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016 二人の街人

「ちょっと待っててね、っと、すみません!」


 続けて少女に、そして入口と反対方向の暗闇に向かってそう声を掛ける。

 涙の染みた糸が引き絞られるが如く張り詰めていた空気が、一気に緩んだのがわかった。


「はい、はい」


 ゆったりとした返事に合わせて、距離感の掴めないどこかからガタガタと、恐らく重量のある椅子か何かが木の床を叩き滑る音がする。

 店主を呼びつけるつもりの台詞ではなかったので、慌てて言い募る。


「あ、いや、今そちらに……」

「こっちです!」


 突如、僅かな快活ささえ感じさせる声を上げながら、私の半分の背丈ほどの小さな塊は身を翻した。

 子供は気持ちの切り替えが早い。

 見えないはずの暗闇で、ぱさりと鳴る髪が、まるで雨の気配を感じさせない爽やかさでその動きに追従するのが見える気がした。


「ちょ、ちょっと待っ」


 慌てて彼女を追いかける。


 ざりざりと、幾度か肩やら脛やらを凹凸の激しい疑似壁に擦り付ける私とは対照的に、本当に同じ場所を歩いているのか疑わしいくらいに美しくするすると、彼女はまるで黒猫のように店の奥に進んでゆく。

 不安だ。如何にも値打ちのある品を落としたり傷付けたり割ったりしそうだ。

 それでも私は自分で思っているより暗い場所に強かったらしい。体を捻っては脇腹をつらせそうになりながら、どうにかこうにかその背中の形の影を見失わずにいることに成功していた。


 あまり広い店ではない。

 すぐに私たちは少しひらけたーーと言っても背の高い棚が存在しないというだけで床にはやはり古書や大小様々な箱の塔が乱立しているーー場所に出た。

 数刻前、違う道の先で飛び込んだ臙脂色のカーペットの宿で見たものと似たランプの炎が、頼りなげに揺れている。

 想像していたような会計台はなかった。ただ、がっしりとした作業机と椅子があるのみだ。


「どうも……」

「いらっしゃい」


 年輪の浮く机の天板の上にはバスケットが乗っている。

 盛られた果実を視界に入れつつ、私はようやく姿を見ることが叶った、この非凡な空間の創造主に月並みな言葉を掛けた。ほとんど同時に彼も平凡な言葉を発する。

 仄かな灯りの中に妙な空気が流れ、黒い猫耳をちょっと垂れさせた少女がくすりと笑った。


 店主は、声から想像していた通りの見た目をした御仁だった。

 初老の痩せ型。白髪混じりで雑に撫でつけられた前髪。奥まった瞳は頑固そうな光を湛えてはいるが、目じりの皺の形に愛嬌を感じる。動物耳は見当たらないし、姿かたちも人間そのものだ。腰に巻いたエプロンのポケットに、ハタキのようなものを無造作に突っ込んでいた。


「えーと……」


 どこから話せばいいのだろう。

 まごついていると、少女が促すように店主を見遣った。顔見知りとしか思えない、親しげな表情だ。

 良かった、任せて大丈夫そうだ。


「お客さん、傘をお持ちだとか」


 彼女の言外の要請を受け、すかさず彼は的確なフォローを入れてくれた。有難い。


「そう、そうなんです。そこの生花店で借りた貸傘で、今は入口の傘立てに入れてます。このお店にお返しすることはできますか?」


 すぐさま、店主は言う。


「カロリー生花店かね?」

「確か…… はい。この道のすぐの所の。さっき通った時はもう閉まっていて……」


 私は深いセピア色をした塊たちの砦の中、青々しい店舗を思い浮かべ、人差し指でその所在地を示そうと試みた。

 恐らくこの作業机は入口に対して並行に置かれているだろう。とすると、こっちの方、かな? あまり自信がないなりに私の爪ははっきりとひとつの方角を選んだが、店主の視線はその先ではなく私の瞳に向いていた。小さく頷いている。


「花柄のやつかね?」

「そうです、大きなピンクの……」


 もはや結構な愛着を感じ、私にもそれなりに似合っているのではと思い始めていたあの華やかな傘を心に描き、いらえを返す。

 彼は頭髪と同じくまだらな白に彩られた眉を少し上げて、もうあと二回、ゆっくりと上下に首を振った。


「もちろんお返し頂けます」


 ぴょこんと黒い耳が跳ね、私の目の端をくすぐった。

 白い丸襟、灰色の短いワンピースの裾から、同じく黒いしっぽが左右に揺れている。嬉しそうでなにより。


「ではお返しします。この子を送ってあげてください」

「お客さんはどうされます」

「私は少し走るだけなので……」


 嘘はついていない。「少し走るだけで家に着く」と言ったのではない。「雨中に傘なしの移動をするというのなら少し走るだけのこと」だと言ったのだ。


 少し間があき、私の上半身一帯は老齢の男の瞼の動きで入念にスキャンされたが、結局彼はさらにもう一度、これまでよりも遥かにゆっくりと頷いてから、作業机の上のバスケットを手に取った。


「お兄さん、ごめんなさい……」


 少女のしっぽの動きが少し小さくなった。

 今度は「しょんぼり」とちょっとしわのよった眉間に書いてある。

 猫の目のように変わるという慣用句は、猫の彼女にぴったりだ。表情も仕草もくるりと小気味よく変化する。


「いいんだ、気にしなくて」

「でも、本当にお兄さんは大丈夫?」

「うん。心配いらないよ。えーと、そんなことよりこの店、寄ってみて良かった。何となく目に入ってね……」


 びっくりする。

 私のコミュニケーション力はどこまで底値を弾き出すのか?


「…………それなら、じゃあ、ありがとうございます! あの、ここ、私のお気に入りのお店で……」


 沈黙の後、雨の夜などというものに似つかわしくない、軽やかで弾けるような声音が場の明るさを二、三段階引き上げて、そして私はその発生源に向かって笑顔を見せることができた。二重の理由で、である。一つは彼女が納得してくれてほっとして、もう一つは彼女が気を利かせて信じられないくらい強引な話題転換に乗っかってくれて、だ。

 つまり、この子の方がよっぽど社会性を持った人物だということだ。


「こういう、古いものが好きなの?」

「はい! 妹も一緒によく来ます。自分でなにか買ったことはまだないけど…… お母さんとおじちゃんは仲良しで…… あっ、お母さんも、私が雨宿りしてるならここかなって思ってるかも……」


 私がたどたどしく少女とキャッチボールを繰り広げている間、彼女の買い物かごを提げた店主は作業机の上の紙類を雑に一纏めにし、更に開いていた分厚い書籍を片手で「ずとん」と閉じた。


「お客さん、恩に着ます。さあほら、消し、ます、よ」


 そして言うやいなや、迅速に灯りが落とされる。


「……お兄さん、ありがとうございます! おじちゃんも、ありがとう、それからえっと、おじちゃん、おてすう、を、おかけします! お願いします!」


 可愛らしい号令で私たちは入口に向かって暗闇の中を歩き出す。


 歳の離れた二人の街人が、花で満たされた一つの傘で雨夜を切り開く。ほんの僅か先の未来を想像すれば、私の足取りは軽い。

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