離れ屋
これは、居酒屋のカウンターでたまたま隣に座った男性から聞かせていただいた話である。仮に彼をAさんとしておく。
Aさんの母親はとある山の麓の村と呼んでも差し支えないような小さな町の出身であった。Aさんは正月とお盆のときだけ両親に連れられてそこへ行っていたそうだ。Aさんが普段暮らしているところとは違い、自然に囲まれてはいるものの、コンビニもショッピングモールも車で行かなければいけない隣町にしかなく、彼自身外遊びが好きでもなければ、一緒に遊ぶ友だちも年の近い親戚もいない、帰省自体はとても退屈なものだったという。それでもついて行っていたのは祖父母からお小遣いを貰えるからだ。特にお盆は両親に内緒でお小遣いをくれていたので、お年玉とは違い貯金に回す分を取られずにすべて自分のものにできた。退屈なのも持っていったゲームをやっていればしのげたし、大体一泊して翌日の昼には帰路へつくくらいの時間なら我慢ができた。
Aさんの母親の実家は田舎らしく広い敷地に古いが立派な木造平屋建の家屋があり、そこに祖父母が二人で暮らしていた。もう一つ棟を共にしない小さな離れ屋もあったが、そこは彼が行くようになったときにはもう使っていなかったらしく、いつも木製の雨戸がきっちり閉まっていた。しかし、ある年のお盆に一度だけその雨戸が開いているのを見たという。普段閉ざされている場所が見えるようになっているというのは少年心をくすぐるものがあって、ただ、好奇心が向いているのが他の人にはバレてはいけない、そのときはそう思って一人になってからこっそり離れ屋を見に行った。
一面のガラス戸の向こうは四畳半の和室が二部屋あるだけで特に面白いものもなく、戻ってゲームでもやろうと踵を返そうとしたとき、ふと目に入った縁側にぎょっとした。一か所なぜか濡れていた。それはびしょ濡れの誰かがつい先程までそこ座っていたかのように見えた。恐る恐る近付いて覗き込む。縁側の板に染み込んではいるが乾きかけという様子でもない。ジリジリと日光が肌を焼き、とても暑い日だったと覚えている。自身の顎からぽたりと垂れた汗が踏み石に落ちたが、そんな僅かな水滴はあっという間に乾いてしまう。だというのに目の前の濡れた跡はまだ瑞々しい。
ガタンッと鳴った音に驚いて弾かれるように顔を上げるとガラス戸の内側に濡れた人の手形が二つついていた。ヒッと喉から息が漏れて、生まれて初めて腰を抜かしてしまった。濡れた手形から目が離せず、ツーッとガラスに水が滴っていくのを見ていた。細くて長い指、自身のものより大きいが、以前手比べをした父親のものより小さいから女性の手形かもしれない、恐怖を覚えながらもそんなことを考えていた。やがて、ガラス戸がガタガタと音を立てて揺れ始め、Aさんは手形がガラス戸を揺らしているのだと思った。
そんなとき、後ろから「Aくん?」と祖母の声がした。勢いよく振り返ると祖母がこちらに向かって歩いてきていた。Aさんは「おばあちゃん!」と声を上げ、近くまで来た祖母に縋り付いた。
「おばあちゃん! あそこになにかいる!」
「ああ、ごめんね、Aくん、今閉めるからね」
祖母はAさんをなだめるとあっという間に雨戸を閉めてしまった。その間もガラス戸は鳴っていたが、完全に雨戸が閉じられるとその音は止んだという。
「その後、祖母にあれはなんだったのか聞いたんですが、微笑むだけでなにも教えてくれませんでした。自分はあれ以降帰省しても離れに近づかなかったし、祖父が亡くなったのを機に祖母は母方の伯父が住んでいるところの近くに引っ越して、そのときに離れも取り壊したと聞いています。母にも一度聞いてみたんですが、もう関係のないことだからと一蹴されてしまって」
「お祖母様にもう一度訊ねることはできないんですか?」
「残念ながら、亡くなったんですよ先月。あの家自体ももう他の人が住んでるらしいです。離れを取り壊してしまって、あれは今、一体どこにいるんでしょうね」
そう言って、Aさんはお冷を飲み干して帰っていった。私は、彼が机の上に残した瑞々しい手形に思わず見入っていた。