第十章 風穴の奥へ
平松はスーツの内ポケットに手を入れ、革製ホルスターの感触を確かめた。
小型の回転式拳鉄――38口径のチーフスペシャル。公安の私服刑事に支給される標準装備だ。
滅多に抜くことはない。
それでも、抜かざるを得ない状況が――今回、起こり得る気がしていた。
午前の会議の終わり際、課長は机の上に封緒を置きながら、低い声で言った。
「もしもの時は使え。ただし――慎重にな」
その言葉が、事実上の許可だった。
平松は拳鉄の重みに、ほんのわずかな現実味と、いつもよりも少しだけ濃い死の気配を感じていた。
神社に到着すると、臥竜は皿が二組並べられた膳の横で、うつ伏せに倒れるように眠っていた。
寝息は荒く、呼びかけにも反応が鈍い。背中を揺すり、合わせるように名前を呼びかけると、ようやく眠りの幕から目を覚ました。
だが眺める眼は自然とは言い難く、ろれつは回らず、意識はほとんど潰れている。
膳には食べかけのカレーが残っていた。
小夜と宮島の姿がなく、不在。平松はただちに異常を察知する。
ようやく身を起こした臥竜が、うわごとのような声でつぶやいた。
「……食ってすぐだった……急に強烈な眠気に襲われて……」
「何を食った?」
「カレーだ。」
平松の表情がさらに陰り、声を絞り出すように漏らした。
「……睡眠薬、か」
臥竜は素っ頓狂な声を上げる。
「え!? ……だ、誰が?」
「やつらの常とう手段だ。おそらくブロバリンをそのカレーに入れたんだ。カレーなら味が濃いから、気づかれずに済む」
「だ、誰がそんなことを……?」
「カレーを作った本人、宮島だ」
「え? ……なぜ!?」
「奴は戦時中、王町葦夜計画に関わっていた」
「王町葦夜計画……?」
「その話は後だ。小夜と宮島を探すのが先だ」
臥竜はようやく事態をのみ込んだように、慌てて周囲を見回す。
「小夜、小夜!」
社務所の料理に仕掛けられた罠。そして、小夜と佐嶋はどこへ消えたのか――
社務所の隣にある住宅は、外から見ても内部の明かりは一切なく、真っ暗だった。
鍵はかかっておらず、平松と臥竜は互いに目配せしてから、慎重に中へ踏み込んだ。
靴を脱いで廊下を進み、順に各部屋を確認していくが、人の気配はどこにも感じられない。
窓は閉じられ、空気はひんやりとしていた。
平松は臥竜に問いかける。
「小夜はなにか言っていなかったか? たとえば洞穴とか、隠し場所のような話を」
臥竜は頭をたたきながら顔をしかめ、記憶をたぐり寄せた。
「いや、言ってなかったな。そんな変なこと言ってたら、記憶に残ってるはず。
ただ──」
「ただ?」
「二人で穂高神社に行ったとき、神職が面白いことを言っていたんだ」
「なんだ?」
「小夜は、安曇氏族の本家だと。つまり、古代から続く神の家系だって」
「神の家系……」
「それと、磯良家は“穴をふさぐ封印の鍵”を持ってる安曇氏族の末裔だとも」
平松は口を閉ざし、わずかに眉をひそめた。事態は想像以上に深い層へと潜り始めていた。
平松が低く呟いた。
「眠っている女を抱えて、ひとりで長距離を運ぶのは骨が折れる。仲間がいればまだしも──それでも誰かに見られる危険は高い。……車かもしれないな」
彼は足元の泥に目を落とし、しゃがみ込む。
「だが、ここじゃない。ぬかるみに残っているのは、ジープのタイヤ痕だけだ」
臥竜が苛立ちを隠せず声を荒らげた。
「じゃあ、どこへ行ったんだ! これじゃまるで──神隠しじゃないか」
よく見ると月明りで、社務所の裏手にある宝物殿の扉が、わずかに開いていた。
平松が手をかけると、古びた蝶番がきしむ音とともに、重い扉が内側へと開いた。
内部は真っ暗だったが、壁際に備え付けられた白熱電球を見つけ、スイッチを押すと、ぼんやりとした明かりが庫内を照らし出した。
中には、祭事で用いる神具や衣装、木箱に収められた古文書などが整理されていた。
しかし、そこにも人の気配はなかった。
「誰もいません。次を探しましょう」
臥竜が声を落として言いかけたとき、平松がぴたりと足を止めた。
「……ちょっと待て。あの箱はなんだ」
祭祀道具が整然と並ぶ中、ひときわ異質な存在があった。
古びた大きな鉄箱が、まるで無理やり中央に引きずり出されたかのように、不自然な位置に置かれていた。
「小夜!」
臥竜が叫び、駆け寄ってその蓋を乱暴に開けた。
だが、次の瞬間、彼の動きが凍りつく。
「どうした!?」
平松が覗き込むと、そこには複数の銃器が詰め込まれていた。
「これは……旧陸軍の三八式歩兵銃が十数丁。それに実弾も……」
「な、なんなんだこれは……?」
「やはり、そういうことか」
鍵をこじ開けられた鉄箱の隅に、ひっそりと一通の封筒が押し込まれていた。
平松は手を伸ばし、慎重にそれを引き抜く。
封筒は長年の湿気と錆の匂いに晒され、紙は黄ばみ、端はほつれている。
中を改めると、折り畳まれた古地図と、乱れた筆跡の走り書きが現れた。
インクは薄れ、ところどころ滲んで判読が難しい──。
その地図には、一見して古墳と思しき構造物が描かれており、そこから地下へ続く通路が引かれていた。
その墓の名には、ボールペンで“磯良古墳”と記されていた。
「……これは湖だ。それに神社……この古墳、ここじゃないか?」
平松は古地図の一点を指さし、宝物殿の床を見やった。
「──この真下だ」
だが、描かれた湖の位置は、現代の地形と噛み合わない。
胸の奥に、得体の知れないざわめきが広がった。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。