第十二章 封印の破綻
古墳の行き止まりには、闇を湛えた巨大な湖が広がっていた。
天井の裂け目から差し込む月光が、地上の湖面を反射して乱舞し、洞窟内の湿った空気を銀色に染める。
遠くで水滴が落ちる音が、静けさを破るたびに耳の奥で反響した。
湖のほとりには、旧日本軍の軍装に身を包み、腹に短剣を突き立てた男が横たわっている。
その肌は死人とは思えぬほど白く、青白い光を吸い込むたび、血管が淡く浮き上がった。
冷気と鉄の匂いが混じり合い、喉の奥を刺す。
中央には古びた木製の祭壇。
その上で、白装束を纏った小夜が静かに眠るように横たわっている。
蝋細工のように冷たいその頬は、月光を受けてかすかに青く輝いていた。
「小夜……お前が二十歳になるまで、ずっと待っていた」
佐嶋の声は湿った洞窟の壁を這い、耳元で低くまとわりつくように響く。
「古くからの言い伝えがある──『神が宿る器は、二十歳の魂にして満つる』。
十三参りはまだ知恵の段階、十五歳の元服でも未熟。魂魄が完成されるのは二十歳だけだ」
一拍の沈黙の間に、洞窟の空気はさらに冷たく沈んだ。
「さらに──穢れを知っていなければならない。穢れとは、死と血と交わり。
お前は臥竜君とその穢れを分かち合った。黄泉の伊弉冉は、それを好む」
佐嶋は白布の上に、儀式の道具をひとつずつ置いていく。
龍を模した籠が硬い音を立て、薪からは湿った木の匂いが立ち上る。
最後に、阿比留文字が刻まれた護符を取り出し、小夜の胸の上に静かに並べた。
「お前は黄泉の依り代──触媒であり、黄泉への“出入り口”そのものだ」
額に手を当て、低く祝詞を唱え始める。
「幽世の大神、黄泉津大神、憐れみを給い穢れを給え──忌魂奇魂守り給い幸い給え……」
三度目の詠唱とともに、小夜の身体がびくりと震えた。
白装束の裾がふわりと浮き、見えぬ風が吹き抜けたように波打つ。
奥の石壁が水面のように揺れ、波立ち、やがてゆっくりと裂けていく。
その先には、青黒い水を湛えた巨大な洞窟が口を開けていた。
佐嶋は呟く。
「常世の波と現世の波が交わる時、黄泉の道が開く。
月夜にだけ現れる“逆さ潮”が、それを導くのだ」
湖面の上には地上の湖が幻影のように重なり、透過する月光が水底を淡く照らしている。
小夜の身体は再び淡く輝き、波と共鳴するように小刻みに震えた。
周囲の空気は一気に冷え込み、吐息が白く変わる。
「伊弉諾の禊によって生まれた三貴子。
そのひとり、月読命(つくよみ の みこと)──記紀では語られぬその神こそ、現世と黄泉をつなぐ橋渡し」
佐嶋の瞳が妖しく光った。
小夜の身体から放たれた光が湖面に降り注ぐ。
その瞬間、岸辺から奥へ向かって静かな流れが生まれ、やがて勢いを増していく。
水は不自然に左右へと割れ、渦を巻きながら退き、その中心に──暗く深い、地下へと続く坂道が姿を現した。
「……ついに」
佐嶋は恍惚の笑みを浮かべ、低く呟いた。
――そのとき、湖の暗い穴の底から微かな足音が近づいてくる。
湿った石を踏む音、かすかな金属の触れ合う音。
佐嶋は祭壇から目を離さず、気配だけでそれを感じ取った。
そして、光と冷気が渦巻く中、儀式は最終段階へと進もうとしていた。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。