第十三章 黄泉比良坂
平松と臥竜は、目の前に広がる光景に息を呑み、一瞬、我を忘れた。
天井には、月明かりを屈折させながら湖面を照らす“もう一つの湖”が、ゆらゆらと浮かんでいる。
それは重力から解き放たれたかのように、静かに波立ち、光を揺らしていた。
月の光は岩肌から湖面までを柔らかに包み込み、岸辺の大岩には黄金の陰影が差している。
黒く深い湖も、その光を反射して、ところどころが金色にきらめいていた。
その美しさが、かえって不気味さを増していた。
平松が低くつぶやく。
「……なんだ、ここは?」
臥竜は天井を指さし、かすれた声を漏らす。
「あ、あれ……湖か?」
天井に浮かぶ湖は、月明かりを屈折させながら揺らぎ、まるで無重力の中に漂っているかのようだった。
柔らかな光は岩肌から湖面までを包み込み、岸辺の大岩には黄金の陰影が差し、黒い湖面もところどころ金色に輝いていた。
その静寂は耳鳴りさえ感じさせ、二人は息を呑んだまま立ち尽くす。
しかし、岸辺に据えられた台の上で白装束の小夜が横たわっているのを見つけると、二人は我に返った。
「小夜!」
臥竜が叫び、駆け寄ろうとした瞬間──
月明かりに浮かび上がったその顔の半分は、皮膚が焼け爛れ、白い頬骨が露出していた。
骨の窪みには白く細長い蛆が蠢き、口の中へと這い込み、また唇の裂け目からにゅるりと顔を出す。
その動きに合わせて、生温い腐臭がふわりと漂った。
次の瞬間、小夜の体がぴくりと小さく痙攣した。
まるで意識の残滓が最後の抵抗を示すかのように、肩がわずかに震えたのだ。
臥竜は息を呑み、次いで肺の奥から押し出すような叫び声を上げた。
闇の奥から、低い声が響いた。
「触るな、臥竜君──小夜はまだ生きている」
その声と同時に、闇がわずかに揺れた。
動き出した影は、やがて宮司・宮島の姿を結ぶ。
月明かりの下、その手には南部十四年式拳銃が握られていた。
黒光りする銃口は、真っ直ぐに平松と臥竜を射抜く。
「宮島、貴様っ!」
臥竜がいきり立ち、殴りかからんと一歩踏み出す。
だが平松が素早く腕をつかみ、小声で「今は抑えろ」と囁いた。
臥竜は歯を食いしばり、小さくうなずく。
平松は目を細め、低く言い放った。
「宮島……いや、佐嶋義徳。宗教法人『大光教会』の代表だってな。つまり教祖様というわけか」
宮島は口の端をわずかに吊り上げ、ゆっくりと頷く。
「ほう……私のことにずいぶん詳しいようだな。そうだ、私が『大光教会』の教祖、佐嶋義徳だ」
平松はさらに一歩踏み込み、声を低めた。
「外事がお前と北朝鮮の武器密輸を洗っていた。するとそこに、赤軍の田中の影が浮かび上がった」
佐嶋の目がわずかに細くなる。
沈黙が数秒続き、その間にも南部十四年式の銃口は微動だにしなかった。
やがて彼は、低く笑みを漏らした。
「……話が早い」
平松はその反応を逃さず、畳みかける。
「田中はお前の資金ルートを通して武器を受け取っていた。
釜山から入った小銃も、港で消えた弾薬も──全部、お前の神社を経由していたんだ」
佐嶋の笑みがわずかに消え、代わりに冷ややかな視線が向けられる。
「……それがどうした。必要な者に必要なものを渡したまでだ」
平松の目が鋭く光る。
「なぜ田中を殺した」
「別に私は殺していない」
佐嶋は肩をすくめ、淡々と語り始めた。
「奴は私に、もっと安くカラシニコフを手に入れたいと言ってきた。
できないなら、私の素性を明かすとな。宝物殿に何があるか知っているとまで言った」
佐嶋は一瞬だけ目を細め、薄く笑った。
「焦ったが、何のことはない。奴の言っていた宝物殿の秘密とは、三八式のことだった。
そこで、私は奴を誘ったのだ。
実はあの先には風穴が奥までつながっていて、そこに旧陸軍の武器や弾薬、さらに金まで隠してある。
北朝鮮とは今まで通りの値段で取引する代わりに、これらをすべてお前にやろうとな」
佐嶋の口元が歪む。
「この湖と、その上に浮かぶ湖を見たあいつの驚愕の顔──今でも思い出して笑える。
奴は『どういうことなんだ、なんだここは?』と、恐怖におびえながら叫んでいた」
「俺をだましたのか?」と田中が震える声で言ったとき、私は銃を抜き、静かに答えた。
「だますも何も、君から私を裏切ろうとしたんだろう。これをな、報いというんだよ。
さあ湖に向かって歩け。……早く、それとも引き金を引いてもらいたいのか?」
奴は観念したように湖へ歩み出し、暗い水に足を入れた瞬間──
水面の下からいくつもの白い手が伸び、奴の足首を掴んだ。
驚愕した田中は後ずさろうとして岩に頭を打ち、意識を失った。
そしてそのまま、冷たい湖の中へと引き込まれ、姿を消した。
臥竜が息を呑む。
「そんな馬鹿げたことが……」
佐嶋は静かに笑い、指先で湖を示した。
「臥竜君、これが真実だ。記紀に書かれた黄泉は、ここに存在する。見ろ」
視線の先、湖面の奥に巨大な闇の穴が口を開けていた。
「これが、伊弉諾が黄泉の住人となっていた伊弉冉から辛うじて逃れたという坂──黄泉比良坂だ」
その穴からは、腐臭を孕んだ風が絶え間なく吹き出し、肌を刺すように冷たかった。
闇の奥では、何かがこちらへと近づいてくる──確かな気配と共に。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。