ちびきのいわと プロローグ
終戦の日。
湿った夏の空気が、湖面の上に重く沈んでいた。
皇道急進派の一人、青年将校の副官は、ただ一人そのほとりに立ち尽くしていた。
背後の地面には、長く引かれた巻き取り線。
その先には軍用ラジオが置かれ、かすれた陛下の声が小刻みに震えながら響いてくる。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び──」
副官の瞳は、湖面に映る空を見ているようで、何も見てはいなかった。
ゆっくりと右手が軍刀へ伸び、刃を抜き放つ。
刀身の中央に白布を固く巻き付けると、迷いなく腹へと押し当てた。
鋼が肉を割く鈍い音。
白布は瞬く間に紅に染まり、熱い血の匂いが湿った空気に溶けた。
この場に残っている将校は、もう彼と佐嶋義徳だけだった。
他の仲間たちは再起を誓い、ソ連が駐留する朝鮮半島へと渡っていた。
共産主義に傾き、ソ連のスパイと通じていた彼らは、すでに「招かれて」いたのだ。
「やめろ……まだ生きろ!」
佐嶋は必死に副官の肩を掴み、声を荒げた。
同じ長野県出身、年齢も近く、思想も同じだった。
だからこそ、死なせたくなかった。
しかし副官は弱く笑い、「日本が負けたのに生きるのは恥だ」と言い残すと、静かに息を引き取った。
佐嶋は膝をつき、唇をかみしめ、そして泣いた。
その亡骸を抱き上げ、湖のほとりに丁寧に横たえる。
湖面は風もないのにわずかに波打ち、足元の水がそっと彼の軍靴を濡らした。
──それから数日後。
死体からは腐臭がしなかった。
むしろ肌は白く透き通り、頬には血色が残り、生きているかのようだった。
湖の奥底から、小さな水泡が立ち上る。
それは音もなく弾け、消えた。
この物語はいかなる団体・宗教・思想とも関係ありません。
登場する人物・団体・地名はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。