第十四章 妖しの軍団
穴の底から、湿った腐臭とともに何かが蠢く音が響いてきた。
ズズズ……ズズズ……。
暗闇の奥で、無数の目が瞬いたかと思うと、それらが一斉にこちらを見上げる。
次の瞬間──穴の縁を押し破るように、黒く粘ついた塊が溢れ出した。
それは人の形をしていない。
腕のようなものは二つもあれば、十もある。
顔は溶けかけ、皮膚の下で蛆のようなものが蠢いていた。
ひとつひとつが異なる形をしており、もはや生き物と呼べるかどうかも怪しい。
山のように折り重なりながら穴から溢れ出す様は、まさに地獄そのものだった。
平松は喉を引き裂くような叫びを押し殺し、臥竜の肩を掴む。
「退け! ここはもう持たん!」
だが、異形の群れは止まらない。
その中央──穴の奥から、低く唸るような地鳴りが響き始めた。
まるで山が這い寄ってくるかのような振動。
やがて、それは姿を現す。
闇の底からせり上がってきたのは、雪のように白く、湿った光を放つ巨大な蛇だった。
胴回りは人家の壁ほどもあり、頭部だけで人間の背丈を優に超える。
金色の瞳が冷たく光り、その双眸が、ただの蛇ではないことを告げていた。
鱗は一枚ごとに鋼のように硬く、かすかな動きで周囲の空気を切り裂く。
白蛇は口を開いた。
そこから吐き出された息は、まるで冬の嵐のように冷たく、そして腐っていた。
背後の妖しどもが一斉に膝を折り、主の前にひれ伏す家臣のように動きを止める。
平松はその光景に背筋が凍るのを感じた。
──これは単なる怪物ではない。
もっと古く、もっと禍々しい“神”の名残りだ。
佐嶋が声を張り上げる。
「見よ──黄泉津大神と黄泉軍!
世界最強の軍団を率いる、最古の神──**伊弉冉**様!
お慕い申し上げております!」
その瞬間、巨大な白蛇が動きを止めた。
金色の双眸が、ただ一人、佐嶋を射抜く。
そして──地をも震わせるような低く野太い声が響いた。
「……お前が、千引岩戸を開いたのか」
「はい……黄泉津大神様」
白蛇は長い息を吐き、ゆっくりと頭を持ち上げる。
闇の奥で黄泉軍の影が蠢き、地鳴りのようなざわめきが広がった。
「伊弉諾が、この戸を封じて逃げ去ってから……どれほどの歳月が流れたか……」
その声は古の海鳴りのように重く、冷たく響く。
「ようやく──葦原中国へ出ることが叶った……
この日を、私は……永劫の闇の底で待ちかねていた」
その言葉とともに、白蛇の背後で黄泉軍が一斉に吼え、地面が脈打つように揺れる。
轟音が湧き上がる。
最初は地鳴りのような低い唸り──やがて幾千もの声が重なった咆哮へと変わった。
穴の縁を揺さぶる振動とともに、黒く淀んだ波が押し寄せてくる。
それは泥ではない。
屍のように白濁した肌、獣とも人ともつかぬ肉塊。
あるものは腕が四本、あるものは顔が二つ。
裂けた口からは長く湿った舌が垂れ、腐臭をまき散らす。
その群れが層を成して這い上がる。
一歩進むたびに土が沈み、地面の下から新たな異形が押し上げられる。
百や二百ではきかない。
視界の果てまで続く暗黒の奔流──黄泉軍。
完全に這い出た彼らは、一斉に膝をつき、白蛇へ頭を垂れた。
永遠の主の帰還を迎える家臣のように。
白蛇──伊弉冉は黄金の瞳を細め、鎌首をもたげる。
「聞け──我が眷属たちよ……
葦原中国は、もはや封じの力を失った。
奪え……踏み荒らし、血と炎でその地を覆い尽くせ……」
その言葉が闇に溶けた刹那、黄泉軍の耳膜を破らんばかりの咆哮が、洞窟の奥底から奔った。
轟音は岩壁を震わせ、耳朶を裂くほどの衝撃となって空気を引き裂いた。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。