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Rev.3_夏のホラー2025 水の章  ちびきのいわと  作者: シニフィアン&グノーシス(AI)
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第十五章 修羅の幕開け

「小夜を連れて逃げろ、臥竜!」

平松の怒声が、湿った空気を震わせた。

臥竜は弾かれたように我に返り、足元の小夜を抱き上げる。

先ほど見た、皮膚が崩れ落ち眼窩が空洞になった恐ろしい顔は跡形もなく消え、そこには血色を取り戻した、いつもの小夜の顔があった。

安堵と同時に胸を締めつける疑念──あれは幻覚か、それとも湖の底から滲み出た黄泉の力か。

しかし、考える暇はない。


 背後で金属音が鳴る。

平松はホルスターからチーフスペシャルを抜き、親指で安全装置を外した。

銃口の先には、地下湖の中央──暗く冷たい湖面。

その湖面のただ中に、巨大な黒い穴が開き、泡立つ水と共に得体の知れぬ影が蠢いていた。

腰の内側の革製弾差しには予備弾五発。

空砲が一発混じっているため、実質の弾は九発。

──この湖から湧き出す地獄を押しとどめるには、あまりにも少なすぎる。


 水面が爆ぜ、冷たい飛沫が洞窟の天井まで吹き上がった。

そこから現れたのは、黒く粘つく肉塊──腕のような突起が二つ、いや十もある。

人の顔のように見える部分は崩れ、皮膚の下で蛆のようなものが蠢いている。

それらが湖から次々と這い出し、岩場へと爪を立てた。

足元に伝わる水の振動は、まるで巨大な鼓動のようだった。

その奥、湖底の穴のさらに向こうから、黄金の光が二つ、ゆらりと浮かび上がる。

──伊弉冉いざなみの双眸。


 「臥竜! 振り向くな──走れ!」

平松の声が洞窟内で反響する。

臥竜は小夜を抱き、岩場の通路へと駆け出した。

背後で、最初の銃声が轟く。

乾いた破裂音が、湖面と岩壁に反響して何重にも重なった。

弾丸は一体の黄泉兵よもつへいの頭部を撃ち抜き、白濁した液体が飛び散る。

しかし、その肉塊は水面へ崩れ落ちたかと思えば、すぐさま這い上がり、裂けた傷口は不気味な音を立てて塞がっていく。

平松は低く息を吐き、間髪入れず次弾を撃ち込んだ。


 「やはり……止めは効かんか」

その言葉を嘲るように、湖の穴からさらに大きな影が迫り上がってくる。

水滴を纏った純白の鱗──巨大な白蛇の頭部が、水面からゆっくりと現れた。

黄金の瞳が平松を見据え、地底の空気を震わせる声が響く。

「葦原の人よ……その鉄の牙で、我が子らを止められると思うな」

湖全体が揺れ、波が岩壁を叩きつける。

背後から迫る咆哮と水音が、臥竜と小夜を出口へと駆り立てた──。


 臥竜は小夜を抱え、地下湖から続く細い地下道の入り口までようやくたどり着いた。

背中を伝う汗が冷たく、荒い呼吸が耳の奥で響く。

小夜の身体がかすかに動き、彼女の瞼がゆっくりと開く。

「……ここは……?」

その声を聞き、臥竜は胸をなで下ろした。

小夜は意識を取り戻していた。

しかし、平松のことが頭をよぎり、臥竜は思わず振り返った。

遠く地下湖の奥で、白蛇と黄泉軍団がまだ蠢いているのが見える。

湖面は低く唸るような波を立て、岩壁に反響する音が、この世とあの世の境界を叩く太鼓のように響いていた。

平松は肩を押さえながらも立ち尽くし、なおも湖を睨んでいる。

「……生きてるさ、あんな化け物にやられてたまるか」

その時だった。


 湖の中央、漆黒の穴の縁に整然と並んでいた軍団の列が、左右にゆっくりと割れていく。

その動きはまるで、主を迎えるための儀式のようだった。

奥の闇から二つの人影が静かに現れる。

軍団の中でただ二人だけ、人の形を保っている者──佐嶋と……臥竜には見覚えのない女。

女は佐嶋の手を柔らかく握り、口元に淡い微笑を浮かべた。

その仕草には奇妙な優雅さがあり、周囲の異形の群れがまるで二人を祝福するかのように静まり返っている。


 その顔を見た瞬間、小夜が短く息を呑んだ音が臥竜の耳に鮮明に届いた。

彼女の瞳は大きく見開かれ、唇がわずかに震えている。

臥竜はその表情に一瞬の違和感を覚えたが、理由を問う暇もなかった。

「知っているのか?」と口にしかけた瞬間、佐嶋が振り返った。

その瞳には勝ち誇った光が宿り、何も言わぬまま女と共に軍団の奥深くへと歩み去っていく。


 背後で、地鳴りのような声が洞窟全体を震わせた。

伊弉冉いざなみの声だ。

「葦原の者よ……お前たちはまだ、すべてを知らぬ」

低く重いその言葉は波紋となって空気を震わせ、やがて洞窟の闇に溶けるように消えていった。

黒い水面が静かに、しかし確実に閉じていく。湖底の穴は音もなく塞がり、それに伴い黄泉軍団の影も、白蛇の長い身も、闇の奥へと引きずり込まれるように姿を消した。

残されたのは、元の闇と静寂だけだった。

平松は茫然と湖畔に立ち尽くし、ただ目の前で起きた現実を受け止めきれずにいた。


小夜の肩はなお微かに震えていた。それは寒さのせいではなく、胸の奥に刻まれた、決して消えぬ深い記憶のせいだった。


「了」



この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。

登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。

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