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002 シーナ

2020/12/09 一部表現を修正

 夏。真夏。

 29歳の誕生日の深夜零時を過ぎ、まだ日の出には遠いが確実に日付は変わったと言わざるを得ない時刻、私は死んだ目でトークアプリの画面を見つめていた。

 登録名は「シーナ」。難読という程の名ではないが、初対面の相手に読み方をたずねられることの多い本名、津場芽椎奈、そのままのあだ名だ。

 ちなみに「つばめしいな、です」と読みを答えれば、芸能人みたいなお名前ですねと返されることも少なくない。名前だけでは女性と間違えられることもままある、洒落た響きの名だ。

 自分でもそれなりに気に入ってはいるのだが、正直なところ現実には完全に名前負けしており、年々自己紹介の愛想笑いに自虐がまじるようにはなってきている。


 とはいえ、家族や多くはない友人、かつての同僚は、皆私をシーナと呼んだ。

 もちろん声だけではそれが表記そのものである「椎奈」なのかカタカナ表記の「シーナ」なのかなどわかるはずもないが、まあ、十中八九カタカナ表記が正しいだろうと思われて、いつの間にかこの手のアプリやソーシャルゲームのアカウント名は「シーナ」で統一するようになっているし、あだ名と言って差し支えないだろうと判断している。

 少し発声し難い名字に比べ呼びやすく、勢いがあり、舌触りの良いこのあだ名はいつだって私の人生と共にあった。


 ……そう、あった。

 過去形である。

 いや、実際私の人生が終わった訳ではないのだが、精神的にはもはやそれに近い状況である。


 年々、誕生日の祝福の規模は目に見えて衰えていた。

 学生時代は仲間内の誕生日にかこつけては飲み明かしたもので、私も盛夏の夜には当然のようにアルバイトを早めに切り上げさせてもらい、安酒を持って自らへの祝いのために夜道を急いだものだった。

 どうにかこうにか四年生大学を卒業し、新卒で入ったのはさほど大きくもない商社だった。医療に関わる仕事がしたかったから、知識のない状態から始めても将来的にそういった関連商品を扱えるキャリアプランのある老舗を選んだ。最初の年は蝉も寝静まった夜更け、二人の同期が会社近くの有名店でお好み焼きを奢ってくれたのだった。

 そこからは、さてどうだっただろうか。


 繁忙期に社の階段を転がり落ちて、風向きは変わった。

 一人で勝手に足を滑らせただけのシンプルな事故だったが両手に抱えていた高価な商材は一瞬で無惨な姿に、私も無事では済まなかった。

 一週間生死の境をさまよったあと病院で目を覚まし、見舞いに来た上司の明らかな寝不足顔を見た時、あれ、もしかして終わったかなと悟ってしまった。

 後は芋づる式である。

 仕事帰りに一度だけ立ち寄ってくれた同期が早口に語ったところによれば、私が担当者との事務的なやりとりで労災の手続きを進めている内に、部長の娘ーー明るく気立ての良い、ヨーロッパ帰りの才女がいつの間にか私のデスクに座り、僅かな私物は一纏めに給湯室脇のロッカーに押し込められたらしい。

 ようやく歩けるようになって、松葉杖をついて会社を訪れた私は、柔らかな笑顔の見知らぬ女性社員に挨拶されて、なるほど私が担当者でも彼女を雇いたいなと納得してしまったものだった。

 縁故採用は理にかなった採用法の一種であるし、席をあけていたのは私だ。


 何だったのかと、ほんの少しは思った。

 それなりに頑張ったつもりではあったんだけど、そうか、クビか。

 恨む気にはなれなかった。私が悪くないのと同様に、誰も悪くない。私が至らなかったのと同様に、皆に耐え症がなかったのだ。誰を責められようか。

 何より短い時間でもその場所は既に私の居場所になっていた。その場所がそうでなくなるとしても、間違いなく楽しかったと思えるような、そんな日々を過ごした場所を、恨みたくはなかった。

 ドアの前でふたことみこと挨拶をすれば、皆が私から目線を逸らした。私はこの会社とあなた方を、あなた方が思うよりも愛している、多分、これからも。思ったけれど、もちろん空気を読んでそんなことは言わなかった。


 色々考えて入った会社だった。

 やりたいこともあったし、道筋も見えていた。内定を貰ってすぐ、アルバイトも同業種に変えていたのだ、入社したら早く仕事を覚えたかったから。

 ……階段事故さえなければと思わないでもなかったが、そんな事を言い出したらこの世界そのものを許容できなくなりそうではないか。


 塞ぎ込んだ日々の最初の方は焦りと裏腹に退屈だった。

 彼女もできたことがないし、学生時代からの友人も皆、平日はつかまえられない。休日だって私の辛気臭い話を聞く気にはならないだろう。足も痛い。肋も少し。

 結局、完治までには相当な時間を要した。また就職活動かと思うと嫌気もさしたが、何かをやっていないと落ち着かなくなり、あいた時間を使って資格も習得した。


 しかしそうこうしている内に、着実に友人は減少した。

 僅かな卑屈さがこちらから連絡を取るのを躊躇わせ、飲みに行く服がないなどとほざいていたら、本当に何を着て友人に会えばいいのかわからなくなってくるものであるという、知りたくもなかったことを知ったのもこの頃だったように思う。

 それでも履歴書を書きながら携帯を揺らした「誕生日おめでとう」のメッセージにちょっと泣いてしまったのは良い思い出だ。

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