008 花と貨幣
2020/12/28 街の名前を『煉瓦敷の街』から『"煉瓦敷"』に変更
そこは、最初にこの場所にやってきた時の路地をもう少し広くしたような、ちょっとした小道だった。
店の数はいよいよぐっと減った。
幾人かがゆっくりと歩いているが、大通りに比べると僅かに古風な装いが目立つ。
花屋があった。
花屋は分かりやすい。
先程の大通りでは、お菓子屋、魔法使い風の嗜好と思われる服屋、人力車のパーツ屋ーー店先で修理が行われていたーーなどなど一目見てすぐそれと知れる軒の他に、屋号を読んですらーー瞳の翻訳機能の性能を信じるとするならばだがーー何の店やら検討のつかない店も沢山あったのだ。
ルートの祭結光星店。クリームのウォルター屋。ちらりと開いた入口扉や開け放たれた出窓のディスプレイに、鉄や光やシャボンの塊。見た事のない木の実、ねじ曲がった木の棒、積み上がるマッチ箱大の木箱…… そんなものを所狭しと並べた店が。
そんな中で、花屋は私の知っている花屋とほとんど同じような在り方をしているらしい、道ぎりぎりまで木の桶や樽が雑然として置かれ、鮮やかな切り花や鉢植えの色の洪水が目に飛び込んでくる。
文字部分がくり抜かれた、鉄の看板。
カロリー生花店。
立ち止まる。
知らない形の花ばかりだが、元々そんなに詳しくない。それでも雨に打たれて深さを増す花弁の重なり合いは瑞々しく、単純に美しいと思う。
見事な花の園だ。
「いらっしゃい! "煉瓦敷"にようこそ。歓迎に一束お作りしましょうか? お代は頂きますがね」
繁って絡まり合いながら伸びる花々の袖から声が掛かって、少し驚く。
背の高い青年が、エプロンで手を拭きながら私に笑いかけていた。
トラ柄の耳だ。
ーー"煉瓦敷"。
反芻しながらおずおずと口を開いた。
「あ…… その、こんにちは、えーと」
んん? と彼は小首を傾げる。瞼がぴくりと動くのが見えた。
「ごめんなさい、お金が無いんです、多分……」
「多分」
聞き返しながら、若いトラ耳の男は、随分大人びた顔でほがらかに笑った。
「ええと、お金は持っているんだけど、ここで使えるかどうかがわからなくて」
「なるほど。ちょっと拝見してよろしいですか?」
一瞬戸惑ったが、流石にここでどうこう、例えば有り金を盗まれるなんてことはないだろう。年齢的に相手は店主とも店員とも判断がつかないが、店を構えて商売している側の人間であるし、最も悪いケースで精々いざ取引成立となった時に余分な金額を取られるといったところか。
ただそれも、今は寧ろ少し恥ずかしいくらいの杞憂のように思えた。なんとなく。
「あれ、これは見ないお金ですね。ん? ニホンギンコウケン。……なんか不思議な記号ですね、そう読むんですよね。おかしいな、俺どっかで見たことあったかな? というか、紙ですか…… 申し訳ないです、うちではちょっとお使いいただけない」
「いやこちらこそ、多分無理だろうなとは思っていたから」
敬語で話すかどうか少し迷いつつ答え、彼の呟きの中に言語の自動翻訳が街の人間側にも適用されているらしいことを発見して驚き、同時にその言葉の中身にやはり少し落胆する。ううん、これからどういうことに…… なるのだろう、いや、すれば良いのだろう。
その一方で、青年の言い回しや態度に少し引っかかる部分を感じる。
ーーまるで日常的とは言えないまでも、多種のお金に接し慣れているかのようではなかったか。空港とか、都会の電気屋とか、そういう場所の店員のように。
「ここは私みたいな…… 違うお金と言うか、ええと…… この街で使われている以外のお金を持っている人が多いんですか?」
何だか妙な言い方になってしまった。
それに、そう、先程この男は「ようこそ」と言った。どうして私がこの街を初めて歩く人間だと分かったんだろう。商売人の勘か?
彼は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに破顔した。
「ええ、そりゃもちろん。やっぱり基本はリジィですけどね、固有の通貨がある別の街から来た方やら、俺なんかから見たら相当古い時代のお金を使う方やらもいらっしゃいますから。街に来たばっかりの方は特に…… うちは大通りに近いとこにあるし、出来る限り対応してます」
一度言葉を切って、彼はきょとんとする私の顔を見た。
きょとんとする他なかった。言葉の意味はわかるが、内容がピンと来ない。ただ、「リジィ」なる単位が私の知る「円」や「ドル」や「ポンド」に等しいのだろうというのは理解出来た。
それよりも、次いで私を襲ったのは衝撃である。この若い男の言葉はまるで、まるで、この街以外にも別の街が存在しているとでもいうようではないか! ……いや、当然存在してしかるべきではあるのだが、私はこの時までそんなことを考えてすらいなかった。
驚きに打たれている私を前に、彼は多少迷いつつも話を先に進める事にしたらしく、微かに掠れて勢いの良い、それでいて日常的に不特定多数の人たちに接している人間特有のまろい声で更に続けた。
「お客さんも大通りから折れてきてあちこちきょろきょろしてるのが見えてましたし、街に到着したとこで色々見て回ってるのかなと思いまして。ですから、リジィを持ってらっしゃらないというのも、わかる話で。うちに取っちゃそこまで大した問題じゃありません。……なんて事を、今のお客さんに偉そうに言っても説得力がないんですけど」
筋肉質な二の腕が申し訳なさそうなジェスチャーをとり、「ははっ」とその割に快活な笑いが続く。ゆすられる体の後ろに、しっぽが揺れるのが見え隠れする。
「ああ…… はあ、うん、ありがとう、よく分かりました。そう、その通りで、今日ここに来たばかりなんだ」
「ここに来る」というその意味が、果たして彼と私との間で正しく共有されているだろうかと感じつつも、結局私は心からの愛想笑いと共にそう答えた。
草木の匂いが満ちている。私にとって今まさに抱えている問題の一部が詳らかになった訳で、特ににこやかに笑うような心境でもなかったのだが、既にこの人好きのする青年に親愛の情を覚えていたし、そもそも私は愛想笑いというものもどちらかと言えば好きなのだ。
敵意はありません、感謝していますと、言葉以外でも伝えたいと思ったので、そうしたまでである。
へらへらよく笑う男だと最初の職場で言われたことがある。
嫌味だったような気もしたが、そう在りたいと思っていたので、望むところだった。……そんな日々はもう遠くなってしまったのだろうか?
「ははあ、やっぱり! そうですね、ただこう珍しいお金となると両替もできるかどうか…… もちろん試しに行ってみる価値はあると思いますが、ちょっと難しいかもしれません」
彼の言葉に、我に返る。
両替!
ーーまたもや、思いつきもしていなかった。