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009 貸傘

 話中の単語に脳を揺さぶられて狼狽えている間に、トラ耳の男はその「両替ができるところ」への行き方を説明し始めた。

 この街、或いはこの世界に根を下ろしているならば当然知っているべき施設なのかもしれないが、目を見開いて懸命に話を咀嚼する私を前に、ことさら丁寧な対応を取ることを決めてくれたらしい。

 分かりやすい道案内だ。有り難い。


 そこは、どうも大通りを少し戻ったところにあるらしかった。

 いくつかの店を挙げて詳しい立地が語られ、それには店名だけでなく売り物や外観の詳細な描写も当然のように含まれ、彼の喉がみるみるとその「両替ができるところ」の輪郭を花の群れの中に作り上げてゆく。


「でも簡単なものなら物々交換できる店も少なくないですし、これからすぐまた出発なさるなら無理に両替の必要も無いかもしれません。別の街ではお客さんのお金も使えるかもしれませんし」


 ひとしきりの長台詞を彼はそう結んだが、もうそこへ向かうことは確定しているも同然である。

 そんなに情報量が多いわけでもないのに、沢山のことを脳に留めおく必要があるように感じて仕方ない。

 そもそも、人とこんなに話をするのはちょっと久しぶりだ。


 物々交換かぁとぼんやり思いつつ、お礼を言おうとしたところで、隣から別の声が上がった。


 ひと組の男女、この二人はいわゆる人間であったが、彼らがなんとかかんとかの苗についてあれこれと相談し始めたようだ。

 指をさし合いながら苗に向かって何度か発声されている「なんとかかんとか」は、早口でよく聞き取れない。


「あっ、ごめんなさい。お邪魔だった。本当に助かりました、ありがとう。そこへ行ってみます」

「いえいえ、お役に立ててなにより!」


 軽い黙礼をすると、青年は返礼代わりにまた笑う。

 職種を鑑みても、そして私に比してもよく笑う男である。私が立ち去るまで私から目を離すまいとする様子が、ここに来てさらに私の好感を煽った。

 お金、リジィさえあれば花束のひとつでも購入するのに、例えその使い道が一切なかろうと…… などと本気で思う。


 そして私はほんの少し名残惜しくさえ感じながら、慌てて踵を返した。


 雨が降る。


 ゆっくりと、花の香りが背中の後ろに遠ざかる。


 ーーさて、しかし。

 目的ができるのは良いことだと思えた。


 煉瓦敷の道を、先ほどまでよりは少しようようと歩く。

 この小道の奥も気にはなるが、多分時間は溢れんばかりにある、というか区切ってまでどうこうする段階にないような気がするので、また後でということにすれば良いだろう。

 「しゃり、しゃり」と足元が軽やかな音を立てる。


「お客さん!」


 とそこへ、後ろ頭めがけて先の店からの呼び掛けがあった。


 もう結構な距離が離れてしまったが何かあったろうかーー少したたらを踏んで、振り返る。


 苗の方からこちらに体を向けかけて、トラ柄のしっぽを俊敏に動かしながら青年が、「少しお待ちを」と言いながら店の奥に引っ込んで行くのが見えた。何だろうか。


 彼が戻ってくるのをゆっくりと逆戻りしながら待つこと、数秒。

 思ったよりも迅速に彼は飛び出して来て、さらに私へと駆け足を向けた。


「雨、少し強くなるかもしれない。貸傘です。お返しはうちじゃなくても大丈夫です。うち店仕舞い早いから来てもらった時あけてるか分かりませんし、傘返したいっておっしゃって了承する店は結構ありますから、どこでも構いません」


 貸傘!優しい!


 大変な親切である。

 手渡された傘を掴みながら、あまりの手厚さにやはり、リジィさえ持っていれば…… という詮無い思考を止めることが出来ない。ううん、この街は皆この調子なのか? 彼の個性か?

 いや、それも気にはなるが「適当な店」というのもかなり気にはなるところだ。しかし流石に「もう少し詳しくその辺を」とは聞けまい。

 一度話を終えた接客相手があまり話を長引かせて、彼の愛店がなんとかかんとかの苗の売り込みに失敗してはいけない。

 何も買わなかった客にかまけて、商機を逃したという寂しい結果になってはことである。


 結局何度目かわからないお礼と共に、ありがたく傘を受け取って、今度こそ私は橙の一角を見事に染め抜く緑のオアシスを離れた。

 私がそうしないと、彼は私を見送る地点に立ったままなのだ。


 未だ品定めの楽しげな声は途切れず続いていた。

 それはこの街の、この世界の中に生きている人たちの作り出す「生活」そのものの音である。


 ーーこの雑な貸傘システムに関しては、いくらもしない内に本当に雨足が強まり、そして傘を広げてすぐ、一応は納得をすることができた。


 傘の材質はビニールでも紙でもなかった。

 何か植物か、もしかすると動物の皮だろうか? 慣れ親しんだメイドインチャイナより分厚く、向こう側も見えず、骨も太かったが、決して重くはなかった。

 そしてそこにはつまり、大きな、ピンク色の、可愛らしい花の絵が描かれていたのである。


 雨の日にありがちな沈んだムードとは対極に位置する華やかな、そして自分では絶対に選ばない柄だ。この配色の傘をさしたことは多分これまでに一度もない。視界の上半分にピンクのオーバーレイがかかっている……

 ……要するに、どの店が貸した傘なのか、この辺りの店の人間が見れば一目瞭然ということ、なんだろうな。


 さて「両替ができるところ」こと、プルシャン・フローなる場所に着いた頃には、雨は既に傘無しでの移動を躊躇うほどになっていた。


 そこまで時間がかかった訳ではなかったが、建物が見えてきた頃に急にどさっと傘の柄が重くなったのだ。

 勢い、街は慌ただしい。


 周りの店舗より四回りか五回りほど大きく、背の高い、モザイク柄の美しいステンドグラスの嵌め込まれた窓を持ったその、これもやはり石造りの建物はまるで教会のように見えた。

 というか、先程この前を通った時は教会だと思った。


 ふらっと入って良いような場所なのだろうか?

 雨に打たれて色が濃くなった石の連なりが、荘厳である。


 ……人の出入り自体は、結構多いのだ。それに、ものすごく適当に見える格好、本人にとってはそうでもないのかもしれないが、とにかくラフな様子で皆その扉を押し開けている。

 ただ、人と連れ立ってふらっと入るようなところではないらしい、誰もが目的ありげだ。


 ぱたぱたぱたと雨が絵の花を打つ。早足の人々が、立ち止まる私の体の横を滑るように移動してゆく。


 よし、止まっていても仕方がない。入ろう。

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