004 転移
2020/12/09 一部表現を修正
よし、ケーキを買いに行こうかな。
傷口に塩を塗り込む行為ではないかと考えもしたが、とにかく部屋から逃げ出したくて、私は財布を掴んだ。一人きりの部屋がとてつもなく暗く感じて、急に恐ろしくなったのだ。気が弱っているといってもこれは酷いなと自嘲しながら、アパートの階段を降りる。
かんかんかんっと鈍い高音が夜に響いた。暑いのは苦手だが夏の夜の空気は好きだった。思い出の中の自分が、誰か不特定多数の、折々に親しかった人間たちと星空の下、部活の帰り道、或いは残業帰りに美味そうにアイスをかじっている。
そういうあれこれを維持する努力というのは、どういったものが挙げられるのだろう?
スケジュールアプリには何人かの誕生日が登録されているままだった。「こちらだけが祝っているな」と何度か頭をよぎっても、来年は連絡があるかもしれないと思うと執念深く来年の同じ日に同じ名前を登録してしまう。
こういう所が駄目なのかもしれない……
また思考がぐらつき落ちそうになって焦っているうちに、目線の先にぼうっと白い光が見えた。
なんだか必要以上に、今の私には明るく見える。
コンビニは確かにオアシスである。夜に頼もしく光り、私みたいな沢山の情けない男を救っている。
国道に面したコンビニのこちら隣には運送会社のビルが、向こう隣には営業していない銭湯があり、どちらもが駐車スペースを有していないため、ささやかな駐車場を有するコンビニは少し奥まった立地になっている。
従ってまだ店舗そのものは見えていないが、国道に漏れる「営業中」の旗幟鮮明な光が、深い安心感を誘っていた。
運送トラックが出入りする大きなシャッターの前をよたよたと過ぎてお目当ての場所に近付いて行けば、安いもので、気持ちもかなり楽になってきた。
考えてみればこの国ではこんな風に思い立って僅か十数分で、こんなにも簡単に手の込んだケーキを入手できるのだから、捨てたものではないではないか。自分の今の状況は、まあ、取り敢えず置いておいて。
真夜中とは言え、夏休みのど真ん中である。
無事辿り着いたコンビニの前では、学生や若い男女がゴミ箱の前でコーラを飲んだり買ったばかりであろう食玩のパッケージを開けたりしている。駐車場には何台かの車が停まっていた。黒い車のボンネットに店内のLEDが歪んで反射している。車のことは良く分からない。しかし美しく磨きあげられていることはわかった。
どんなケーキがあるだろうかと考えつつ、入口のドアに手を伸ばす。「店内の温度維持にご協力ください」のシールを目に入れるともなく入れ、その時。
ふと、羽音が聞こえた。
気になってーーというより、ほとんど反射のように目線を上げる。
少しずれた眼鏡を押し上げ、僅かに目を細めると、上空で一羽の鳥が旋回しているのが見えた。
カラスほど大きくはない。スズメほどの小さな鳥だということくらいはわかるが、コンビニの明かりはその鳥の腹を照らすばかりで、翼が見えないことには種類までは判別できない。
何となく、夜にこんな風に小さな鳥が飛んでいるのを見るのが珍しい気がして、暫く間の抜けた顔でその動きを目で追う。
ドアが開く音がして、体格のいい男が店内から出てくる。
ぼけっと突っ立っている自分に気付き、慌てて脇に避けた。店内に入るタイミングを逃してしまい、もう一度夜空を見上げる。
その鳥が描く円は、どこかいびつだった。飛ぶ高さも一定でないように見える。不思議な軌跡から目が離せない。あまり詳しくはないが、あれは本当に正しい動きなのだろうか?
……何か羽に不具合でも起こしていそうに見える。
その内、鳥は旋回をやめ、ゆらゆらとあらぬ方向へその嘴の方向を変えた。高度もみるみる下がってくる。まるで鳥類とは思えないような、機敏さの欠けらも無い動きだ。
何度かゆっくりと羽を震わせると、小鳥はちょうど私がやって来たのとは逆の方向、つまり銭湯の方へと向かってゆく。
……私が見ているその間にも、やはり動きは不安定なのである。
ただ、墜落しそうには見えなかった。なんとなく、それはそれでどうにかなっている様な、騙しだまし目的地に向かって進んでいるような、言い様のない奇妙な印象を携えて飛ぶ。
自然に、足は鳥を追っていた。
小さな影が、駐車スペースから離れ、店舗横の倉庫と銭湯の間にある、路地のような道に入ってゆく。細長い星空。電灯もなく、近所に住む私でも存在を知っているだけでどこに繋がっているのか知らないような小道だが、多少迷子になろうと住み慣れた街、問題は無いだろう。
遠くなったコンビニの明かりが、一瞬翼の根元を照らした。なんの鳥だろう。もう目線の高さほどの低空飛行だ。スピードもかなり遅い。走りもしていない私が、いつの間にか追いついて、腕の長さひとつ分の距離である。路地の仄かな暗闇に、羽の音が響く。夏の夜の、甘い香りがする。
その時、ゆらっと鳥の形の黒い塊が揺らぎ、小さな体が一層高度を下げた。「あっ」と思う。恐らく大丈夫だろうと頭で思いはしたが思わず足に力が入り、ついそのまま手を伸ばす。直後、ふわっと一段低いところを流れていた風に掬われるように、小鳥は持ちこたえる。それなのに私の動きは急には止められない。右の手のひらが、包むようにそのざらついた羽に触れた。
瞬きの内に、夜が深くなった。まずそう思った。
まとわりついていた暑さが消えた。僅かに水の感触。
続いて手の中の小さな生命が突然、先程までの動きが嘘であったかのような俊敏さで空に舞い上がった。軌跡だけが見えた気がした。あまりに速くて目ではほとんど追えなかった。羽音は聞こえた。前方から、そして風切り音がして、頭上高く、後方へ。
それを頼りに、振り返る。
粒子のような柔らかな光。
見たことの無い景色。