長野市へ──。
その道程は、冬の名残を抱えた山々の静けさと、遠ざかる都会の喧騒が交じり合っていた。
長野駅前。まだ冬の名残を含んだ春風の中、県警のジープが無言で停まっていた。
その前に立つ婦警は背筋を伸ばし、視線だけで二人を確かめた。
「平松警部、臥竜さんですね?」
澄んだ声だが、警戒がにじむ。
臥竜が軽く手を挙げた。
「ああ、磯良さんだね。出迎えご苦労さん」
「公安の課長さんからの話は聞いています。王町は私の出身です。……私の実家をベースにしてください」
端的で、隙のない口調だ。
平松は「助かる」とだけ応え、深く観察するような眼差しを向けた。
三人はジープに乗り込み、霞む長野の山々を背に、未知の気配が漂う王町へ向かって走り出した。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。