マーキング
「なにしてるんだろ、私」
日曜日の昼前。
外は晴天。
4月初めの、穏やかな一日。
お花見に絶好の日だというのに、陽子は家で1人だった。
やる事は沢山あるのだ。
掃除機をかけて、風呂場を掃除して。
シーツやガーゼケットが風にはためいて、影になる。
脱ぎ散らかした服を拾ったところで、ふと呟いた。
口にしてしまったら、何だか本当にやるせない気持ちになった。
改めて、部屋を見回す。
目に入るお気に入りの、縁の部分が薄いピンクでその下が茶色のカップ。
お揃いで、縁の部分が淡い水色でその下が茶色のカップが流しの中にある。
流しに隣の水切りカゴには水色の皿が2枚。
同じブランドの水色の小ぶりのサラダ皿が2枚。
風に気持ち良さそうにはためいているガーゼケットはベージュに水色と茶色の格子柄。
アイボリー色のシーツ。
カーテンもベージュに小さな水玉模様。
落ち着いた色合いで1人暮らしの部屋で可もなく不可もない。
大きく息をはいた
2回目の洗濯が回っている。
やる事は、まだある。
まだ、あるのに立ち上がれない。
「まるで、マーキングみたい」
気がついてしまったから、だ。
この部屋にある全ての物が、自分という存在を主張している。
当たり前だ。
カーテンの柄だって、皿だってカップだって、全部選んだのは陽子だ。
水色のと茶色の組み合わせが一番好き。
ガーゼケットの触り心地も好き。
「俺、拘りないからなぁ、選んでよ」
そう言って恋人の遼太は陽子に任せた。
会社の独身寮が老朽化して、追い出される事になった遼太が1人暮らしをする事になったからだ。
合コンで知り合って、付き合いだして半年。
密かに結婚を意識した陽子は、少しだけガッカリもした。
確かに知り合って半年じゃ、まだプロポーズは早いかな、そう自分を慰めてみた。
だから気を取り直して、男の部屋で違和感のない色合いを選んだ。
自分の好きなモノに囲まれたこの部屋の居心地は、とても良かった。
実家住まいに陽子が、もし自分が1人暮らしをするなら、いつか結婚した後でも使える様な物を、という夢と憧れも込めて選んだのだから、当然といえば当然だ。
もうすぐ、この部屋の更新時期だ。
もう2年半付き合っている。
来月、陽子は29になる。
30までには、結婚したい、だって2年半付き合ったのだから。
そんな焦燥感が、陽子を苦しめる。
だが、結婚をせっついて振られたら。
そう思うと、中々前に進めなかった。
1年くらい前に、結婚したいと伝えたら。
困った様な顔で曖昧に微笑まれた。
「陽子は料理も上手いし、掃除も上手い。
よく気が利くし、良い嫁さんになるよ」
そう冗談の様に言われて、冗談でお買い得でしょ、と言ってしまった自分を殴りたい。
あの時、もっと突っ込んで気持ちを聞いていたら。
良いお嫁さんになりたいのではなく、貴方のお嫁さんになりたいの。
そう、ハッキリと言えてたら。
その答え如何で、自分で区切りを付けて先に進めたのに。
そんな想いが胸の中に湧き上がる。
そこで堂々巡りが始まるのだ。
結婚しないって言われたら、別れていたのか?
結婚の為だけに付き合っていたのか?
好きだから、側に居たいから、付き合っていたのに。
好きだ、それは確かだ。
喧嘩して、仲直りして。
お互いに歩み寄ったり、反発したり。
だけど付き合いだして2年半。
出会った頃の様な狂おしいほどの想いは、形を変えていったのだろう。
今、遼太にあるのは
惰性?
それとも情?
まだ、あの時の思いで愛してくれている?
この関係性を表す言葉を探そうとして、やめた。
洗濯が終わったお知らせの機械音がなったから。
ノロノロ立ち上がり、洗濯機に向かう。
洗濯を無心で干していると、着信メッセージ音が鳴った。
「今、空港。これから帰る」
同期の結婚式で札幌に行っている遼太からだった。
「気をつけて帰って来てね」
当たり障り無い返信を返す。
残り僅かな洗濯を干し終わらせた。
陽子は無言で、洗面台に向かう。
陽子の歯ブラシとボディータオルをゴミ箱に捨てた。
見つけた紙袋にシャンプーとコンディショナー、化粧落としや化粧水、乳液などを無造作に突っ込む。
部屋を見回して、パジャマも突っ込む。
何も気にせずにポイポイと入れた紙袋の中身は乱雑で、まるで陽子のごちゃごちゃになってしまった気持ちのようだ。
こんなに気持ちの良い青天の日に。
いつも通りの行動をしていただけなのに。
なのに、何で涙が出るのだろう。
ぐい、と乱暴に涙を拭う。
玄関に向かって、靴を履く。
鍵を閉めてから、この鍵をどうしようか考えた。
郵便受けに入れる事も考えたが、防犯上どうだろうと迷ってやめた。
後で考えよう。
そう決めて、陽子は前を向いて歩き出した。
夕飯用に買い込んだ食材は手付かずで冷蔵庫の中。
それすら、どうでも良い。
とても重い荷物を、ずっと持っていた様な気分だった。
今、陽子の足取りは軽やかだ。
駅までの道を黙々と歩いた。
一度も振り返らずに。
電車では揺られながら、フ、と自嘲する。
思い出したのは、あの部屋。
もしかしたら、又、いつものように戻るのかも、しれない。
昨日の続きの様に。
何事も無かったかのように、微笑んで和やかな時間を過ごす。
それも、又、一つの答え。
もう二度と、戻らないかもしれない。
それも又、一つの答え。
あの部屋のに隅々にある陽子の痕跡。
男が使ってもおかしくないデザインではある。
敢えてそんなデザインを選んだ。
遼太も喜んでいた。
自分なら選ばないよ、こんなお洒落なの、そう言って嬉しそうに笑っていた。
遼太は気が付かないだろう。それが、どんな意図だったか、なんて。
だが女だったら。
女が選んだと一目で分かる物が沢山ある。
もし新たに誰かと付き合ったとして。
あの部屋に足を踏み入れたら。
その「彼女」は居心地の悪い思いをするだろう。
女の気配がするその部屋に。
陽子は、仄暗い想いで口角を上げる。
電車は、陽子を運んで遼太の家から遠ざかる。
速度をあげて。
終