007 オープンワールド
さて。いつまでもワニさんとの邂逅の余韻に浸っている訳にはいかない。
これからどうすればいいんだろう?
自由度の高いオープンワールドであるようだが、高すぎて何をしたらいいのかわからないぞ。
少し通りを歩いてみるかと、私は高い石壁によって光の遮られた路地から足を踏み出した。ワニさんの穏やかな優しさが、この新しい場所への抵抗感を格段にやわらげたのは確実だった。
雨は依然降り続いていたが気になるほどでもなく、私はゆっくりと往来を進んだ。通りは真っ直ぐに長く、人々のカラフルで新鮮味に富んだ頭の波の先は空に続いている。誰も私を気にするものはいない。これだけ雑多な格好が集まる場所なら、Tシャツにジーンズなど目立ちようもない。
左横を歩く、猫っぽい耳に長いしっぽの女性と、馬っぽい耳に長いたてがみのような髪の二人組が放つ言葉に耳を澄ませてみる。
「だからね、私、出せる金額を伝えて、一番おすすめの組み合わせにしてって頼んだのよ」
やはり知らない言語なのに、スムーズに内容が頭に入ってくる。
「なるほどね! 沢山あって迷っちゃうって聞くけど、そういう買い方もできるのね」
「そうそう、実は前に並んでた子がそう言ってたから私も真似しちゃったんだけど。それで…… 人気のあるやつとか、最近の新商品とか…… あと甘いやつがいいって伝えて、そういう味のも」
「へえ! 良いじゃない! 甘いやつ私も食べてみたいなあ、今度行ってみようかな」
「良かったら一つ持っていく?」
「悪いよ、大丈夫。ありがと」
「良いのよ、この前ガラのジュースを奢ってもらったわ」
「ああ…… それじゃあ、うん、もうちょっとでお昼だし…… 昼食にするわ。また感想を教えるわね」
横目でちらりと見ると、私に近い側を歩く猫耳の女性が、抱えた大きなバスケットからペーパーナプキンらしきものに包まれたパンを取り出すところだった。グラニュー糖のような粒がまぶされていて、所々フルーツのような果肉が見え隠れしている。
もう一方の女性が、それを大事そうに受け取り、嬉しそうな笑顔を見せる。
「ええ、じゃあ、また」
「うん、ほんとにありがと!」
そう言い交わして彼女たちは小さく手を振り合った。
馬耳の彼女は足先を左に向け、流れを横切るようにどこかへと埋もれて行ってしまう。残されたもう一方はバスケットを抱え直し、足早に私を抜かして行った。
バスケットにかかった麻布が、私の目を一瞬捉える。馬車のシルエットのロゴのようなものが描かれていた。
添えられている飾り文字を読む前に、風が布をぱたりと折った。
午前中の用事を終わらせたところで、ばったり会った友人同士といったところだろうか。
二十才くらいに見えた。気安い仲そのものである。学校ーーがあるのかどうかはわからないが、そういう場所の仲間か、同僚か……
そして「友人」というものに思考が飛んだ時、ふと、スマホの存在を思い出した。
そう言えば家を出た時にスマホは持っていたっけ? 位置検索系のアプリを使えば、ここがどこだかわかるかもしれない。
思いついてポケットに手を突っ込んでみるが、そこにあったのは財布と家の鍵だけであった。
……いや、わかってはいた。
最初から明らかにそこにスマホの重みは存在していなかった。誕生日の件を一旦忘れようと、寧ろ積極的にスマホを忘れて出たのだった。
何となく財布を取り出す。
保険証、それと何枚かのポイントカードが入っているだけだ。免許証は失効している。入院中更新に行けず、そのまま放置してしまっていた。それが就職先の選択肢を著しく減らすことは十分に予期できていたし、手続きなりなんなりしなければと焦ってはいたが、なんというか……
いや、今はそれは良い。札と小銭をあらためる。大した金額は入っていないが、このお金、使えるんだろうか?
無理そうな気がする。樋口一葉はちょっとこの世界観には馴染まない。
今はまだ、例えばそんなに腹も減っていない。
急に塗り変わった眼前の世界に胃やら腸やらが驚いて…… というかこの光景に腹がいっぱい、目や耳からの情報を処理するのに体が精一杯といった調子であるためだろう。しかしいつまでもそうは居られまい。
「昼」の次にはきっと「夕方」が訪れ、そして「夜」がそれに続く。
ここが春、そう、今露出した腕を撫でる心地良い外気を私の知っている季節のものとそのまま信じるとして、初春の夜は意外と早い。冷えるかもしれない。その時までに目が覚めなかったら、どうしたらいいのだろう。夢の中なら腹も空かないというのなら、それはそれで良いが……
ちょっとずつ街のざわめきに慣れ、若干の心配に頭を支配されつつも目的なく、しかしきょろきょろと歩くことしばし。
奇妙なことに気付いた。文字に関してである。
先程から耳の中で発生している不思議な感覚が、どうも目の奥にも存在しているようなのだ。
あまり多くはないが、街の中にはいくつかの文字情報がある。建物の壁面や出入口のプレート、店先の看板、道行く人々が持つ商品受け取り用の紙袋のロゴ。それらの文字列は見たことのない形で綴られている。それにも関わらず、何が書いてあるのかが、理解出来る。
最初に路地から大通りを覗いた時、そう言えばいくつかの店の看板を視認した。あの時から読めていたのだ。その「問題なさ」といくらかの距離、加えて雨による視界のぼやけで、文字の形の違いに気付くことができなかったのだろう。
これは中国語を読んでいるような感じが近いと言えば近いかもしれない。漢字の意味の繋がりで大体の内容が把握できるあの状態が、漢字という既知の記号なしに、もっともっと極めて高い精度で展開されている。
さっぱり知らない言語が、すんなりと読める。
頭に入ってくる。……驚きだ。
アーキ鮮材店、ファン=ナット金物店、服飾雑貨バール。
さて、少し面白くなって、点在する文字に片っ端から目を走らせている内に少し太めの横道を見つけた。
通りもひとところの賑わいを落ち着かせ、次第に大きな商店が減ってきたなと思い始めた矢先である。
ちょうど入口、角のところの建物に、通りの名を示すプレートのようなものが取り付けられているのが分かる。
ルジーア・ストリート。
鉄の、繊細な装飾で縁取られている。その道を折れる人がいたわけではなかったが、まあ宛もない道行だし、入ってみることにする。
足下の煉瓦は色を変えることなく、その先にも続いている。